【理想のあなた】
俺は相手に変な幻想を抱き、理想を求め期待する事は止めたんだ。
そう言った時、貴女は怯えた表情をして「私に興味なくなった?」と消え入りそうな声で問うた。
何で貴女がそんな事を言ったのか、一瞬判らなかったけれど……
考えてみると、貴女は相手の期待や理想に応え喜んでもらう事を尊ぶ人だった。相手が理想を求めてくるのも、相手の求めに応えようと思えるのも愛あればこそだと考えている節もある。だが応えようとするあまりに無理をした結果、心が押し潰されてしまう貴女も何度か見てきた。
だから貴女は、俺に失望され捨てられるかも知れないと思ったのかと理解した。
そんな貴女に「期待しない」と言ってしまったのは明らかに失言だった。
まだ不安気に俺を見詰める貴女を安心させる為に、髪を撫でる。
「違うよ。理想とか期待とか関係ない。今、目の前にいる貴女と俺は生きていきたいんだ」
俺にとって相手に期待しない事は興味がなくなったとか失望の意味ではなく、例え不完全だろうと今の貴女を丸ごと受け容れるという自分なりの覚悟なのだ。
理想の貴女を作り上げ、求める必要はない。
【突然の別れ】
私に背を向け煙草を吸う彼をぼんやり眺めるのが好きだった。けれど、今夜はいつもより彼が遠く感じるのは何故だろう。薄っすらとした不安が胸に広がっていくのを感じて、何だか怖い。
「ここに来るのも、今日で最後だ」
「そう」
「しばらく日本を離れる」
「帰国はいつ頃?」
「さあな。いつ戻るかも分からねえし、ここらが潮時だろ」
「潮時……」
「何だよ。寂しいとでも言うつもりか?」
「そう私に縋って欲しいのはそっちでしょ?」
「言うじゃねえか」
寂しいと思う本音など、きっと彼にはお見通しなのだろう。煙草を吸い終えた彼が私の方へ向き直り僅かに口角を上げ、笑う。
「んな泣きそうな面で粋がっても、説得力も可愛げもないぜ」
そして次の瞬間、息が出来なくなる程きつく抱き締められた。煙草と、すっかり薄くなって消えかけた香水が混じった彼の匂いで鼻の奥がツンとして、視界が滲んで行く。
別れがこれ程早いだなんて、思ってもいなかった。
始まりは只の慰め合いだったとしても、私達はこれから時間を掛けて互いを理解しあっていくのだと。そう信じて疑わなかった。
何処へ行くの。どうして私を置いて行ってしまうの。独りにしないで。
聞きたい事言いたい事が沢山あるはずなのに、どれ一つとして出て来ない。
【恋物語】
忍ぶ恋こそ至極なり
本当なら、どんなにか慰めになるだろう。
私の恋は、自分以外は誰一人知らない恋で、相手に伝えてもいけない。その気配すら悟られてはならない。
口に出したら終わり。
日常というモノローグが延々続き、気紛れに貴方がちょっと登場するだけ。何て陳腐で退屈な―――
私と貴方の恋物語は永遠に始まらない。
【愛があれば何でもできる?】
昔そんな事を僕に聞いてきた元カノがいたなあ。
「限度があるっしょ」
そう答えたような気がする。望む答えじゃなかったんだろうね、彼女不満気だったし。
当時の僕にとって『愛』そのものの存在があやふやで、果たして自分の中にそんな感情があるのかすら判らなかった。(まあ正直今でも懐疑的ではあるんだけど)
理屈としては判らないでもないよ。見返りを求めず相手の幸せの為に行動する、または自分を成長させる原動力として『愛』って奴はとんでもなく力を発揮するって。
でも流石に愛を以てしても覆せない、人の能力では及ばない領域というものがある。だから限度があるって答えたんだ。それをあの娘は理解していたのかな?
もう別れちゃったし、会う機会も聞く機会もないけど。
ただ、「愛があれば何でも出来る」と臆面もなく宣う人間は、何故か相手にもそれを求めてくるから厄介だ。
少なくとも僕はそいつの為には何も出来ないし、したくなくなるね。
そんな事で冷めちゃう僕には、やっぱり愛って感情が希薄なのかも知れないな。ない訳じゃないんだろうけど。
【子供のままで】
幼馴染みと思っていた彼女が実は許嫁だと両親に告げられた日から、もう十年以上経った。
大人しくて、直ぐメソメソと泣いて面倒臭い、気が合う訳でもない彼女。それでも子供なりに仲良くしようとしたものの、相手が五歳の女の子では流石に男同士の友達のようには上手くいくはずもなく。両親には言えなかったが、こんな辛気臭い女とは結婚したくないと当時思っていた。
だが思い返せば、俺の名を呼ぶ柔らかく優しい声は心地好く耳に響いた。人見知りの気がある彼女が初めて向けてくれた笑顔は、とても可憐で幸せな気持ちになった。
幼心に、結婚したらこの笑顔が毎日見られるのではないかと思った時、何だか嬉しくなって、結婚してもいいかなという気になったのを覚えている。
決して彼女が嫌いだった訳でも無関心でもなかったのだ。
初めこそギクシャクしがちな俺達だったが、いつの間にか自然に寄り添い側に居るのが当たり前になっていった。
時が経ち思春期を迎え、俺のある不誠実な行動から、彼女に距離を置かれてしまった。
その時初めて彼女が『居て当たり前の存在』ではない事に気付き、己の子供染みた言動を省み恥じた。
彼女はいつでも将来の妻たる自覚を持って俺に寄り添い、喜びも苦しみも分かち合おうとしてくれていた。なのに俺はその優しさに甘え、彼女の覚悟の強さを侮り無下にしてしまったのだ。
そして、いつも幸せな気持ちにさせてくれた彼女のあの笑顔を、俺は随分長い間見ていない事に今頃気付く。
今のままの俺では、いつか愛想を尽かされる日が来る。否、彼女に避けられているこの状況こそ正にその時なのではないか?
そう思い至った瞬間、抉られるような胸の痛みと耐え難い後悔、堰を切ったように溢れ出す彼女への恋心を自覚した。
自分の想いに今更気付いたところで、今までの言動を思えばもはや彼女に好かれる要素が己に微塵もなさ過ぎて、溜め息しか出ない。この期に及んで許され好かれようなど、虫の良い言い分だとも判っている。
それでも―――
幼い頃、俺に向けてくれたあの笑顔をいつの日かきっと取り戻してみせると心に誓った。
その為に俺は、彼女を慈しみ幸せに出来る男にならなければならない。
いつまでも子供のままでは駄目なのだと。
********************
※『俺』= 2023/4/6 お題【君の目を見つめると】の『君』