【kiss】
「知ってる? キスする場所には、それぞれ意味があるんだ。もちろん耳にも、首筋にもね」
私の首筋や耳に何度もキスした後、彼が耳許で囁くように言う。
「意味?」
「そう。例えば頬は親愛、瞼は憧れ、手の甲は敬愛、みたいに部位別に意味がある」
「へえ……初耳」
「キミが今、唇以外で僕にキスするなら、何処にする?」
「……引かない?」
「え、待って。キミ何処にしようとしてるの」
「ちょっとだけ上向いて?」
急所だからと細心の注意を払いつつ、私は彼の喉仏にそっと触れるか触れないか……くらいの軽いキスをした。
「私、ずっとここにしてみたかった」
意外過ぎて驚いたのか、彼は言葉もなく瞠目していた。
「急所だし、本当は触っちゃいけないんだろうけど、女にはないものだから。それに私、君の声好きだし」
「引きはしないけど、びっくりした」
「ここにも意味があるのかな……」
「喉仏も含まれるかは分からないけど、喉へのキスも確か意味があるよ」
「教えてくれないの?」
「ん?」
「意味。首筋と耳も私は意味知らないもん、気になる」
「じゃ、耳だけね」
「何でよ」
「後は調べてみろよ。自分で」
「……分かった」
不満気な表情の私を見てフッと笑った彼は、耳許に再び唇を寄せてわざと息を吹き掛けるように囁いた。
「耳へのキスは『誘惑』だ。そんな所にキスしてくる男には気を付けろよ」
「そんな悪い男、君くらいかな」
「悪い男か……そうかもね」
低く笑う彼の声がやけに艶っぽく聞こえる。やっぱり私は彼の声が好きだなと思っていると、耳にまたキスしてきた。
何と反応して良いか分からないでいるうちにキスは頬、鼻と移り、唇にゆっくりと降りてきた。半開きのまま口を固定され、すぐに熱を帯びた舌が入ってくる。捉えられ、絡まり、解放されたかと思えばまた絡まる。
背筋に痺れが走り、私の中を這い上がってくるこのゾクゾクとした疼き。キスから先を待っている身体。
―――なるほど、彼の『誘惑』は大成功って訳か。
【I LOVE…】
人に執着する事なんて、無いと思っていた。
他人に興味は無かったし、特に深入りしたいと思った事も無い。
逆もまた然りで、僕自身他人に踏み込まれたくも無い。
相当排他的な性質なのだと、我ながら思う。
なのに―――全部を捨てるのが急に怖くなって。
いつからだろう?
たった一人で良い、『愛したい』と思うようになった。
そしてこの喉の渇きにも似た思いを、君はその持てる全てで潤そうとしてくれる。
けれど決してそれが満たされる事は無くて。
どうしてだろう?
君の事は好きなのに。
……ゴメンね。
本当はちゃんと、君を愛してみたかった。
【どうして】
料理そのものは多分母親の方が上手だったように思う。例えばそれは技術的なものや、盛り付けひとつとっても。
だがどんなに豪華で綺麗に盛り付けられた飯でも、それを食う俺は独りきりだった。
そんな風に育ってきたから、正直食事なんて空腹を満たす事さえ出来ればそれで良い、その程度にしか思ってなかったんだが。
『……美味い』
『本当? 良かった』
アンタの部屋で、アンタの作る飯を一緒に食うのはどうして、あんなにも美味かったのか。
どうして俺の心は幸せで満たされたのか。
生きる事自体、正直どうでも良いとすら思っていた俺が、初めて知った日常の中の幸せ。
それは、いつも傍らで微笑んでくれるアンタとだから感じる事が出来て、分かち合えたんだな。アンタを喪った今なら判る。
「命日くらい、夢でも良いから俺のとこ来いっての」
嗚呼、アンタの作った飯が食いてえなぁ。
【ずっとこのまま】
しつこいナンパ男から私を救い出してくれた彼は、ちょっと怒った様に無言で私の手を引きズンズンと大股で歩いていく。
私は彼に手を引かれたまま、ただ後ろ姿を見詰めているしか出来なくて。
背は平均より高い方でも、痩せ型でひょろっと手足が長く少し頼りない。そんな印象だった彼の背中が、思いの外広い事を初めて知った。
少しだけ格好良いな、なんて見直したけど、認めるのが何となく悔しい。
(何か言って)
広い背中も、いつにない無口さも、その身に纏う雰囲気も。やはり怒っているのか、その全てが普段の彼とは別人の様で。
何だか調子が狂う。
(こっち向いて)
隙だらけだった私が悪いのは判っている。これからは気を付けなきゃって反省しているから……
(お礼くらい、面と向かって言わせて)
「……キミさぁ、反省してる?」
振り向きもせず、彼は呟くように問う。
「うん」
「なら良いよ。柄にもない説教とか、僕もしたくないから」
「あの、助けてくれて有難う。それと……ゴメン」
返事の代わりに彼は握っていた手に力を込め、私もその手をそっと握り返す。その温もりは、下手な説教なんかよりもずっと、私を安心させてくれた。
ずっとこうして、ずっとこのままこの手を握っていて欲しいと。
この手を離すものかと、初めて思ったんだ。
けれどこの気持ちが、胸の痛みが……この溢れる涙が何なのか、私にはまだハッキリと解っていなかった。
『ああ……私、彼が好きだったのか』
結局その答えが見付かったのはずっとずっと後の事で、彼に二度と会えなくなってしまってからだった。
会いたくて、恋しくて、叶わぬ想いに絶望しながら、それでも彼を思わない日は今まで一日たりともなかった。それなのに―――
私はどうして、あの広い背中しかもう思い出せないのだろう。
【手を繋いで】
翌日眼を覚ますと、僕達はずっと手を繋いだままだった。まだ眠っている彼女に何気なく眼を向けて、僕は心臓を鷲掴みにされた気がした。
透き通る程白い彼女の頬に残る、涙の跡。
(あぁ、君は……僕の代わりに泣いていたのかも知れない)
繊細な彼女にはきっと、繋いだ手から僕の欝屈した思いが伝わってしまったのだろう。
それが例え僕の痛い妄想に過ぎなくても、眼の前の彼女に心が締め付けられ、愛しく思う気持ちに嘘偽りはなかった。
独りで居られたら、なんてどうして思ったりしたのだろう。
彼女が側に居てくれて、僕はどんなに救われたか知れないのに。沢山の思いを優しさを、彼女から貰っていたというのに。
自分が彼女を苦しめてしまったと気付くのは、いつも後になってから。
自分が満たされてからでないと気付けない、僕はそんな年だけを重ね身体が大きいだけの子供なのだ。
情けなくも僕は、彼女が居ないともう一歩も進めなくて―――
でもそれを、こんなに悔しく感じたのは初めてだ。今更ガキだと自覚したからと言って、すぐに変われやしないけれど。
強くなりたい。
彼女の全てを包み込める位、側で支えてあげられる位。彼女が僕にそうしてくれた様に。
その時、もそもそと布団が動いた。
「ん……っ」
「お早う」
「おはよ……。眠れた?」
「うん」
「そう、良かった」
「多分これのお陰かな」
朝まで繋いだままだった手を、軽く持ち上げて彼女に見せた。まだ寝呆け半分の彼女も、流石に驚いて眼を見張る。
「え、これずっと?」
「そう。このままだった」
頷きながら僕が言うと、照れ臭そうに……それでいて幸せそうに彼女は笑った。つられて僕も頬が緩む。
彼女が嬉しいと、僕も嬉しい。それはこんなにも幸せで、簡単な事だったんだと実感した。
「そっか。ねえ……もうちょっと、このままでもいい?」
「うん」
その笑顔を、このささやかな幸せを守る為ならば、僕はきっと強くなってみせる。そう胸に誓い、彼女の白い手にキスをした。
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※2023/11/3 お題【眠りにつく前に】の続き