【君が見た景色】
駅前の細い道を抜けると、潮と枯れ草の混じったような匂いが鼻をかすめた。
半年程前から付き合い始めた彼は、歩調を変えずに前を行く。黒髪を無造作に撫で上げ、その横顔は職場で見慣れた寡黙な上司のままだった。
「……この先に、神社がある」
振り返らずに低い声が響く。
「神社ですか」
「ガキの頃、よく遊んだ」
石段を上ると、薄暗いからか夜でもないのに虫の声が境内に満ちていた。社殿の横の大きな木を見上げ、彼は懐かしそうに少し口元を緩める。
「ここ、穴あるだろ。隠れやすくてな。親にも婆ちゃんにもよく探された」
(子供時代を想像すると、なんだかくすぐったい)
賽銭を投げ入れ、鈴を鳴らし二人で並んで手を合わせると、隣の彼は随分長い時間祈っていた。
「……願い事、言ったのか」
「はい」
「俺は秘密だ」
「じゃあ私も秘密です」
そう言って、目を合わせて笑った。
坂を下る途中、古びた商店の前で足を止める。
「コロッケ、まだ売ってるかな」
暖簾をくぐり、すぐに紙袋を片手に戻って来た。
「ほら。熱いから気をつけろ」
手渡された袋から湯気が立ち、指先まで温まる。一口かじると、ほくほくと甘い芋の味が広がった。
「……おいしい!」
「だろ」
彼は自分の分を頬張りながら、私の口元についたパン粉を親指でそっと拭った。
唐突な仕草に息が止まりそうになる。
「……付いてた」
顔を逸らし表情は隠しても、耳が赤く見えた。
夕暮れ、彼の母校に着くと空は朱色に染まっていた。フェンス越しに見えるグラウンドを眺め、彼が呟く。
「ここで毎日走らされてた。……嫌だったけど、今思えば悪くなかった」
「どうしてですか?」
「疲れて帰ると、よく眠れたからな」
並んで沈黙していると、彼がこちらを見詰めていた。
「こういう景色、アンタに見せたかった」
その言葉に返事を探している間に、彼の手が私の手を軽く握る。
(優しくて、温かい)
帰り道、商店街の灯りがぽつぽつと灯る中、彼は歩幅を合わせてくれる。
「……寒くないか」
「大丈夫です」
「ならいい」
「でも最近朝晩は、だいぶ涼しくなってきましたね」
駅に着くまで、繋いだ手はそのままだった。
街灯の下、彼は髪を撫で上げ、低い声で言う。
「今日は……アンタを連れて来て良かった」
胸の奥が熱くなり、ただ頷く。
すると、彼は小さく笑みを浮かべ、視線を絡めたまま続けた。
「……これからも、時々付き合えよ。一緒に見てくれ。俺の生きてきた場所」
「はい。また一緒に」
(ああ、そういう事だったのか)
今日は、故郷の思い出と彼の生きてきた軌跡を辿る旅だったのだと理解した。
かつて彼が見てきた景色を、空気を私と分かち合おうとしてくれていた――そう思うと、嬉しさが込み上げる。
「連れて来てくれて、ありがとう……」
繋いだ手を彼は優しく自分に引き寄せる。
夕闇の中で、互いの鼓動だけが響いていた。
8/14/2025, 2:01:52 PM