【失恋】
学生時代の恋人と四年前に別れて三十路もとうに越えた。今更他の女と一から付き合う気も、何なら結婚にも興味が失せていた。
そんな俺がまさか、恩ある先輩の許嫁に懸想する日が来るなど余りにも荒唐無稽で、想定外の事態に我ながら戸惑うばかりだ。
先輩の許嫁は、俺が勤務する会社の現社長の末娘。自分とはそもそも育ちも生きる世界も違い過ぎて、成就など端から望むべくもない。
何よりも先輩が、彼女の事をそれはそれは宝物のように大事にしている。彼が言うには、幼馴染みだったが故に彼女への思いを自覚するのが遅く、随分ぞんざいに扱ってしまった時期があるらしい。先輩は今でもその事を深く後悔していて、こんな自分を見限らずにいてくれた彼女を、必ず幸せにすると心に誓ったのだそうだ。
初めて先輩から彼女を紹介された時、先輩は幼馴染みとは言えよくこんな清楚でお淑やかなお嬢様をぞんざいに扱えたなと驚いた。
しかし俺は、彼女の纏う何処か影のある佇まいが自棄に気になる。彼女自身はその影を当時『誰と居ても拭えない孤独感』だと表現していた。一般的なお嬢様のイメージとは掛け離れた、その寂し気な感じが気掛かりで堪らない。
自分としては、ちょっと世間知らずの妹が放っておけないような気持ちでいたつもりだが、この時点で俺はもう恋に落ちていたのだろう。
そんな二人の挙式目前、身の程知らずにも一度だけ彼女に募る思いを告げた事があった。
勿論、結婚を控えたご令嬢には迷惑でしかないと判っていた。叶う事のない恋心に自分なりのけじめを着けるつもりの、言わばさっさと失恋する為の自分勝手な告白だった。
貴女が先輩を大切に思っている事は知っているから、返事など要らない。二度と口にもしないと言う俺に対し、彼女は深々と頭を下げてあまつさえ礼を言ったのだ。
今まで近付いてきた男性からは、社長である父や役員に名を連ねる兄達に取り入る為の道具としか扱われて来なかった。自分には人としての魅力がないのだとずっと思っていた。
だから応える事は出来ずとも、何の柵もない貴方の真っ直ぐな言葉と気持ちが嬉しかった。有難うございます、と俺に微笑むのだ。
いっそあの場で冷たくあしらってくれていたら諦めも着いたものを。そう恨む気持ちをほんの少し抱いた時もあったけれど……結局けじめなど着けられぬまま、今でも俺は密かに彼女を思い続けている。
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※俺=2023/4/8 お題【これからも、ずっと】の『俺』
先輩=2023/5/13 お題【子供のままで】の『俺』
6/3/2023, 1:31:31 PM