Yuno*

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8/14/2025, 2:01:52 PM

【君が見た景色】

駅前の細い道を抜けると、潮と枯れ草の混じったような匂いが鼻をかすめた。

半年程前から付き合い始めた彼は、歩調を変えずに前を行く。黒髪を無造作に撫で上げ、その横顔は職場で見慣れた寡黙な上司のままだった。

「……この先に、神社がある」

振り返らずに低い声が響く。

「神社ですか」
「ガキの頃、よく遊んだ」

石段を上ると、薄暗いからか夜でもないのに虫の声が境内に満ちていた。社殿の横の大きな木を見上げ、彼は懐かしそうに少し口元を緩める。

「ここ、穴あるだろ。隠れやすくてな。親にも婆ちゃんにもよく探された」

(子供時代を想像すると、なんだかくすぐったい)

賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし二人で並んで手を合わせると、隣の彼は随分長い時間祈っていた。

「……願い事、言ったのか」
「はい」
「俺は秘密だ」
「じゃあ私も秘密です」

そう言って、目を合わせて笑った。


坂を下る途中、古びた商店の前で足を止める。

「コロッケ、まだ売ってるかな」

暖簾をくぐり、すぐに紙袋を片手に戻って来た。

「ほら。熱いから気をつけろ」

手渡された袋から湯気が立ち、指先まで温まる。一口かじると、ほくほくと甘い芋の味が広がった。

「……おいしい!」
「だろ」

彼は自分の分を頬張りながら、私の口元についたパン粉を親指でそっと拭った。
唐突な仕草に息が止まりそうになる。

「……付いてた」

顔を逸らし表情は隠しても、耳が赤く見えた。


夕暮れ、彼の母校に着くと空は朱色に染まっていた。フェンス越しに見えるグラウンドを眺め、彼が呟く。

「ここで毎日走らされてた。……嫌だったけど、今思えば悪くなかった」
「どうしてですか?」
「疲れて帰ると、よく眠れたからな」

並んで沈黙していると、彼がこちらを見詰めていた。

「こういう景色、アンタに見せたかった」

その言葉に返事を探している間に、彼の手が私の手を軽く握る。

(優しくて、温かい)


帰り道、商店街の灯りがぽつぽつと灯る中、彼は歩幅を合わせてくれる。

「……寒くないか」
「大丈夫です」
「ならいい」
「でも最近朝晩は、だいぶ涼しくなってきましたね」

駅に着くまで、繋いだ手はそのままだった。
街灯の下、彼は髪を撫で上げ、低い声で言う。

「今日は……アンタを連れて来て良かった」

胸の奥が熱くなり、ただ頷く。
すると、彼は小さく笑みを浮かべ、視線を絡めたまま続けた。

「……これからも、時々付き合えよ。一緒に見てくれ。俺の生きてきた場所」
「はい。また一緒に」

(ああ、そういう事だったのか)

今日は、故郷の思い出と彼の生きてきた軌跡を辿る旅だったのだと理解した。
かつて彼が見てきた景色を、空気を私と分かち合おうとしてくれていた――そう思うと、嬉しさが込み上げる。

「連れて来てくれて、ありがとう……」

繋いだ手を彼は優しく自分に引き寄せる。
夕闇の中で、互いの鼓動だけが響いていた。



8/13/2025, 8:24:25 PM

【言葉にならないもの】

まだ東の空が白む前。
ふと目を覚ますと、妻が寄り添い目を閉じていた。
呼吸は浅く、その指先はそっと俺のシャツの袖口をつまんでいる。寝言のような、いつもより小さく甘い声で彼女は俺の名を呼んだ。

(……寝た振りだな)

返事の代わりに彼女の額に唇を落とすと、俺の胸に顔を埋めて彼女が「ふふ」と小さく笑った。長い髪から覗く耳がほんのり赤く、俺は妻の狸寝入りを確信した。


結婚して一週間。
交際中に同棲はしていなかったからだろうか、朝はまだちょっと照れ臭く、互いにぎこちない。
それでいて自分の生活の中に、徐々に彼女の全てが溶け込んで混ざっていくような、穏やかで優しい、何とも言えない不思議な感覚の日々だった。

肌を重ねる事も、言葉で交わす愛情も、勿論大切だ。
けれど、同じ夜を同じ呼吸で過ごし朝を迎える事――その積み重ねこそが、夫婦である事の証のように思える。
これから先何年、何十年と俺達は朝を、他愛ない日常をこうして重ねていくのだろう。
誰に語る事もない、言葉にする必要もない二人だけの歴史を。
その幸せな予感は、夜明けの光より俺の胸を温かくしたのだった。

6/26/2024, 3:20:19 PM

【君と最後に会った日】

彼女と会うのはこれで最後だと、俺は視覚、聴覚、触覚、嗅覚、その全てで彼女を記憶に刻み付ける。
艶やかで癖の無い絹糸の様な美しい黒髪、不安そうに潤んで濡れた瞳、紅く柔らかい小さな唇、そこから紡がれる耳に心地好い声。少し力を込めたら壊れそうな儚げな身体、滑らかな肌。香水とも石鹸の類とも違う、肌や唇が重なり合った時にしか判らない彼女だけの仄かな甘い匂い。その全てが、今夜は愛おしく思える。
―――口にした事は無かったが、綺麗な女だと改めて思う。

それでも俺がこれから人生を掛けて立ち向かうべき運命に、この女は必要ない。巻き込む事は出来ない。
そもそも俺達は恋人同士じゃない、内に潜む孤独感を持ち寄り互いに慰め合っていただけなのだ。恋愛とは違う。
だから、まるで擬似恋愛みたいな俺のこの甘ったるい感傷も、彼女ごと全て切り捨てるべきなのに……
最後に一度だけ、今夜この一時だけでもいい、彼女の男になりたい。そう強く思ってしまった。

(嗚呼そうか、やっぱり俺……)

どれ程頭で“慰め合い”だ何だと心を否定し誤魔化そうとした所で、結局俺は端から彼女を愛していたのだと思い知る。
こんな別れの直前に、己の本当の気持ちを理解するなんて愚かにも程があるけどな。


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※彼女=2023/5/19 お題【突然の別れ】の『私』

5/3/2024, 3:57:00 PM

【二人だけの秘密】

ねえ、お願いがあるの。

かつて私と貴方の想いが通じ合っていた証が、二人だけの秘密が欲しい。
結ばれなくても、もう二度と会えなくても、その秘密さえあれば貴方への愛と思い出を胸に秘め、貴方の幸せを願いながらこれからも生きていけると思うから。
だから私の最初で最後のわがままを聞いて欲しいの。他には何も要らない。


そう涙ながらに訴えると、優しい彼は私を抱き寄せて唇で応えてくれた。
互いの想いを伝え合い、そしてその全てを封印するかのような甘くて苦いキスが……二人だけの秘密。

3/31/2024, 12:31:52 PM

【幸せに】

時間を持て余し、俺は居眠りをしてしまったらしい。


夢を見ていた。

俺がただ、彼女が見守る中で眠っている幸せな夢。
夢というよりは、自分の中にある一番の優しく幸せな記憶、という方が正しいのかも知れない。
彼女の前では安心して眼を閉じる事が出来る。彼女の側に居るだけで、心が暖かいもので満たされていく。
この穏やかな時間を、自分の手で守り育てたい……そんな感情と、愛しい存在を俺は得たのだ。
俺の人生の中で、それはほんの数ヶ月だったけれど。
確かに俺は幸せだった。

けれど全てが遅過ぎた。

何故そんな事が許されるというのだ。人を殺めた、この俺に―――

俺は己の愚かさ故に、彼女の微笑みや暖かな温もり、あの穏やかで優しい声……その全てを切り捨てなければならない。今の自分はもう、彼女の、いや誰のどんな愛情にも値しないのだから。
俺はそれだけの事をしたのだ。
でも彼女は違う。いつか違う幸せを、愛を掴める日が来る。

だからこそ、この先俺に関わらせてはいけない。万が一にも犯罪者の恋人なんて、彼女が世間の好奇な目に晒される事などあってはならないのだ。


「今度こそ……さよならだ」


アンタと会えて良かった、と心の中で呟く。
早く俺の事は忘れて、幸せに。


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※彼女=2023/8/25お題【やるせない気持ち】の『私』

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