NoName

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7/4/2025, 9:56:04 PM

暗い森の奥深く、苔むした岩の隙間を彼は進んだ。
彼の鱗は黒く、森の暗がりに馴染んで溶け込むようだった。目だけが鋭く赤く光って闇に浮かぶ。
彼は蛇だ。嫌われ者の蛇。
森に住む者はみな彼を避けた。
彼を見た途端、鳥も兎も逃げていく。鹿や狐でさえ遠巻きに去っていく。
彼にしてみれば、慣れたものだ。
嫌われ者と囁かれるのも、忌むべき者として恐れられるのも、蛇は受け入れていた。

ある日、森に青い風が吹いた。
葉擦れの音は、いつもよりざわざわと落ち着かなかった。
青い風は森の木々を揺らしその間を縫って、彼の棲む岩の隙間まで吹き込んだ。
風に吹かれて、鱗の下で何かが疼いた。
どぐろを巻いた体の奥で、冷たい血が熱を帯びる。
風はまるで、何かを囁くように彼の体を撫でた。
ーー変われるよ。
そう囁いているみたいだった。
その夜、彼は身体が軋むのを感じた。
鱗が窮屈に身体を締め上げるような異和感……
いや、もう一つの皮膚が生まれているのだ、鱗の下で。新しい皮膚が、じわじわと古い鱗を押し上げている。
彼は目を閉じた。赤い目は白く濁っていた。
脱皮の時がきたのだ。
彼は岩肌に身を寄せて、ゆっくりと身体を擦り付けた。鱗が擦れる音がした。
鱗が剥がれるたび、湿った体液が滲み、裂けるような痛みが体中を走った。
彼は、身体を弓なりに反らせてその痛みに耐えた。
同時に奇妙な歓びが彼を包んでいた。
古い自分を脱ぎ捨てていく。
新しい皮膚が現れる。
この奇妙な歓びは、生まれ変わることへの期待なのかもしれない。
それとも今、確かに生きていることを実感している歓びなのかもしれない。
皮膚の滑りを良くするために滲み出した体液は温かく、月に照らされ濡れたように輝いていた。
彼はのけぞって岩にしなやかな肢体を預け、息を吐いた。
まだ外気に慣れないその皮膚の表面を、青い風が優しく撫でていく。
新しい皮膚はあまりにも敏感で、彼の身体はわずかな風の動きにも震えた。
風は新しい皮膚を隅々まで味合うように絡みつく。まるで、君は美しいよ、と言われているみたいだ。 風が彼の曲線をなぞるたび、胸の奥が苦しく切なくてたまらなかった。だが彼は動けず、ただ風に身を委ね、息を吐くしかできなかった。
彼はふと思った。
ーーこの新しい皮膚なら、私は嫌われないだろうか。
同時に、こうも思った。
ーー淡い期待など、無駄なこと。愚かなことを考えるな。
彼はゆっくりと目を開けた。
脱皮を終えつつある彼の目は、鋭い赤さを取り戻していた。
赤い目から涙がいく筋にもなって流れだす。
青い風が、蛇の涙をそっと撫でて溶かしていった。


7/4/2025, 5:05:50 AM


「遠くへ行きたいなあ……」
それは諦めと共に思わず漏れた呟きだった。
あの人は確かに何処かへ行きたかったのだと思う。
今でも、夏の夕暮れ時になると思い出す。
父の横顔。
私以外、誰も聞かなかったあの呟き。

実家の庭は、蒸し暑い夏の空気がようやく和らぎ、薄闇に包まれていた。
縁側に腰かけた私は、ぼんやり庭を眺めていた。
隣には父がいた。
私の手には、冷えた麦茶のグラスがあって……切りたてのスイカだったかも――記憶は曖昧だ。
でも、線香花火だけは覚えている。
幼い私は、兄たちのように一人で花火を持たせてもらえず、むくれていたのだ。
「線香花火、しようか」
父がそう言ってなだめてくれたのに、私は「いい」とぶっきらぼうに答えた。
兄たちが手持ち花火をくるくると回すのをじっと眺めていた。
火の粉が美しい輪を描き笑い声が響く。
花火は、レーザー光線のような残像を残した。
水を張ったバケツに使い終わった花火を入れた時の、ジュッという小気味良い音。
縁側で足をぶらぶらさせているうちに、私のむくれた気持ちなんてすっかりなくなっていた。
でも何となく態度を改めるのが気恥ずかしくて、そのまま無言でいた。
その時だった。
「遠くへ行きたいなあ……」
まるで風に溶けてしまいそうな小さな声だった。
私は父の顔を見上げた。
線香花火の淡い光に照らされた父は、何も見ていなかった。
気付いてしまったのだ。
兄たちの笑い声も、火の粉のきらめきも、私の存在も、儚げな線香花火も――父の目には、なにも映っていない。
私の隣にいるのは、父じゃないみたいだった。そこには、ただ疲れ果てた所在なさげな一人の、孤独な大人がいた。
父のあの横顔。今も私の心に焼き付いている。
――遠くへ行きたい
父の呟きの、真の意味を理解できなくても、幼いなりに私は何かを感じ取っていたのだと思う。
お父さん、どこか行きたいの、そんな問いかけがどうしても出来なかった。
胸の奥がちくちくと針で突かれたように痛くて悲しくて、私は父から目を逸らした。
あの時の父の空虚な眼差し。
あれは、父や夫、あるいは職場での自分、そんな自分自身に疲れきって全てを放棄し、ここではない何処か、別の場所を切実に求めた瞬間だったのではないか。逃げ出したくても逃げ出せない父の心を、幼い子どもは気付いてしまったのではないか。

今ならわかる。
現実を忘れたい瞬間などいくらでもある。
その瞬間を、子どもが捉えてしまっただけのこと。
父は結局、遠くへは行かなかった。
家族を捨てる勇気も、別の人生を選ぶ決断も、父にはできなかった。例えそうしたいという願望があったとしても。
私や兄たちにとっての「父」という役割を、最後まで――完璧ではなくても――果たしてくれた。
でも、あの夏の夜に垣間見たように、父は心の奥深いところで、ここではない遠い場所をずっと求めていたのかもしれない。

夏の夕闇、線香花火の煙の匂い。
遠くへ行きたかった父の横顔と、小さな子供だった私の胸の奥のちくりと刺された痛みが蘇る。


「おかあさん、花火しようよー!」
娘の声に、私ははっと我に返った。
目の前の庭は、あの夏とはもう違う。
父はもういない。ここにいるのは大人になった私。
慌てて笑顔を貼り付けて、私は立ち上がった。
遠くへは行かない。今はまだ――。

7/2/2025, 1:52:45 PM

君は透明な爆弾みたい。
傷つきやすいくせに、君の口から出る言葉はいつも尖っていて意地悪。
ぶっきらぼうな君の後ろ姿は、どうしようもなく危うくて色っぽくて隠したくなる。
誰よりもビビりなくせに、君のアイデアはいつも大胆不敵かつ爽快。
死の淵まで近づくほど深く眠った夜、君は夢の中で世界中の屋上を駆け抜けていく。
星を掴めるくらいの好奇心を持て余しながら、君は知るのが怖い。
君が世界を見る時、その眼差しは思慮深く老成している。にも関わらず君の理解は幼稚さを残したまま。
成長しきれていない一つの体に、君はアンバランスな要素をたくさん詰め込んでいる。
矛盾をコントロールできない君は不安定で不完全。
君は割れそうなクリスタル。
君は多面体。
光を乱反射して輝いている、本当の君のままで。





6/18/2025, 8:22:43 AM

今日はきっと、『届かないデー』だったのだ。
メールはもちろんのこと、ウーバーイーツも、お中元も届かない。請求書、贈り物、宅配便、ファンレター、あらゆる全てのものが届かない日だ。
嘆かわしいがこんな日は、救援物資も届かないだろう。
何せ、『届かないデー』だから。
金融市場じゃ注文データが届かないし、改革を訴える街角のデモの叫び声もクラクションにかき消されて届かない。
今日が七夕でなくてよかったよ。
願いなんて最も届かないだろうからね。
とにかく、何もかも届かないんだ。
謝罪の言葉も感謝の言葉も、祈りも愛も届かない。ほんの少しの善意さえ届かない日だ。
ましてや、僕がネットに投稿したショートショートなんて、誰の心にも届くはずがないんだ……。
「こんな日だから仕方がないな」と僕は独りごちた。
あのショートショートには、僕にしてはうまく書けた方だ。切なさと愛しさでコーティングした、ブラックな不条理なネタ。
今後は、届かないデーの投稿は控えよう、と僕は決心した。今日みたいな日に投稿したって、僕のショートショートはこの宇宙のどこかで迷子になるだけだ……。
きっと僕のショートショートはこのだだっ広い宇宙のどこかで、届けられなかったウーバーイーツや注文データや謝罪の言葉なんかと共に漂っているんだ。
僕は、届けられなかったものたちに思いを馳せた。僕自身までもが、その宇宙の中を漂っているみたいだった。

6/17/2025, 1:08:55 AM

記憶の地図

君に関して覚えていること。
僕はそれを地図にした。キケロの記憶術にのっとって、場所と記憶を結びつけたんだ。そして僕は一つの都市を作り上げた。
都市全体が君との思い出だ。
記憶としての駅、公園、建造物。
立ち並ぶビルも倉庫も、都市の骨格をなす道路も、全てが君との記憶からできている。
都市活動を支えるのは僕の記憶だ。
君についての僕の記憶。
僕の髪をかきあげた指先。家族のことを話す時、いつも言葉に迷って揺れる瞳。下着をつける時のしなやかな動き。頬に涙の跡を残したままの笑顔。
飲みかけのマグカップを部屋のあちこちに置く腹立たしい癖や、いつまで経ってもカーテンの色を決められない優柔不断も。
全てこの都市と共にある。
理想的な都市だよ。金融も交通も適度に発達していて、不便なことは全くないし、自然にも恵まれている。
僕は夜毎にこの都市を訪れる。まあ、正直に告白すると日中にも度々。
なかなか快適な都市ライフを過ごしているよ、何しろ誰もいない僕だけの場所だからね、君さえいない。
誰からも忘れられた場所、誰とも共有はできない場所。
きっとそういう場所が僕には必要で、だから僕はこの都市を作り上げたんだ。
だけど最近、僕はあることに気がついた。
この都市には、地下があるって事に。
僕がこの都市の地図を描き始めたときには、存在していなかったはずなんだが。
地下へのゲートはいつからあったんだろう?
僕は地下へ降りていって……そこは薄暗く、湿っていた。僕は壁に手を這わせたが、冷たいコンクリートが続くだけだった。
ぽとり、と遠くで水滴が落ちる音がしたような気がして耳を澄ますが、何も聞こえない。シンプルな照明が灰色の虚無を照らし出すだけだ。
地下鉄が通っていた気配すらない。ただ湿った空気が漂う何もない場所。
一体、なんの為の地下なんだろう?
僕は、地下の道を歩き始めた。カツン、カツンと、僕の靴音だけが虚しく響き渡る。
もしかして君が残してくれたものがあるのかもしれないと、僕は地下を歩き回った。だけどいくら歩いても、僕には見つけられなかった。
これじゃあ地図の作りようがない。ここには、君の記憶がない。
――君がいない。
そう思った時だった。
頭上で重たい音がした。
ひび割れるような音だ。巨大な何かがゆっくりとだが確実に崩れていく。
石が砕け、木が裂ける。
全ての音は僕の胸に直接響き、震動となって僕自身を揺らした。
僕は理解する。これは、都市の崩壊の音だ。
ビルは崩れ、全ての道が閉ざされていく。
都市が崩壊していく音は、まるで巨大な生き物の悲痛な喘ぎのようだった。もう苦しみにも悲しみにも耐えられないと言っているみたいだ。
記憶と結び付いた都市の奥深く、地図にも載らない地下で、僕はその音に耳を傾けていた。



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