Yuno*

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8/13/2025, 8:24:25 PM

【言葉にならないもの】

まだ東の空が白む前。
ふと目を覚ますと、妻が寄り添い目を閉じていた。
呼吸は浅く、その指先はそっと俺のシャツの袖口をつまんでいる。寝言のような、いつもより小さく甘い声で彼女は俺の名を呼んだ。

(……寝た振りだな)

返事の代わりに彼女の額に唇を落とすと、俺の胸に顔を埋めて彼女が「ふふ」と小さく笑った。長い髪から覗く耳がほんのり赤く、俺は妻の狸寝入りを確信した。


結婚して一週間。
交際中に同棲はしていなかったからだろうか、朝はまだちょっと照れ臭く、互いにぎこちない。
それでいて自分の生活の中に、徐々に彼女の全てが溶け込んで混ざっていくような、穏やかで優しい、何とも言えない不思議な感覚の日々だった。

肌を重ねる事も、言葉で交わす愛情も、勿論大切だ。
けれど、同じ夜を同じ呼吸で過ごし朝を迎える事――その積み重ねこそが、夫婦である事の証のように思える。
これから先何年、何十年と俺達は朝を、他愛ない日常をこうして重ねていくのだろう。
誰に語る事もない、言葉にする必要もない二人だけの歴史を。
その幸せな予感は、夜明けの光より俺の胸を温かくしたのだった。

6/26/2024, 3:20:19 PM

【君と最後に会った日】

彼女と会うのはこれで最後だと、俺は視覚、聴覚、触覚、嗅覚、その全てで彼女を記憶に刻み付ける。
艶やかで癖の無い絹糸の様な美しい黒髪、不安そうに潤んで濡れた瞳、紅く柔らかい小さな唇、そこから紡がれる耳に心地好い声。少し力を込めたら壊れそうな儚げな身体、滑らかな肌。香水とも石鹸の類とも違う、肌や唇が重なり合った時にしか判らない彼女だけの仄かな甘い匂い。その全てが、今夜は愛おしく思える。
―――口にした事は無かったが、綺麗な女だと改めて思う。

それでも俺がこれから人生を掛けて立ち向かうべき運命に、この女は必要ない。巻き込む事は出来ない。
そもそも俺達は恋人同士じゃない、内に潜む孤独感を持ち寄り互いに慰め合っていただけなのだ。恋愛とは違う。
だから、まるで擬似恋愛みたいな俺のこの甘ったるい感傷も、彼女ごと全て切り捨てるべきなのに……
最後に一度だけ、今夜この一時だけでもいい、彼女の男になりたい。そう強く思ってしまった。

(嗚呼そうか、やっぱり俺……)

どれ程頭で“慰め合い”だ何だと心を否定し誤魔化そうとした所で、結局俺は端から彼女を愛していたのだと思い知る。
こんな別れの直前に、己の本当の気持ちを理解するなんて愚かにも程があるけどな。


********************

※彼女=2023/5/19 お題【突然の別れ】の『私』

5/3/2024, 3:57:00 PM

【二人だけの秘密】

ねえ、お願いがあるの。

かつて私と貴方の想いが通じ合っていた証が、二人だけの秘密が欲しい。
結ばれなくても、もう二度と会えなくても、その秘密さえあれば貴方への愛と思い出を胸に秘め、貴方の幸せを願いながらこれからも生きていけると思うから。
だから私の最初で最後のわがままを聞いて欲しいの。他には何も要らない。


そう涙ながらに訴えると、優しい彼は私を抱き寄せて唇で応えてくれた。
互いの想いを伝え合い、そしてその全てを封印するかのような甘くて苦いキスが……二人だけの秘密。

3/31/2024, 12:31:52 PM

【幸せに】

時間を持て余し、俺は居眠りをしてしまったらしい。


夢を見ていた。

俺がただ、彼女が見守る中で眠っている幸せな夢。
夢というよりは、自分の中にある一番の優しく幸せな記憶、という方が正しいのかも知れない。
彼女の前では安心して眼を閉じる事が出来る。彼女の側に居るだけで、心が暖かいもので満たされていく。
この穏やかな時間を、自分の手で守り育てたい……そんな感情と、愛しい存在を俺は得たのだ。
俺の人生の中で、それはほんの数ヶ月だったけれど。
確かに俺は幸せだった。

けれど全てが遅過ぎた。

何故そんな事が許されるというのだ。人を殺めた、この俺に―――

俺は己の愚かさ故に、彼女の微笑みや暖かな温もり、あの穏やかで優しい声……その全てを切り捨てなければならない。今の自分はもう、彼女の、いや誰のどんな愛情にも値しないのだから。
俺はそれだけの事をしたのだ。
でも彼女は違う。いつか違う幸せを、愛を掴める日が来る。

だからこそ、この先俺に関わらせてはいけない。万が一にも犯罪者の恋人なんて、彼女が世間の好奇な目に晒される事などあってはならないのだ。


「今度こそ……さよならだ」


アンタと会えて良かった、と心の中で呟く。
早く俺の事は忘れて、幸せに。


****************

※彼女=2023/8/25お題【やるせない気持ち】の『私』

3/22/2024, 12:15:45 PM

【バカみたい】

俺のクラスに転入して来たアンタは、不自然な程すぐにクラスに馴染んだな。あれは小学校の五年生だったか。
家が近所だからって、俺にも初めからやたら馴れ馴れしくて、俺の親や兄貴にまで取り入って気に入られて。
明るくて、人懐っこくてよく笑う―――だけど行儀は良い、大人受けする女子。


俺はそんなアンタが昔から大嫌いだったんだ。


なんてな。嘘だ、俺はアンタが好きだよ。
嫌いだったのはアンタの笑顔。
明るくて人懐っこくてよく笑う、アンタはただ、皆に好かれるそんな女子にあの頃なりたかったんだろ?

けど卑怯だろ。そうやって人を和ませる柔らかい微笑みの下に、固く閉ざした心を隠し続けていたんだから。

バカみたい。

だってアンタさ、ホントはそんな女じゃないよな。
誰かになんてなれやしないのに、そんなモン演じてみても結局一人で落ち込むだけだろ。
それでも笑っていたかったってのか?
精神どんどん擦り切れてんじゃねえか。

本当バカみたい。実は自分でもそう思ってるよな?

仕方ねえな。疲れ切ったバカで可哀想なアンタに、居場所をひとつやるよ。


「俺にまで無理に笑わなくても良いぜ、疲れるだろ。幼馴染みじゃん俺ら」


アンタの心を解放する言葉。
この時の、俺を見上げる縋り付くような眼が忘れられない。
アンタ余程疲れてたんだな、こんな他愛ない言葉で呆気なく堕ちるなんてさ。


大丈夫、これからは俺の隣に居るだけで良い。ホラ、楽だろう?


そう言うと、アンタは小さく頷いて俺の腕にしがみ付いた。
そうだ、それで良い。
アンタは、素の自分で居られる場所を求め、俺がそれを与えた。
俺は、暗くて人間不信で気怠げな、誰も知らない本当のアンタが欲しかった。
Win-Winだろ?
だからずっと俺の側に居ろ。本当のアンタを理解しているのは俺だけなんだから。

笑わない、誰も知らないアンタが好きなんて、俺も大概バカみたいだけどな。

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