奇跡をもう一度(10.2)
一度だけ、幽霊を見たことがある。
あれは見るもんじゃなかった。どんなホラーでも足りない、えぐるような悍ましさと寒さに凍りつく感覚。血濡れて荒れた髪の毛から見開かれた眼がこちらを凝視していて。しばらく錆びた鉄の臭いが鼻にしがみついて離れなかった。
でも、あれは。
男はしかし、その幽霊を見た交差点に毎夜訪れる。激辛と知りながら食べに行くとか、無理だとわかりながらジェットコースターに乗るとか、その類ではない。
いや、そうかもしれないけど。
整理のつかない心を抱えて、無人の交差点で手を合わせる。
「恨みは、あるだろうけどさ。お前は本当にいい女なんだから、早く天国に行けよ」
———会いたい
もう、往生したかもしれない。踏ん切りがよくてサッパリしてて、そんなところも好きだったから。
「あんな苦しそうな姿、見たくねぇんだよ」
———どんなお前でもいいから、もう一度……
静かにひんやりと風が抜けていく。
そっと目を開けて、落胆する自分が嫌になる。
「明日も、来るわ」
『待ってる』
がばりと振り向いて、男は嘲った。
きっと明日も(9.30)
ふなぁあ、とあくびをして窓辺に座る。少し傾いた日差しが気になるけれど、首筋を抜ける爽やかな秋風を思えばなんてことはない。
「速い」
低く鋭い声が飛ぶ。むっとした少年の鼻息が少し荒くなった。ゴリゴリがらがらとうるさいアナログな音が店内に響く。
『喫茶アヴリオ』
非常にわかりにくい、石畳の路地に押し込まれるように建つその店はしかし、無期限の休業中だ。理由は今まさにあくせく豆を挽いている少年を一人前にするため。だがマスターの治らない顰めっ面を見るとまだまだかかりそうだ。
頼むから潰さんでくれよ。
そう思いながらのびをすると、ふわりとさくらんぼのような香りが近づいてきた。そっと店の中を伺う少女はうっとりとマスター見習いを見つめている。私がふっと笑って歩み寄ると、少女は甘く焦がれた顔で愛おしそうに私の頭を撫でた。
やれやれ。今日も仕事をするかな。
毅然と尾を振ってカウンターに飛び乗る。にゃあお、と少女の気持ちになって呼んでやると、少年は救われたように歯を見せて笑った。コーヒーの匂いに染まった、水に荒れた手に頭を擦り付ける。間接キス、ならぬ間接なでなで。私にもよくわからんが、少女をみやると幸せそうなのでよしとする。
きっと明日も彼女は来るのだろう。いつになったら直接話せるのやら。
まぁ、日課がなくなるのもな。
猫はふなぁあとあくびをして瞼を閉じた。
本気の恋 (9.12)
「あいつ、◯◯ちゃんと付き合ってるって知ってた?」
友達がそう囁いた時、自分でもびっくりするほど無関心な「ふーん」という音が出た。慎重に気をつかって私に伝えたらしい友達はひどく狼狽えた。
「ちょ、いいの?あんたすっごく努力してきたじゃん」
そうだね、と静かに微笑むと幽霊でも見たかのような顔をされた。失敬な。これでも傷ついているというのに。
くるくると丹念に巻いたポニーテールに触れて、そっかぁとため息をつく。今日は綺麗にできたな、とこんな時に嬉しくなる。
彼のためだけにストレッチして、日焼け止めを欠かさず塗って、メイクも髪型も練習して。必死にやった勉強なんて最高だった。初めて話しかけられた日は、いつも自転車を降りてしまう坂もぐんぐんすぎてそのまま浮き上がってしまいそうだった。
「大丈夫。本気だったよ、ちゃんと」
そう笑うとなんだか私より傷ついた顔をして抱きついてくる。あんたはホントに綺麗になったね、と優しく言われて胸が熱くなった。まだ泣けない。今日はメイクもいい感じなのに。
ありがとう。大好きだったよ。
カレンダー (9.11)
どこのどいつが破ってんだよ
悪態をつきながら鞄を肩に引っ掛ける。彼がイラついているのは図書室の日めくりカレンダーのことだった。
図書委員しかめくれない、昭和の家にありそうなデカデカと黒い数字が書かれた紙。薄っぺらいそれをぴいっと破るのはさぞかし爽快だろう、そんな出来心で月曜の図書委員になった。もちろん、金土日で3枚めくれるから。
靴のかかとを踏んで、教室を外から眺めながら唇を尖らせる。
それなのに一回も破らせてもらってない。というよりすでに破れている。ほんのちょっとした思いつきだったが叶わないと無性にイラついてきた。
むしゃくしゃしながら図書室の前を通ろうとしてあっと声を上げる。バタバタと駆け寄って窓を開けた。
「おまっ何破ってんだよ!」
びくっと振り返った少女は大きく目を見開いていた。
「今日はまだ金曜だろ!破ってんの土曜じゃん」
はぁ?と言いたげな顔で持っていた紙を捨てている。
「俺月曜担当なの。日めくり破りに学校来てんのに」
必死に言い聞かせると少女はいきなり腹を抱えて笑い出した。
「ごめんごめん、こんなガキっぽい高校生がいるなんて思わなかったわ」
ひぃひぃ涙目で言いながらこっちに歩いてくる。日差しが差し込んで髪がキャラメル色に光っていた。
「来週は残しとくよ、月曜君」
なんだか一気に顔が熱くなって、俺は逃げるように帰ったのだった。
喪失感 (9.10)
あぁ、なんて幸せで満ち足りた日々なんだ。
そんな風に嘆いてみると隣の女はキャハキャハと笑い狂った。わたしもよ、と溢れる吐息が熱っぽい。
ルックスはもとより、金も人望もあった。学力ですら柄にもなく努力して身につけた。両手に花なんて甘っちょろい。花畑から選んでも花束だ。
あー幸せ。
ある日女を連れて鏡の前を通り過ぎようとした時、俺は愕然とした。虚な瞳。一見整った顔も奇妙に崩れて老けたようだ。
幸せだろ?
鏡の向こうに言い聞かせる。いびつに口角を上げた気味の悪い顔が映る。急に立ち止まった俺に不審な目をした女はやけに開いた胸元を押し付けて、いこぉー?とねだっている。
やめろよ女臭い。と言いかけた自分に固まる。粉っぽくて吐きそうになるほど匂いがくどい。
こいつは俺にとってなんだろう。そんなことを思うと急に手先が冷えてきた。視界が、脳内が、はっきりくっきりとしてきた。
俺はなんでも持ってる。たぶん、幸せ以外は。