【眠りにつく前に】
飲み過ぎて足元も覚束ない上司を何とか自宅まで送り届け、もと来た道を引き返す。
外に出ると、眩しい程の月が地上を照らしていた。こんなに月の光が明るいのは、満月だったからかと今更気付く。
ふと微かに吹いていた夜風も止んだ。それは僕に、全ての時の流れも止まってしまったかの様な錯覚を起こさせる。
(ああ、何だか疲れた……)
足を止め、明る過ぎる月を見上げた。
「いいなぁ」
何に邪魔される事も無く、月はただそこに『在る』。何のしがらみも持たず独り、そんな風に生きられたらどんなにか……
月を見ると、そんな事をよく思う。
だが人に絶対の孤独など存在しない事も知っている。判っているからこその欲求だった。
なのに不意に浮かぶのは、優しくもどこか寂しげに微笑む恋人の顔で。
彼女を置いて去るのも、失うのも嫌だという己の中にある矛盾も、僕ははっきり感じている。
何もかもに疲れたこんな時は、独りの方が余程楽なはずなのに……何故か今日は、誰も居ない自分の部屋に帰る気もしなかった。
そんな僕の手には携帯電話。
開いたトーク画面は――彼女。
「あのさ、これからそっちに行っても良いかな」
『泊まってくって事だよね? 大丈夫』
「うん。ゴメンね急に」
『いいって。じゃ、待ってるね』
時計を確認すると、そろそろ日付が変わるかという時刻だった。よく承諾してくれたものだと、僕は苦笑した。
彼女の部屋に着くと、座卓にはお茶漬けが既に用意してあった。だが先程まで飲んでいた事など、話した覚えはない。
僕が驚いて尋ねれば、そっと彼女は微笑んで呟く様に答える。
「んー、何となく?」
お風呂の用意して来るね、と彼女はバスルームへ姿を消した。
風呂を済ませると、完全に酒は抜けたようだ。
良いタイミングで麦茶を渡されて飲み干すと、彼女が僕をじっと見ていた。
「どうかした?」
「普段ならお酒を飲むと口数が増えるのに、今日は静かだなぁと思って。でも、時々何か言いたそうな顔もしてるから」
彼女の眼から、すっと光が消えた。暗い視線を伏せ、今度は僕を見ずに呟く。
「――何か話したい事、ある?」
「今は、いい。居てくれるだけで」
「そっか……判った」
彼女は顔を上げ、穏やかに微笑む。それはもう、いつもと変わらない笑顔だった。
(ホント勘が鋭いったらないよ)
一旦は気に掛けつつも、僕が黙っているとなれば彼女はそれ以上余計な詮索をして来ない。判った風な口も利かないから、沈黙すら心地良い。
多分僕は、彼女のそんなところが好きで―――失いたくないと思う、一番の理由はそこなのかも知れなかった。
僕達は必要最低限の会話だけしながら、そのままベッドに入った。
どちらからともなく何度か触れるだけの軽いキスをしてから、彼女は「お休みなさい」と呟いて、眼を閉じる。
「ねえ」
「なあに?」
「手、繋いでも良い?」
彼女は小さく頷くと、布団から手を差し出した。その華奢な白い手に指を絡めて、そっと握る。
孤独を欲する心と、彼女への執着に揺れるそんな夜には、この位の温もりが丁度良い。
「温かい……このまま寝ちゃうかも」
「うん。お休み」
彼女の温もりを感じながら眠りに落ちていく瞬間、急に僕は泣きたくなって、きつく眼を閉じた。
【たそがれ】
夕焼け空よりも日没直後の薄暗さが好き、と以前彼女は言っていた。何故と問い掛けても彼女は「秘密」と寂し気に微笑むだけで、俺に教えてはくれなかった。
今も丁度いつかの様に日が沈んで、水平線に微かに残るオレンジ色の空が徐々に濃紺の夜で覆われていく。
そんな西の空を彼女は黙って俺の隣で眺めているが、ふとその横顔に浮かぶ翳りが気になった。
彼女は時々そんな表情をする事があるのだ。
「寒くないか?」
そんな時でもこうして、物判りの良い上司の顔で彼女の側に居ながら、結局俺はいつも自分の気持ちを持て余している。
「……はい。大丈夫です」
他に何と声を掛けて良いのか判らず、俺はもう一度、日没後の空が好きな理由を尋ねてみる事にした。また秘密だとはぐらかされるだろうかと思ったが、彼女は少し逡巡した後、独り言の様な小さな声で呟いた。
「理由は3つあります。だけど、1つだけなら良いですよ」
「1つだけか。なら一番の理由が聞きたい」
彼女は俯きながら、涙を隠してくれるからですと答えた。
「なるほどな。でも、それなら夜の闇の方が都合良い気がするんだが」
「涙って、街灯や車のライトで結構光るんですよ。だから、灯りが点く前の暗さが良いんです」
俯いたまま、彼女はこちらを見ようとしない。
今まさに彼女が泣いているのではないか? そんな気がして俺が恐る恐る声を掛けようとした時―――
「済みません、変な事言って」
努めて明るい声で言うと、彼女は顔を上げた。
俺の心配は幸い杞憂だったが、薄闇のせいか彼女の表情が無理した泣き笑いの様で、痛々しく見えてしまう。
「別にいい、気にするな。そろそろデスクに戻ろう、霧が出てきた」
「霧……」
何かに気付いたように、彼女が瞠目する。
「ん? 俺何か変な事言ったか?」
「あ、いえ! ただ―――」
霧なら涙だけじゃなくて色々なものが隠れますよね。
消え入る様な声で、だが確かに彼女はそう呟いたのだ。
「そうだなあ……確かに」
同意はしたものの、普段朗らかで基本的にはポジティブ思考の彼女らしくない発言に、俺は驚いていた。
「けどそれじゃ、見たいものも隠れちゃうから駄目ですね」
彼女に何があったのか、俺には判らない。
力なく、でも懸命に堪えて強がる彼女を見ると、俺は何とも言えない切ない気持ちに苛まれた。
泣いてどうなるものではなくとも、気持ちを切り替える意味で泣く事が有効な場合もあるだろうに。
こんな時、わっと泣いて誰かに甘える事の出来ない彼女が焦れったい。
側に居るのに甘え先になれない自分も。
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※俺=2023/7/9 お題【街の明かり】の『課長』
【静寂に包まれた部屋】
昨晩もろくに眠れないまま東の空が徐々に白んで、夜が明けてしまった。
何度目かの溜め息を吐き、電気ケトルに水を汲みスイッチを入れる。
―――こんな朝を迎えるのも、もう三日目だ。
半月程前から、恋人と連絡が取れなくなっている。
携帯に掛けてみても留守電で、メッセージを残してもリターンがない。LINEも無視。一昨日の夜からはとうとう繋がらなくなってしまった。
仕事が忙しいのかも知れないという一種の諦めにも似た理解と、別れ話を切り出せず自然消滅でも狙われているのだろうかという不安が今、私の中でごちゃ混ぜになって渦巻いているのだ。
どちらかと言えば普段は彼の方がマメに連絡を取りたがるのに、こんなに音沙汰がないのは初めてだったから。
だからと言って、家族でもない自分が騒いで捜索願なんておかしな話で。
心当たりは毎日探しているのだが、正直共通の友人知人がおらず彼の現況が全くと言っていい程判らない。
心配だが彼も大人だし……そう自分に言い聞かせて、彼からの連絡を待っていた。
だが、そんな強がりもそろそろ限界にきている。
一体、どこで何をしているの?
忙しいなら忙しいでいい。もし他に好きな人でも出来て別れたいのならせめて言って欲しい。
極端な話、無事を確認したいだけなのだ。
コーヒーを淹れる前にひとまず顔を洗おうと、ユニットバスへ向かう。
「―――酷い顔」
独り言が静寂に溶ける。
鏡に映る自分の顔を見て、自嘲気味に頬を歪めた。
肌はボロボロにくすんでいたし、眼の下の隈などはもうメイクで隠せるレベルではない。
溜め息を吐いた時、ふと眼に入った二人分の歯ブラシ。
これだけじゃない。二人分のタオルや着替え、食器。彼が手ぶらで訪ねて来ても、数日は不自由無く生活出来るくらいのものは揃えていた。
どこを見回しても、この部屋には彼の気配がする。
会いたい。声が聞きたい。
彼に出会う前までずっと独りで暮らしてきたはずなのに、今はここに独りで居るのが辛い。この部屋の静寂が怖い。
自分で想像していた以上に、心の中に彼が居るのを自覚してしまって、泣きたくなって困る。
だから用が無くても外で過ごす事が多くなった。極力この部屋に居たくない。
そして今日もまた、何だかんだ理由を付けては出掛ける事になるのだろう。彼の声、匂い、面影を求めて。
【些細なことでも】
前回はハンカチ。
その前は確か、折りたたみ傘。
今回は―――腕時計。
それらは全て、私の部屋に恋人が置き忘れていった物たちだ。
いつも何かしら忘れて帰る彼を、初めこそ「忘れ物の多い人だな」ぐらいにしか思っていなかったけれど。こうも続くと幾ら私でも疑惑の念を抱く。
彼は『忘れる』のではなく、わざと『置いて』帰っているのではないか。
もしかしたら、しばらく会えない自分の代わりに置いていっているのかも知れないと。
彼は仕事柄、普段あまり約束事をしたがらない。それこそ次に会う約束でさえも。
学生である私と休日を合わせるのもままならない状況なのだから、仕方ない。
それは判っている。だけど……
ポツンと残された腕時計を手に取り、つい数時間前までこの部屋に居た持ち主を思うと胸がチクリと痛んだ。
忘れ物が眼に入る度、私はいつも彼を思い出し胸が一杯になる。
すぐに会いたくなる。
こんな些細なことでも、何も手に付かなくなってしまう。
もし彼がそれを狙っているのだとしたら―――
「酷い人」
忘れ物たった一つでこんな風に、私の心を支配するなんて。
【やるせない気持ち】
所謂ピロートークはあっても無くても平気。
心地良い疲労の中で、どちらからともなく意識を手放すまでの気怠い時間が結構好きだ。
しかし微睡んでいても田舎の月明かりは強過ぎて。疲れているはずなのに上手く眠りに就けないまま、気が付けば一時間程経過していた。
仕事から帰ってくるなり私をベッドへと連行した当人は、隣で背を向け規則的な息使いで眠っている。
彼は長い刑期を終え、今年ようやく私の元へ帰って来た。現在はこの家の簡単な家事と、職探しをする日々が続いている。
社会に於ける、犯罪者に対する想像以上の風当たりの強さ、身の内で渦巻く焦燥感にも似た行き場の無い思い―――彼はそれを夜毎私にぶつけてくる。でもそんなの構わない。
昨夜も、今も、恐らくは明日以降も私は全て受け入れるだろう。
それは私自身の虚を埋める行為でもあったから。
互いの存在無しには居られない、只それだけが今の危うい関係を支えている。
それが愛であろうと依存であろうと、そんな事はもうどうでも良かった。
結局ベッドから身を起こし、床に散らばった衣服の中から彼のジャケットを引っ張って、内ポケットにある煙草とライターを勝手に取り出し火を点けた。けれど私は生まれてこの方喫煙した事がないので、取り敢えずは見よう見真似なのだが……
一息吐くと、幸い咳き込む事もなく、煙は月明かりで青白く光りゆらゆらと天井に登っていく。
それをぼんやり見ながら、自分が吐いた溜め息の大きさに思わず自嘲気味に頬を歪めた。
(何か私、オヤジ臭い?)
「……俺にも寄越せ」
呟くような声と共に彼の背中が微かに動き、怠そうに振り返る。
「ゴメン、起こしちゃった?」
「いや、何か眠れねえ。考え事しながら眼を閉じてただけ」
「あと煙草も勝手に頂いてゴメンなさい」
煙草とライターを慌てて返すと、彼は慣れた手つきで煙草に火を点けながら私に答える。
「別に良い、煙草くらい。……そう言やアンタ、煙草吸うんだな。知らなかった」
「今、初めて吸った」
「ふうん」
尋ねておいて、さほど興味もなさそうな返事だった。
「……これ灰皿の代わりに」
そう言って私は、オルゴール付きの小物入れを彼に手渡した。てっきり空き缶や空き瓶の類が出てくると思っていたのか、今度は困惑の表情で私を見詰める。
「え、けどコレ……」
「良いの。蓋の部分欠けてて元々使ってないし、オルゴールまで鳴らなくなっちゃって。いい加減捨てなきゃって思ってたから」
しかし今の今まで大事そうにサイドチェストの上に飾られていたそれに、煙草の灰や吸い殻を入れるのはどうも躊躇われる―――
そんな彼の心情を汲んで、咥えていた煙草の灰を自ら小物入れの中へ落とし、気にする事はないと行動で示してみせた。
それにしても、彼が煙草を吸うところを私も初めて見た。吸うのは知っていたが、少なくとも以前は私の前で吸う事はなかったからだ。
「私も煙草吸うところ見たの、初めて」
「……あぁ、アンタの前では吸ってなかった。今思えば、昔は気分を切り替えたい時に吸う事が多かった気がする。人前で吸う事自体ほぼなかった」
俯き加減でぽつぽつと当時を語る彼は穏やかな笑みを浮かべているが、その笑みにはほの暗い影も混在していた。
「じゃあ私今、結構レアな君見てるって事だね」
彼の気分を少しでも浮上させたくて、私は明るめの声音で慣れぬ軽口を叩く。
しかしそんな私を見た彼は、むしろ悲痛な表情でしばらく黙り込んだ。
静寂の中、煙草の火だけがジジ、と音を立て赤く光る。私も何も言えず、その赤を見詰めていた。
「……アンタさ」
「ん、何?」
彼は私を呼んだにも拘らず、後を続けようとしなかった。
だが夜はまだまだ長い。
いくらでも彼の言葉を待つ事が出来る。私は俯いたままの彼を急かさず、再びその口が開くのを待った。
「……あのさ」
「うん」
「後悔してねえの? 俺なんか待つんじゃなかったって……思った事、ねえのかよ?」
随分と唐突な言葉に思えたが、それは恐らく彼が私に対して抱き続けていたある種の罪悪感にも似た思いなのだろう。
「こんな職も無いヒモ同然の男養って、そうやって気ばっか遣ってよ……一緒に居たところで昔みたいに戻れない事くらい、判り切ってるだろ」
その言葉の意味するものを、理解するのに少し時間が要った。
何か言わなくてはと思ったが、すぐには言葉が出て来ない。
「潮時を見極めるのも大事だぜ。早めに見切りを付けた方が良いに決まってる」
要約するなら『自分はもうアンタと釣り合わない、別れるなら今のうちだ』という所だろうか。
「……後悔しているなら、とっくに追い出してるけど?」
顔を上げた彼に、私は微笑みながら続けた。
「愛想を尽かすなら、そもそも待ってない」
そう言って私は彼の手を取った。
ひんやりとした温度と少しかさついた私の手の感触が、彼をやるせない気持ちにさせたのだろうか。彼は私から顔を背け、唇をきつく噛んだ。
「―――働ける目処も立たないのに、こんな生活いつまでも続けてる訳にいかねえだろ。アンタの思いに報いる事だって出来ねえ。俺は……アンタの枷にしかなれないんだよ!」
「側に居られるなら構わないし、枷だとも思ってない」
彼との幸せな日々。それは数ヶ月にもならない束の間の日々ではあったけれど、共に過ごし彼の隣で感じてしまった温もりは、私にとってかけがえないものなのだ。
「そこまでして貰える人間じゃねえって言ってんだよ、俺は」
「それは、私が決める事よ。―――さ、もう寝ましょう」
彼は信じられない、と言わんばかりの表情で私の顔をしばらく見詰めていたが、ふぅ、と息を吐いて表情を緩めた。
「……そうだな。お休み」
「お休みなさい」
ようやく睡魔が訪れたのか彼は静かに眼を閉じ、やがて規則的な寝息が聞こえてきた。
「二度と一人にしないでよ……」
呟きは彼に届かないまま、闇へと溶ける。
自分の思いが時に彼を追い詰めているらしい事に、私も気付いていた。
(身勝手だって判ってるけど、……もう君と離れ離れの日々は沢山だから)
見詰めていたはずの彼の姿が、滲んでぼやけていくのを無視して眼を閉じる。
(―――側に居ると決めたから)
彼の寝息のリズムに呼吸を合わせるように、私もゆっくりと眠りに落ちていった。