【きっと忘れない】
夕陽が落ち掛けた公園に、蝉の声がまだ残っていた。長い影が地面に伸びている。
隣に座る彼女の呼吸は、どこかぎこちない。
俺は髪を撫で上げ、わざと視線を空に向けた。こうすれば、少しは余裕があるように見えるだろうか。
(……もう、察してる)
ここ最近の彼女は、俺と話すときにどこか遠くを見ていた。目を合わせてもすぐ逸らす。
その仕草が答えだった。
「……話って?」
声に出した瞬間、ざわついていた胸の奥が冷えていく。いくら予想出来ていても、やっぱり少しだけ痛い。
「私……好きな人が、できたの」
その言葉は自棄に素直で、残酷で。
俺は顔を空に向けたまま、夕陽の赤を目に映す。
「……だろうな。最近のお前を見てれば、分かる」
責めても意味はない。
俺は、こいつが隣で笑っていればそれでいいと思っていた。けれど俺の不器用な手の中に縛り付けるより、自由でいる方が似合ってるのかも知れない、とも思う。
「俺はさ」
ようやく彼女を見た。瞳は揺れている。涙を堪えている彼女の顔を、焼き付けた。
「お前が笑ってりゃ、それで良かった」
自分でも驚く程、言葉があっさり出る。
「でも、私……」
「いい。悩んで考えて自分で出した答えなら、それで」
これ以上、彼女に罪悪感を背負わせたくなかった。
俺から解き放つ事くらいしか、最後に出来る事はない。
静かになった。
蝉の声が遠くに聞こえる。
「……怒らないの?」
その問いに、俺は口の端を僅かに上げた。
「怒ってどうすんだ。怒ってお前の気持ちが戻るのか? ……違うだろ」
口にした瞬間、ふっと胸の奥が空っぽになるような感覚に陥った。
手を伸ばせばまだ触れられる距離のはずなのに、もう二度と届かない事も理解した。
髪を撫で上げて、視線を落とす。
もうこれ以上隣にはいられない。
(……このままじゃ、みっともなく縋ってしまいそうだから)
俺は夕陽に背を向け立ち上がった。
「最後に一つだけ」
振り返ったとき、彼女の目は涙に濡れていた。
「俺は、お前をちゃんと好きだった」
本当は「今も」と言い掛けたが、呑み込んだ。言えば未練になる。
「……今までありがとう」
彼女の震える返事を背に、歩き出した。振り返る事はない。
静けさの中で、ようやく涙が頬を伝った。
俺は目を閉じ、彼女との思い出を辿る。
初デートも、喧嘩も、笑顔も、柔らかな声も、分かり辛い優しさも、楽しかった日々も、今日の痛みもきっと忘れない。
そして、全て胸の奥にしまい込む。
戻れない恋の痛みと共に。
【終わらない夏】
夜の河川敷は、湿った草の匂いに包まれていた。縁日の赤い提灯が揺れ、遠くで太鼓の音が鳴っている。
俺は隣を歩く彼女をちら、と見た。浴衣姿の彼女は、提灯の下でやけに柔らかく輝いて見える。
「……暑くねえか」
そう言ってみるが、実際に気になっていたのは彼女の頬が少し紅潮している事だった。
「大丈夫です。花火、楽しみですね」
控えめに笑う。その穏やかな声に混じる期待が、俺の胸をざわつかせる。
人混みを抜け、堤防に腰を下ろした。川面を渡る風が浴衣の袖を揺らす。
やがて空が白く光り、大きな音が夜を裂く。火花が開き、赤や青の光が彼女の瞳に映り込む。
「……綺麗ですね」
彼女が空を見上げたまま言う。
俺は返事をしない。
ただ、その横顔に目を奪われていた。
髪を撫で上げる癖がまた出る。湿気で額に張りついた前髪をかき上げる指先は落ち着かない。
けれど、隣に彼女がいるだけで胸が苦しくなる。
花火の音にかき消されるのをいい事に、ぽつりと声が漏れた。
「……俺、お前が好きだ」
一瞬で、時間が止まったように感じた。けれど彼女はすぐに振り返り、目を見開いて俺を見る。
「先輩……」
小さく呼ぶ声。夜風よりもずっと弱く頼りなく響いた。
「前から、ずっと……気付けば、目で追ってた」
視線を逸らさずに、正面から想いをぶつける。
冷たいだの、一匹狼だの、周りが勝手に付けた言葉に囚われなかった彼女だから、きっと伝わると――
花火が夜空で散る。その光に照らされながら、彼女はほんのりと頬を赤く染める。
「私も」
その声は震えていたが、確かな意思を含んでいた。
「……先輩のこと、好きです」
胸の奥で、何かが解ける音がした。
ずっと押し殺してきた感情が、やっと呼吸を得たように膨らんでいく。
「そっか」
短く言って、俺は少し笑った。笑い方を忘れているかのような、ぎこちないものだったけれど。
だが彼女が笑い返すと、少しずつ自然に形が整っていくのを感じた。
彼女の指に、そっと自分の指を重ねる。驚いたようにわずかに動いたが、拒む事なく握り返された。
火薬の匂いと人々の歓声に包まれながら、二人だけの世界がそこにあった。
大輪の花火が夜空いっぱいに広がる。その光に照らされた彼女の笑顔を、俺は心に焼き付けた。
――終わらない夏が、ここから始まる。
【遠くの空へ】
ガラス張りの天井から差し込む光は、白い床を柔らかく照らしていた。喧騒に満ちた空港の一角で、私は彼と並んで立っている。
(留学かぁ。イギリスなんて遠いよ……)
出発までの残り時間は、僅かだとアナウンスが告げていた。
「……案外時間なかったな」
彼は深く息を吐き、肩に掛けた革のバッグを軽く直した。
その仕草は落ち着いていて、見送る私の胸の奥だけが密かにざわめく。
子供の頃から憧れて、ずっと背中を追い掛けてきた。でも追い付けそうになると、引き離されてしまう気がする。
「身体に気を付けて下さいね」
自分でも驚くほど声が硬かった。彼はすぐに目を細めて小さく笑う。
「何で急に敬語になるんだよ」
眼鏡の奥の眼差しは優しい。
冗談めかした言い方なのにからかう気配はなくて、何故だか胸が苦しくなる。
「だって、私まだ高校生ですし」
「もう受験生、だろ」
彼は少し考えるように視線を落とし、それから私の髪を一房指先で軽くすくい、唇を寄せた。
「君は、もう子供じゃない」
ぽつりと呟くその一言に、胸の奥の苦しさが増してゆく。
(……どうしてそんな事言うの。今までずっと、“子供扱い”してた癖に)
問い掛けたいのに、勇気が出ない。代わりに、強く瞬きをした。
出発のアナウンスが重ねて響き、彼が搭乗口へと向かわなくてはならない時間が迫ってくる。
「もう、行かなくちゃですね」
泣かずに、笑顔で見送ろう。
そう思ってわざと明るい声で言い、顔を上げると、彼は真っ直ぐに私を見ていた。
「……日本に戻って来たら、もう一度話したい」
「話、ですか?」
「そう。君がもう少し大人になった時に、伝えたい事があるんだ」
心臓の音がどくん、と大きく鳴った。
言葉の意味を問い掛けたくても、彼の瞳の静かな決意に、言葉が喉の奥から出て来ない。
彼は大きな掌で私の肩を包み、握り込むように少し力を込めて、私を引き寄せた。
別れの代わりの、短い抱擁。
「じゃあ、行ってくるよ」
「……行ってらっしゃい」
彼が背を向け、搭乗ゲートへと歩き出す。人混みに紛れても長身の彼は凄く目立っていた。
姿が見えなくなるまで振っていた手を、私は胸の前でぎゅっと握りしめた。
(笑顔は無理だったけど、泣かずに見送れた)
窓の外、遠くの空へ向けて機体が動き出す。
もう二度と会えないわけじゃない。分かっていても、明日から彼がいない現実が一気に胸に押し寄せてくる。
それと同時に、視界が滲んで――結局、泣いた。
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両片思いのまま離ればなれ、なイメージ
【君が見た景色】
駅前の細い道を抜けると、潮と枯れ草の混じったような匂いが鼻をかすめた。
半年程前から付き合い始めた彼は、歩調を変えずに前を行く。黒髪を無造作に撫で上げ、その横顔は職場で見慣れた寡黙な上司のままだった。
「……この先に、神社がある」
振り返らずに低い声が響く。
「神社ですか」
「ガキの頃、よく遊んだ」
石段を上ると、薄暗いからか夜でもないのに虫の声が境内に満ちていた。社殿の横の大きな木を見上げ、彼は懐かしそうに少し口元を緩める。
「ここ、穴あるだろ。隠れやすくてな。親にも婆ちゃんにもよく探された」
(子供時代を想像すると、なんだかくすぐったい)
賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし二人で並んで手を合わせると、隣の彼は随分長い時間祈っていた。
「……願い事、言ったのか」
「はい」
「俺は秘密だ」
「じゃあ私も秘密です」
そう言って、目を合わせて笑った。
坂を下る途中、古びた商店の前で足を止める。
「コロッケ、まだ売ってるかな」
暖簾をくぐり、すぐに紙袋を片手に戻って来た。
「ほら。熱いから気をつけろ」
手渡された袋から湯気が立ち、指先まで温まる。一口かじると、ほくほくと甘い芋の味が広がった。
「……おいしい!」
「だろ」
彼は自分の分を頬張りながら、私の口元についたパン粉を親指でそっと拭った。
唐突な仕草に息が止まりそうになる。
「……付いてた」
顔を逸らし表情は隠しても、耳が赤く見えた。
夕暮れ、彼の母校に着くと空は朱色に染まっていた。フェンス越しに見えるグラウンドを眺め、彼が呟く。
「ここで毎日走らされてた。……嫌だったけど、今思えば悪くなかった」
「どうしてですか?」
「疲れて帰ると、よく眠れたからな」
並んで沈黙していると、彼がこちらを見詰めていた。
「こういう景色、アンタに見せたかった」
その言葉に返事を探している間に、彼の手が私の手を軽く握る。
(優しくて、温かい)
帰り道、商店街の灯りがぽつぽつと灯る中、彼は歩幅を合わせてくれる。
「……寒くないか」
「大丈夫です」
「ならいい」
「でも最近朝晩は、だいぶ涼しくなってきましたね」
駅に着くまで、繋いだ手はそのままだった。
街灯の下、彼は髪を撫で上げ、低い声で言う。
「今日は……アンタを連れて来て良かった」
胸の奥が熱くなり、ただ頷く。
すると、彼は小さく笑みを浮かべ、視線を絡めたまま続けた。
「……これからも、時々付き合えよ。一緒に見てくれ。俺の生きてきた場所」
「はい。また一緒に」
(ああ、そういう事だったのか)
今日は、故郷の思い出と彼の生きてきた軌跡を辿る旅だったのだと理解した。
かつて彼が見てきた景色を、空気を私と分かち合おうとしてくれていた――そう思うと、嬉しさが込み上げる。
「連れて来てくれて、ありがとう……」
繋いだ手を彼は優しく自分に引き寄せる。
夕闇の中で、互いの鼓動だけが響いていた。
【言葉にならないもの】
まだ東の空が白む前。
ふと目を覚ますと、妻が寄り添い目を閉じていた。
呼吸は浅く、その指先はそっと俺のシャツの袖口をつまんでいる。寝言のような、いつもより小さく甘い声で彼女は俺の名を呼んだ。
(……寝た振りだな)
返事の代わりに彼女の額に唇を落とすと、俺の胸に顔を埋めて彼女が「ふふ」と小さく笑った。長い髪から覗く耳がほんのり赤く、俺は妻の狸寝入りを確信した。
結婚して一週間。
交際中に同棲はしていなかったからだろうか、朝はまだちょっと照れ臭く、互いにぎこちない。
それでいて自分の生活の中に、徐々に彼女の全てが溶け込んで混ざっていくような、穏やかで優しい、何とも言えない不思議な感覚の日々だった。
肌を重ねる事も、言葉で交わす愛情も、勿論大切だ。
けれど、同じ夜を同じ呼吸で過ごし朝を迎える事――その積み重ねこそが、夫婦である事の証のように思える。
これから先何年、何十年と俺達は朝を、他愛ない日常をこうして重ねていくのだろう。
誰に語る事もない、言葉にする必要もない二人だけの歴史を。
その幸せな予感は、夜明けの光より俺の胸を温かくしたのだった。