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10/8/2025, 3:57:11 AM

静寂の中心で

「沈んじゃおうか、二人で……」

君と二人、誰もいない夜のプールに忍び込んだ。服を着たまま飛び込んだ水の中。全ての音は消え去った。
透明な水の中で、僕らはただ見つめ合っていた。
あの頃僕らの周りには、たくさんの音や光が溢れていたけど、その瞬間だけは君と二人、世界から切り離されて静寂の中にいるみたいだった。
考えてみれば、君が言った「沈んじゃおうか」なんてセリフ、あれってけっこう凄いセリフだったよな。後にも先にも、僕の心を震わせたのは、君が言ったあの言葉だけ。君が望むなら僕はどこに沈んだってよかったんだ、プールの底でも海の底でも。
だけど僕らはすぐ、水の上に出た。
空気は必要だからね、特に君はそうだった。
僕と沈むより、水の上を泳ぐことを選んだ君。
シャツを脱ぎ捨てた君は、長い手足を動かして水面を揺らした。そのたびに水はキラキラと光を反射していた。
今でも僕は鮮明に思い出すことができる。
奇跡的だよ。人生で一度でも、あんな風に誰かと静寂を共有出来た瞬間があったなんて。
時々思うんだ。あのまま沈んでいけば、僕らは本当に静寂の中心へとたどり着いたのかもしれないと。
あれから君は変わった。
水の上に出るためには、何かを沈める必要があったんだ。君は君らしさを一つ沈めてちゃんと大人になった。
僕が沈めたもの──それは君への想い。
今でも夜のプールの底に潜り込めば、僕らが沈めたものが、変わることなくあるはずだ。透明な水に守られて、静寂の中でひっそりと淡い光を放っている。


10/7/2025, 9:40:57 AM

燃える葉

【幻のような赤、彼の棘】
「覚えているかい、あの赤い光景を。まるで燃えるようだったね」

彼は汗ばんだ手で私の髪の毛を撫で付けながら言った。指先に力を込め、こめかみから後頭部へと押さえつけるように撫でた。

「あまりにも全てが赤く、幻想的で夢のようだった。思えばあの鮮やかに燃えるような赤は暗示していたのかもしれないね、僕らの行く末を」

いつからだろう、彼のこういう言い方が怖くなったのは。出会った頃は謎めいて魅力的だった。でも今はそう思えない。棘を含んだ言葉の裏に忍ばせた真意が読み取れるかどうか、試されてるみたい。彼の言葉に何の意味も正解も見出せない私は、厳しい選別を受けているような気になる。でも、そうだね、覚えている──あなたの言う通り幻想的な赤い光景だった。
夜の赤い道。低い位置からライトアップされた紅葉の中を私たちは歩いた。私たちを取り囲むように伸びた赤い枝葉は、確かに燃えるようだった。あの時、あなたは私の手を強く握っていた。まるで手を離したら最後、永遠に離れ離れになってしまうかのように。あなたはいつも、手を強く握った。強すぎるほど。迷子になってしまうのが怖い不安気な子供みたいだった。

──覚えている。あの夜、私たちが見た光景。赤く幻想的で現実とは思えないほど綺麗だったね。

答えたいのに答えられない。身体の感覚が麻痺しているみたいに口も手も動かせないの。ねえ、一体これは何?……私たち、どこに向かっているの?


【記憶の中の赤、君に言いたかった言葉】
君は覚えている? あの見事な紅葉。あの光景を見た君は、まるで燃えているみたい、って言っていたね。

僕は君の笑顔が好きだった。笑ったらシワが出ちゃう、と君は言ってたけど僕は君の笑った顔が今でも好きだ。控えめだけど柔らかくて君の人柄そのもの。昔、まだ皆で会っていた頃、その笑顔を見たくてくだらない冗談を言ったのは僕だけじゃないって知ってた?僕たちみんな君に笑ってほしかった。

外泊許可がおりた日に君が行きたいと言ったのは、紅葉の名勝だった。
あの時の君は、久しぶりに外の空気を吸ってすごく伸び伸びとしていた。
ちょうどライトアップが始まったばかりの夕暮れ時。薄紫の空を背にした紅葉は、言葉を失うほどあでやかで、まるで赤い布を広げたようだった。目に焼き付けるように、君は赤い光景にじっと見入っていた。その時、君は言ったんだ。

──なんだか不思議。枯れてしまう前にこんなに美しく色づくなんて。まるで命を終わらせるために、燃えているみたい。

僕は何も言えなかった。
何も言えず、ただ君の手を取った。ひんやりと冷たく乾いた君の手の感触が今でも忘れられない。あまりにも細くやせ細っていた。僕はそっと、その手を握った。少しでも温もりを伝えることができるように。

──来年もまたここに来よう、その次の年も、その次も。

そう言うだけで精一杯だった。
あの時僕は、別の言いたい事があるはずだった。でもなかなか言葉にならなく、もどかしさが募るばかりだった。あれからずっと君の言葉が頭に残っている。考えてきたんだ、僕は君に何を言うべきだったのか。

今日、僕はまたあの場所を訪れた。君と二人並んで見た時と同じように、見事に色づいた赤い光景が目の前に広がっている。


【燃え始める赤、動かない身体】
降り積もった枯葉っていうのは、そんなにフカフカしてるわけじゃない。
乾いているように見えて案外中は、じめっと湿ってたりする。
突き飛ばされた私が、呻きながら思ったのはそんなことだ。
必死でもがいたけど、身体が痺れて思うように動けない。
後ろから突き飛ばして、無様にもがく私を冷たく見下ろしているのは彼。どうしてこんなことになっているんだろう。正解が分からなかったから? 

どうやらここは山の奥らしい。ここに来るまで彼はずっと無言だった。
停車して車から私を引きずり降ろすなり、突き飛ばした。屈辱をよりも感じていたのは、ただ恐怖たった。逃げよう……逃げなくちゃ、でもどこへ?私は後ろで手を縛られているし、叫んで助けを呼ぼうにも口は粘着テープで塞がれている。第一こんな山の中で叫んだって誰にも届かない。おまけに昨夜からずっと身体が痺れていて感覚がよく分からない。自分の体なのに、上手く動かせない。
思考もまとまらない。何を考えようとしてもまとまらず霧散していく。きっと薬でも飲まされたんだろう……何が理由でこうなったのだとか、どうやってこの状況から逃げ出せるのか、とか、考えれば考えるほど朦朧としていく──でも多分、私はもうすぐ終わる。

「君のことが分からないよ」
彼の声が聞こえる。カチリとした音を耳が拾う。これはライターの音。
「どうしてなのか分からないよ──何が君の心を変えてしまったんだ?別れたいだなんて、そんなこと言い出すなんて」

私はもう動けない。目に入ったのは赤く色づいた木々の葉。紅葉ってこんなに鮮やかな赤だっけ……まるで燃えるよう……
焦げついた匂いが、じわりと鼻を刺した。


【ひとりで見る赤の景色】
木の香りがする、と君は深呼吸をした。
確かに山の中の空気は澄んでいるけど、冷たい空気を深く吸い込むと咳き込んでしまうのでは、と僕は心配でたまらなかったんだ。
紅葉の景色を眺めながら、君は呟いた──あなたに言っておきたいことがある。
そして君は、弱々しいけどしっかりした声で、僕に告げてくれたのだった。

「ありがとう、ここに連れてきてくれて。今日、ここに一緒にいるのがあなたでよかった……本当に良かった。ありがとう」

君のその言葉にどうしようもない思いが込み上げた。
君の「ありがとう」は感極まるものがあったけど、同時に一番聞きたくない言葉でもあった。何故ってほとんど遺言みたいだったからだ。言える時に言っておく感謝の言葉みたいで、そんなの僕は嫌だった。

「僕はいつだって君と一緒にいるから」

そう言う時、僕は心のどこかでいつも考えていた。あとどれくらいだろうかと。病魔におかされていく君と共に過ごせるのは、あとどれくらいだろうと、考えてしまっていたんだ。君に分からないよう必死に涙を堪えたつもりだったのに、涙声になった。そっと涙を拭った僕を見て、また君が笑っていた。

今、目の前では、あの時と変わらない見事な赤が視界いっぱいに燃えている。君はもういない。僕は一人になってしまった。


【赤い炎の中で】
麻痺した身体は、涙も流そうとしない。
すぐそこで赤く炎が燃え上がっているというのに。でもあの炎に包まれたら、私も熱くて痛くて絶叫して転げ回るのかもしれない。彼は私のそんな姿を見たら気が済むのだろうか。
目に入るのは、黒い煙が立ち込める空と、炎のように広がって伸びた赤い枝葉。
ねえ綺麗だったよ。あの時あなたと見た光景は本当に綺麗だった。上手く生きられないあなたを好きだったこともあったのに。あなたといると私は削られるようだったけど、あなたもそうだったの?
もうどうでもいいかな……
もっと生きたいと強く願えばこの身体は動くことが出来るんだろうか。
そう強く願えるほどの理由が私にもあったらよかった。私に生きててほしいと願う人なんて、何処にもいない。
赤い葉が燃えながら舞っている。せめて最後に美しいものを焼き付けようと、私は目を見開いた。


【赤への祈り】
今日、ここに来たのは、あの時言うべき言葉を君に伝えたかったからなんだ。もういなくなってしまった君に。ごめん、遅すぎるけど……でも言いたい。誰もいないのをいいことに僕は、君への思いを口に出して伝えた。

「前にここに来た時、君が言ったことを覚えている? 枯れてしまう前にこんなに美しく色づくなんて、まるで最後の命を燃やそうとしているみたいだって君は言った。……でもそれはきっと……終わらせるためじゃなくて、世界を美しく照らすためなんだよ。だから生きた証として心に残ってる」

こんなことを言うのはちょっと恥ずかしい。世界を美しく照らすとか、生きた証とか。でも誰もいないからいいだろう。きっと君が聞いたら、あの柔らかな笑顔を見せてくれるはずだ。

あの頃僕は、君はあとどれくらい生きられるのだろう、そんな風に考えてしまう自分が嫌だった。きっと君はそんなのお見通しだったと思うけど。
本当はなりふり構わず君に言いたかった。生きて欲しいと。でも日に日に弱々しくなっていく君に伝えるにはどこか酷な気がしていた。
生きてほしかったんだ。生きて、生きて、生き抜いてくれ──そう言いたかったんだ。
目の前には、鮮やかな赤が広がっている。
僕はまた祈るような気持ちでこの美しい光景を見つめていた。
この赤は終わらせる為じゃない。世界を照らすために、生きた証として誇らしげに赤く燃え上がっている。


【赤く燃える葉】
薄紫の空の中に、私を焼く炎とともに赤い葉が舞い上がる。
火の中で蝶のように舞い続ける赤い葉は、生きて、生きて、と言ってるみたい──そう思った途端、私は自分が泣いていたことに気がついた。
私は赤い葉に向かって、手を伸ばす。まるで誰かの願いを届けるかのように舞っていて綺麗だ。痺れるこの手はまだ、燃える葉に届くだろうか──



10/5/2025, 12:31:22 PM

moonlight〜北風と月〜


ある晩のことです。
北風が雲を蹴散らすように吹いていました。

「おや北風、相変わらず勢いがいいですね」と月が言いました。

「なあ月、なんで恋人たちは、お前ばかりチヤホヤするんだよ。月が綺麗だの、君の方が綺麗だの甘ったるい言葉を並べてベタベタくっつきやがって」

月は静かに笑いました。

「わたしは照らしているだけですよ。くっつくか離れるかは人間の勝手でしょう」
「ふん……なら俺と勝負しようぜ」

北風は不敵な笑みを浮かべて言いました
またかよ〜と月は思いました。北風は勝負が好きで、何かにつけて勝負を挑んでくる面倒くさいやつなのです。
でも月はそんなことを顔には出しません。にっこり優雅に笑いました。

「勝負ですか?」
「あの湖のほとり。あそこに人間の恋人たちがいる。あの二人、恋人同士なのに、お互い遠慮しあってまだ手も握らないんだぜ。俺たちの勝負は、どちらが恋人たちをよりピッタリとくっつけられるか!見てろよ俺の吹きっぷり」

北風は得意げに胸を張り、月の返事も聞かずに地上へと降りていきます。
「ホント好きだよなあ……」と月はそっと雲の陰から顔をのぞかせて見守りました。

──ピュウウウウゥ。
北風が吹くたび、恋人たちは寒さに震えて肩を寄せ合います。寒い寒いとくっついた恋人たちを見て北風は大喜びです。

「見ろ、あいつらくっついた、俺の勝ちだ!」

けれど北風が吹いたおかげで雲は切れ、月がその姿を表しました。湖に月の光が映し出されていきます。月の光はキラキラと夜の湖を静かにゆっくりと輝かせていきました。
それを見た恋人たちは顔を見合わせました。

「月の光って素敵ね」と恋人の一人が言いました。
「君の方が素敵さ」ともう一人が言いました。

二人の頬が赤く染まります。北風は舌打ちをしました。やがて恋人たちは静かに口づけを交わしました。

「くっそ」
「……おや、この勝負、私の勝ちということでよろしいですか?」

月が微笑むと、北風はふてくされた顔になりました。

「ちぇっ!どいつもこいつも月の光に魅せられやがってよー月が出たらおしまいだ!」

そう言うと北風は空の端へと飛んで行きました。
北風が去っていった後を、月は少し寂しそうに眺めて言いました。

「すぐ行ってしまうんだから。落ち着きのないやつ……なんでいつもあんなに最初から全力なんだろ。そよ風くらいにしたら、あの恋人たちにも君の優しさが伝わるのに」

北風が去った後、夜の空は静かです。
湖のほとりでは恋人たちがまだ口づけを交わしていました。

おわり

🌖童話「北風と太陽」のパロディです🌬️🌚

10/4/2025, 9:54:45 PM

今日だけ許して


【一日だけの恋】

誰か来ないか見張ってて。
そう言うと姉さんは、岩棚の上で濡れた体を奇妙なほどくねらせた。
月の光が海面に散っている。岩に波があたって砕けるたび、姉さんの身体からパリンと鱗が剥がれ落ちていく。
痛みを堪える姉さんのうめき声は、銃で打たれた獣が死に絶えるときみたいに苦しそうで耳を覆いたいくらいだった。それでも姉さんは笑ってる──痛いけど、すぐ慣れるの
骨の形が変わる音がした。皮膚の下でうねるように肉が動いてる。姉さんの変化をみるのは何度目だろう。年に数度、嵐が来て季節が変わるとき。何度見たって恐ろしい。呻きながら血を流し、体をゆがませて痛みの果てに姉さんは別のものになる。
……ねえ、やっぱり行くの? 
私の問いに姉さんは黙って頷いた。
─今日だけ、今日だけは、許されるの
その声が弾んでいるのが恨めしい。そんなに会いたいの?あの人間に。正体がばれたら人間を欺いた異形として引き裂かれちゃうよ。私、聞いたことがある。人間は海蛇でも何でも引き裂いて食べちゃうんだって。
けれども姉さんは、いつの間にか伸びた長い髪の毛を波間に漂わせながら岸辺へと向かう。
海から上がっても姉さんの髪や首筋には、薄い鱗の欠片が光っていた。鱗を払って着物をまとう姉さんの頬がうっすらと赤く上気しているのがわかる。人間の皮膚は薄くてすぐに裂けてしまいそう。姉さんは血の色も変えてしまったんだろうか。
姉さんはよたよたと歩き出す。足も髪も引きずって。
私は見ていられなくなった。姉さんの泳ぐ姿はあんなに美しいのに。どんなに姿を変えても、姉さんの心臓の鼓動は海のもの。あの人間は知ってるの?姉さんの本当の姿を。
姉さんの背中が震えている。
それが痛みなのか恐れなのか喜びなのか、私には分からない。
姉さんの足跡を波が消していく。遠ざかる背中を見つめながら私は祈っていた。
──神様、姉さんの歩いた浜辺が血に染まりませんように。今日だけ、今日だけはどうか、姉さんを許してください。




今日だけ許して②
【恨めし】

もうこの世のものではない私だけど、今夜だけは許されてあなたのもとに参ります……まっててね★






今日だけ許して③
【もふもふ】

え、またですか?
ダメって言いましたよね。ダメです。
無理ですって、できません。
……そんな顔をしてもダメですよ。
前から思ってるんですけど、それって可愛いつもりなんですか?
首を傾げて目を潤ませるそのポーズ。
あのね、あなたもう結構いい年ですよね。
そういうの、若い子がやる仕草なんです。
あなたには似合いません。
髭生えたオッサンのあなたがそうやってかわいこぶるの、腹立つだけなんでやめてくださいね。
しょんぼりしたってダメです。
私には通じませんよ、何年一緒にいると思ってるんですか
……ほら、またそうやってすぐ距離感ゼロになる。
その手には乗りません。
誰にでもそうするくせに。
聞いてます? 聞いてないですよね、私の言うことなんか。
ダメですって。ダメ。
今日は絶対だめ。我慢してください。
だって最近、毎日こうやって…ちょっ、だめ。
やです。何やって…
そこ触んないでください、もうっ
……あーもう、ずるい。ホントずるい。
絶対それ分かってやってますよね、私がそれ弱いの知ってて。
しょうがないなあ……
わかりました、今日だけですよ。
ちゃんと約束してください。今日だけだって。
明日また同じことしないって。
約束できます?できますよね、もういい大人ですもんね、あなたは。
じゃあ約束。
ホントのホントに約束ですよ、今日だけにしてくださいね。
それじゃ、こっち来て。そう、もっと近く。
いい子。いい子ですね。
はい、これがあなたの欲しかったものですよ。

差し出した手のひらの上のおやつを、ペロリとひと舐め。
ああ、だめだ。息が止まる。かわいい。どうしてこんなにかわいいんだ。
「今日もいい毛並みですねえ〜〜っ!」
首を傾げるわんこに抱きついた。全部の仕草にズキュンと来てるよ!今日も明日も許しちゃう、だって今日も明日も永遠に可愛いから。きっとうちのわんこは前世からずっとかわいいし、生まれ変わっても絶対かわいいよ!かわいいって伝えたい、犬語で伝えたいよ〜私は思いっきり、わんこの毛並みに埋もれた。思いっきりわんこの匂いを吸い込む。はー大好きだよ。尊いってこのこと?神様、わんこを創造してくれて感謝します、猫も好きです。このままもふもふした毛並みに埋もれて無になりたい!本当に無になんないかなー現実なんかポイしたいんだよ〜わんこ、わんこ大好き。わんこがいればいい。今だけ何も考えないでいい?もふもふだけしてたい。うーんぺろぺろしすぎだってば。な、泣いてないよ。泣いてないから……慰めようとしてくれてる?ほんとにあなたってもう……今日だけ許してこんなんで。あなたをもふもふしたらツライの何でも治るし。私はわんこの毛並みをぎゅっと抱きしめて今日もまた、もふもふの中へと潜り込む。



10/4/2025, 12:38:59 AM

誰か
(ご注意、この話には性的描写が含まれます!)


きっかけは、星宮あかりの結婚だった。
みんなで集まった食事会、あかりがいつもの調子で、まるでなんでもないことのように「私結婚するの」と報告した。
私たちは隣同士でそれを聞いていたからだった。
私はなんとなく、あかりは彼と結婚するのだと思っていた。彼とあかりは一時、別れたり離れたりを繰り返していたし、私から見てもお互いに気を許し合ってているように見えたから。
おめでとう、と笑った彼が体を強張らせているのが隣にいて分かった。
食事会の最中、隣同士の私たちは何度か身体が接触する機会があり、何度目かでそれは意図的になった。私はテーブルの下で彼の脛に自分の脛を擦りつけるようにして席を立った。

彼とホテルに向かう道で私が思っていたのはあかりのことだ。あかりは夫になる人のことはあまり話さなかったが、満面の笑顔でこう言った。
「結婚したら私、名字は夫のものにするの。だってコンプレックスだったんだよ、この名字。星宮だなんてキラキラしすぎ。星宮あかり、なんて売れない地下アイドルみたい」
あかりが昔同じことを言った時、私は「いい名字だよ、すごく素敵だしあかりに合ってるよ、私は好き」と言った。私にとってあなたは夜空で輝く星そのもの、なんて思いを込めたけどそんなこと伝わるはずもなく。
あかりの結婚相手は、日本中どこにでもいるような名字だった。「結婚したら平凡な名字になるのが一番嬉しい」とあかりは笑っていた。
結婚して名字が変わったって何も変わらない……あかりが違う誰かになるわけじゃない。
私がそんなことを考えている時、彼は何を思っていたんだろう。無言で私の手を握りしめた彼。私とは全く別の思いでいたとしても、あかりのことを考えていたのは確かだ。

その夜、ベッドに沈んで、私たちは私たちじゃない別の誰かになった。
今夜頼れるなら誰でもよかった、そう囁いたのは彼なのに、やたらと優しい触れ方をするから笑ってしまう。そんなのこっちのセリフだよ。
だからそんなに丁寧にしなくていいよ。
ここにいるのは、私じゃないしあなたじゃない。
名前を呼び合うような愛し方は、いつか巡り会う伴侶のためにとっておきなよ。
今はただ、忘れるために。
お互いの名前も、あかりの名前も。
暗がりで、彼の手が直接私の形をなぞる。肌で感じるだけが全て。
最初はぎこちなくても、呼吸は乱れて皮膚はざわついて敏感に欲を感じ取る。溶けていく場所がある、内側に。そこがわかったらもう迷わないでいい。
──男の人とのセックスで一番好きじゃないのは、中へ中へと分け入ってくる無遠慮さだ。でもこの時ばかりは四股を絡ませ夢中で彼の切実さを抱きしめた。
早く圧迫して欲しい……願った通りの質量で彼が胸を押し付けた時、私は完全に私じゃ無くなった。
私たち、同じ眼差しであかりを見ていた。だから私は彼を抱きしめたかったし、彼だってとっくに知っていたはず。私のあかりに対する気持ちはいつだって隠し通せるものじゃない、同じ熱量で彼女を見つめる彼の前では。
誰かの大切な存在になれない私たちは、肌に隙間ができないくらいぴったりと抱き合って一つになる。
それでも彼と懸命に揺らし合いながら、ふと冷静に思う。このセックスに満たされる瞬間があるんだろうか、と。ああ、そんなの後で考えればいい。このうねりの前では抗えない。もうどこかの誰かでいる必要なんてない。今はただ熱く昂って、落ちて溶けて消えるだけ。



眩しい朝の光で目覚めた時、彼は早々に服を着込んでいた。
ベッドに腰掛けて背を向けたまま、私にペットボトルの水を差し出してくる。
私は気だるさの残る身体を起こして水を受け取った。小さな声で彼が言う──ごめんな。

「なんで?謝られるようなことしてないし」
「いやだってさ、こういうのはあまり……」

彼は口を濁す。言いたいことはよく分かる。みんな言うんだよ。愛のないセックスなんて傷つくだけだって。でも気にしないで。例え傷ついたとしても、それは私じゃないしあなたでもない。別の誰かが傷ついただけだから。
多分私はそんなことを口走った。彼が私を申し訳なさそうな目で見るのが、やっぱりおかしくて笑ってしまう。そしてその時私が考えていたのはやはり、あかりのことだった。
本当にあの子は結婚しちゃうんだ。結婚して誰かの妻になって、星宮っていう特別な感じがする響きから平凡な名字で呼ばれるようになる。名前が変わっても、あかりがあかりでなくなるわけじゃない──そう信じたい。だけど結婚っていうのは、彼女をもう私が知っていたあかりじゃない、別の誰かにしていくような気がしていた。

「……あかりは、幸せになるのかな」

私の呟きに彼は返事をしない。ただ、静かに私の肩を引き寄せた。彼の胸に身を預けながら私は目を閉じる。さっぱりとした朝の光が私たちを包み込んでいた。

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