もう一歩だけ、
高層ビルの屋上から寝静まった夜の街を見下ろす。
誰も、俺がここにいることを知らない。
ただ昼と夜が過ぎていくだけの人生など、もう終わらせたっていいだろう。
「死ぬか……」
口に出してみても、たいして感慨もない。あとはもう一歩だけ、踏み出せばいいだけだ。屋上フェンスに手をかけたその時だった。
ばさっと羽の音が聞こえた。
「待ちなさい、早まってはいけない!」
振り返ると、やたらと光っているやつがいた。輪っか付きだ。翼もある。
「報われない日々も孤独な夜も意味がある。さあ、前を向いて!あなたのその一歩を闇へと向かわせないで。光に向かって進むのです、一歩ずつでいいから!」
なんとそいつは天使だった。
天使が、輝かんばかりの笑顔で俺に手を差し伸べる。その直後、黒い炎が噴き上がった。現れたのは、漆黒の闇をまとい、獣のような目を赤く光らせた姿。
「甘言に耳を貸すな」
次は悪魔かよ。冷たい笑みを浮かべた悪魔は言った。
「おい人間……なぜやめる? あともう一歩だけ、なんだろ?とっとと終わらせろ。貴様の最後の一歩を見届けてやる、今すぐ死ね」
天使は眩しく光って、悪魔の前に立ち塞がる。
「悪魔め!私の邪魔をするな」
「邪魔なのはお前の方だ。今までお前の言葉で人間が救われたことなど一度でもあったか?」
「……貴様っ」
天使と悪魔は、俺の前で言い争い始めた。
どうやら、俺の命は彼らの長きにわたる諍いの最新ネタらしい。
次第にヒートアップしていく二人を横目に、俺はため息をついた。
「……帰るわ」
死のうと思ってきた場所で悪魔と天使の喧嘩が見られるなんてな。だが死ぬには少し騒がしすぎる。勝手にやってろ。俺はその場を後にした。
──翌日。
今日こそ人生を終わらせようと、俺は再び屋上に来ていた。
やはり、俺には生きる意味なんて見つけられない。
フェンスにもたれ、夜風に吹かれる。残されたのはあともう一歩、終わりに向かって踏み出せばいいだけ。簡単なことだ。
「……もう一歩、か」
と、その時。聞き覚えのある声が聴こえてきた。
あの二人だ。まだいたのか。
しかもなんか、まったりと話し合っていた。距離も近い。
👼「人間ってさ……あともう少しの一歩を頑張れたり、そうじゃなかったり。ほんと未完成で、可愛いよね」
👿「愚かさの極みだ」
👼「諦める寸前で揺らいで、どうでもよいと言いながら嘆いたり……やっぱり目を離せないよ。見守っていたい。あの人間、どうなったかな」
👿「さあね。俺たちは、やつらを引き止め、おだて持ち上げて、落とす、煽る。ただそれだけの役割だ。まさか、俺たちがどうにか出来ると期待していたわけでもあるまい」
👼「……そうだけど」
👿「ならいい」
👼「あのさ」
👿「なんだ」
👼「久しぶりだよね、会えたの……嬉しかったよ、会えて。もう少し一緒にいない?」
👿「……俺はもう行く」
👼「相変わらずだね。私が望むとあなたはそう。いつも、一歩だって来てくれないよね」
👿「天国と地獄の距離だぞ、そう簡単に踏み出せると思うな」
飛び去った悪魔の後ろ姿を、天使はいつまでも見ていた。
俺はフェンスからそっと手を離す。
死ぬなんてどうってことないと思っていた俺でも、いざとなると、そのもう一歩が踏み出せずにいる。
だが、どうやら一歩が踏み出せないのは、何も地上の人間だけじゃないらしい。
見知らぬ街
がたん、と音がして体が大きく前に揺れ、僕は目を覚ました。
どうやらうたた寝していたらしい。電車はちょうど停車するところだった。
「お降りの際はお気をつけ下さい」とアナウンスが響く。
降りる人が数人いて、なんとなく僕も電車を降りることにした。
することもない休日の午後、柄にもなくふらりと予定など決めずに家を出た。
だから、降りる駅はどこでもよかったのだ。
ただの気晴らしだった、見知らぬ街を歩いてみよう、なんて思ったのは。
どことなく時間が間延びしたような、よく言えば、のどかさに満ちた小さな街だった。
確かに初めて来た街だったが、こういう地方都市というのは、歩いてみればどこか既視感を覚えるものだから不思議だ。
古びた商店が立ち並ぶアーケードは閑散としているが、完全に機能していないわけでもない。新しい洒落たカフェやヘアサロンなんかもある。
区画整備されたばかりなのか、やたらと広い道路に、新しい遊具が設置されている公園。
都会ではないが、田舎とも言い切れない。どこにでもあるような地方都市。
日本にはいくつこのような街が存在するのだろう。
しばらく、僕は気ままに街を歩いていた。
乾いた風がザワザワと街路樹を揺らすのを見た時、僕はふと、思った──この街を知っている。
よくあるような地方都市の印象。この既視感は、それだけのものだろうか?
あの風に揺れる錆びついた看板を、昔も見たことがなかっただろうか。
秋になれば、あの濃い緑の街路樹の葉が紅く色づくのを、僕は知っているのではないか。
知らないはずのものを『知っている』というの奇妙な感覚は僕を不安にさせた。
思わず、その場で立ちどまってしまった僕に、前から歩いてきた人が声をかけてきた。
「◯◯じゃないか」
名前を呼ばれて、僕は硬直した。
◯◯、という名前は確かに、僕の名前だった。
「お前……帰ってきてたんだな、奥さんが心配してたぞ……どうした、大丈夫か? 顔色が悪い」
知らない人だ。会った事なんてない。
心配そうに僕の顔を覗き込むその人の、名前も顔も僕は知らない。
なのに彼は、まるで古くからの友人のように僕を見ている。この状況に僕は胸はザワザワと騒ぎ出す。
「いつ、帰ってきた? 奥さん心配してたぞ。子供だって小さいのに。何してんだ。もう一ヶ月も、どこ行ってたんだよ……本当にお前は……いや、俺は今は何も言わねえし訳も聞かねえからさ。まずは奥さんとこに行ってやれ、とにかく……お前は戻ってきたんだから」
僕は彼の言うことが一つも理解できなかった。
奥さん、子供……? 戻ってきた?
それは僕のことじゃない。
「人違いじゃないですか」
やっと震える声を絞り出して答えると、目の前の僕の『友人』である彼は、ため息のような息を吐き、静かに目を細める。
「お前は◯◯だろ。何かわけがあってこの街を出たんだろうが、お前はお前だよ、変わるはずもない」
僕は混乱のまま、違うんだ、と呟いた。
彼は優しげな眼差しだったが、その目の端にはどこか、憐れみのようなものさえ浮かんでいた。
気がついたら僕は駆け出していた。恐怖だけが僕を突き動かしていた。僕が僕であることが足元から崩れてしまうような恐ろしさがあった。背後から彼の叫び声が聞こえる。
「おい◯◯、逃げるな、お前の場所はここだぞ! ちゃんと戻ってこい」
叫ぶ声を振り切り、僕は無我夢中で逃げた。
それからあとのことをよく覚えていない。駅まで必死に走って、行き先も確かめず電車に飛び乗った。とにかく遠ざかりたかった。
戻りたかった、僕の街に。
電車を乗り継いで、毎朝利用する駅までたどり着くと、自分の家まで足早に、でも一歩一歩確かめるように歩いた。よく見知ったこの街こそ僕の街、僕の日常があるところ。奥さんも子供もいない。心配してくれるような友人も僕にはいない。何度もそう自分に言い聞かせた。
数年が経った今でも、時折、思い出す。
あの街は、一体何だったんだろう?
白昼夢か、それとも別の世界線か?
どこかの世界で、あの街で生きるもう一人の僕がいて……パラレルワードというSFめいた考えに行き着く。馬鹿げているが、そう結論づけるのが一番しっくり来た。
あの街の僕の『友人』は、一ヶ月ほど僕が不在だったと言っていた。
僕と同じように、あの見知らぬ街で暮らす僕も違う世界に飛んでしまったのかも。
そして空いた穴を埋めるように僕が呼ばれたのかもしれない。
だけど僕は僕のよく知る街に帰ってきた。
いつも引っかかる鍵、育ちすぎた観葉植物、馴染みのソファ、僕の日常。心の底から安堵している、僕が僕のままでいられることに。
それでもふと思ってしまう。
──あの街の『僕』はちゃんと戻ったのだろうか。
──僕があそこで逃げなかったら、僕はあの街で生き続けたんだろうか、もしそうなら、僕は今頃どんな顔をしているんだろう、そして僕が消えたこの街に、また別の僕が迷い込むんだろうか。
結局考えてみたところで、答えなんて永遠にわからない。
僕はもう、あの街の名前も思い出せない。
遠雷
遠雷が鳴った時、あなたは身体を起こした。
窓の向こうをじっと見つめる横顔は、まるで呼ばれるのを待っているみたいだった。
ねえ、と私は、あなたを抱き寄せる。
「私たち、まだ愛し合っている最中だよ」
次の瞬間、暗い部屋を裂くように稲妻が光る。その鋭い光はあなたの本当の姿を照らし出した。
怖くはない。その姿こそ、私が愛したあなただったから。
私たちを咎めるかのように、窓の外では雷雨が激しさを増していた。でも私たちは懸命に熱を交わしあった。
私は知っていた。夜明け前にあなたは去ってしまうことを。
雨の音にまじって私が聞いたのは、雷鳴だったのか、それともあなたの咆哮だったのか。どちらでも構わない──
空一面を不穏な雲が覆っている。
遠くに轟く音を聞いて、私は嬉しくなる。
だけど子供は、灰色の重たい雲に覆われた空が恐ろしいらしい。不安げに私を見上げて聞いた。
「お父さんはどこ?」
あなたによく似た子供だ。私は子供を抱き上げて静かに答えた。
「お父さんはね、あの雷の向こうにいる。お父さんはドラゴンだから大地では生きられないの」
子供はじっと窓の外を見つめた。
閃光が走る。
重々しい空は一瞬白くなり、翼を広げたあなたの影が見えた気がした。
Midnight Blue
その絵は未完成だった。
一面、midnight blueの色だけで塗り潰されたキャンパス。
同じ色を何度も重ねた筆の跡が、夜の波のように濃淡を作り出している。
美しい青だった。孤独の生々しさや肉体の熱を静かに吸い取ってくれるような、深い黒さを帯びた青。
きっとこの絵を描いた人は、今も夜の深淵に一人佇んでいるのかもしれない。虚しささえも背景にして。
この人が描いてくれた深い青の中に身を任せてしまいたかったが、朝に順応しなければならない僕は、人混みに流されてその絵の前から立ち去った。
君と飛び立つ
私たち夫婦は、これまで旅行らしい旅行をしたことがなかった。
結婚して数年目で私が病気になってしまったから。あなたは職場と家と病院を行き来する日々。
ごめんね。こんな事になってしまって。
ある日、夫がぽつりと言った。
「君が退院したら、夜間飛行に行こうよ。セスナに乗って、夜景と星空を見るんだ」
私は思わず笑ってしまった。
夫からそんなロマンチックな提案をされるとは思わなかったから。
でもそうね、忘れてたけど、そういえばあなたって、そんな事を言えちゃうようなロマンチストだったね。悪くないわね。
────
しかしその願いは叶わなかった。
君が病室から戻る日は、とうとう来なかった。
小さな飛行場に着くと、古びたセスナ機が待っている。
乗り込むとシートの冷たさが気になった。
君は驚くだろうな。僕が一念発起して小型機の免許を取ったと知ったら。
そんな事にお金をかけるなんて、と怒った顔が目に浮かぶよ。
プロペラが回って、窓の外の灯りが小さな粒になって視界の下へと遠ざかっていく。
空を飛ぶようになって、僕は不思議な感覚を覚えるようになった。
それはね、時間認知の歪みだよ。
長く空の上にいると、地上とは違う時間軸の中にいるような感覚に陥ってしまうことがあるんだ。
例えば、朝日に向かって飛ぶと、太陽は動かずまるで朝焼けの中を永遠に飛んでいるように思えるし、日没に向かって飛ぶと、夜へと駆け足で進んで、時間を先取りしたみたいな感覚になる。
……僕はワクワクしてしまってね。
地上では知り得ない空の秘密を知った気分だ!
この歳になってもまだ、世界に驚かされるなんて……それがただの幻想だとしても。
「ずっと朝のままのデート」「夜へと駆けていくデート」なんて言ったら、君はきっと笑うだろう。
僕は独り、夜明けの空へ向かった。
もしかしたら、この不思議な時間感覚の中なら、君がいた朝に戻って、君と過ごす時間を永遠に出来るかもしれない。
そんな馬鹿げたロマンを、胸に抱きながら。