【涙の理由】
雨の降りしきる午後。
大学からの帰り道、傘の骨を伝って落ちる雫をぼんやりと眺めながら歩いていると、視界の端に見覚えのある姿が過った。
子供の頃から隣にいた幼馴染み。人混みの中でも、あの小さな背中と癖っ毛を見ればすぐに分かる。
声を掛けようと一歩踏み出したその瞬間、彼女が傘の影でそっと目尻を拭うのを見てしまった。
泣いていた。
呼び止める言葉は喉でつかえて、結局俺は、傘の内側で息を潜める事しか出来なかった。
(……どうしたんだ、あいつ)
通り過ぎる群衆に紛れ、彼女は小走りで去っていった。残された俺はただ、その背中が雨の中に溶けていくのを見ているしかなかった。
それ以来、彼女の表情を思い出すたび胸が痛んだ。
これほど長く側にいて、彼女が泣いている理由一つ、俺は知らないし分からないのか。
気付けば視線は自然と彼女を追っていた。教室でも、図書館でも、カフェテリアでも。
友人達と笑っている顔を見れば安堵した。それでも時折物憂げに俯く横顔に、小さな棘のような痛みを覚えて。
(何でこんなに気になるのか……)
静かに、しかし確かに広がっていくこの気持ちの名に、俺はもう気が付いている。
数日後の帰り道。朝から降っていた雨が上がり、薄曇りの夕空を背に、彼女が大学の門を出てくるのを見付けた。
いつも通り声を掛けるかどうか迷う。けれど―――
思い切って呼び掛けると、彼女は少し驚いたように振り向き、そして柔らかく笑った。
その笑顔を見ただけで、胸が解けるように温かくなる。
「帰るとこか?」
「うん。一緒に帰ろう」
自然に並んで歩き出す。アスファルトに残る水溜まりが夕日に照らされ、鈍く光っていた。
この前の雨の日さ……と言ってから、次の言葉を呑み込んだ。
思い出すのは、あの泣き顔だった。無遠慮に触れてはいけないような気がして、沈黙が落ちる。
少し間が開いて、ゆっくりとした口調で続けた。
「……風邪、引かなかったか」
「ん、大丈夫。有難う」
彼女は少し首を傾け、俺の横顔を見上げた。俺は彼女を意識し過ぎてずっと前だけ見ている。
視線が合いそうで合わない、そんな微妙な距離感。
(あの日……守りたい、と思ったんだ)
無理に理由を探る必要はない。ただ隣で、彼女が泣かずにいられるように。今はそれでいい。
駅前まで来た頃には、街灯が灯り始めていた。信号待ちの間、俺は意を決して彼女を見詰める。
「あのさ……」
「何?」
俺の声に、彼女は足を止めた。
流れる車のライトが、彼女の髪を淡く照らしている。
「この前、泣いてただろ」
彼女の瞳が揺れた。
ほんの一瞬、戸惑いの色が浮かんだ後、静かに俯く。
俺はそれ以上問い詰めず、静かに続けた。
「理由は聞かない。でも……泣いてる顔は、見たくない」
自分でも驚く程、真っ直ぐな声が出ていた。彼女の肩が小さく震え、泣き笑いのように笑う。
「……変なの、そんな事言うなんて。らしくないって言うか」
「変でもいい」
彼女の手にそっと触れる。冷えた指先が思いの外華奢で、守るべきものの重さを改めて感じさせた。
彼女は驚き目を瞬かせたが、拒まずゆっくりと指を重ねてきた。
その温もりが胸の奥に広がる。
言葉よりも確かな答えが、そこにある気がした。
家路を急ぐ人波の中で、俺達だけが時間から切り離されたように立ち尽くしていた。
握った手の温もりが、雨の日に残した痛みを静かに溶かしていく。
(涙の理由は、まだ知らない。けどいつか、自分から話してくれる日が来るなら)
その時まで、俺はただ彼女の隣にいればいい。
「飯、食って帰るか」
「……うん」
繋いだ手を離さずに歩き出す。
遠ざかる街の喧騒の中で、雨の記憶は少しずつ、柔らかい光に変わっていった。
9/27/2025, 11:34:48 AM