日の出
この年始年末は、妻の実家で過ごしていた。
妻の実家は一年を通して日の出がない。太陽の昇らない街だ。
極夜と白夜のある北極圏の都市のような地学的な理由ではなく、ただそういう街なのだ。
一日中闇夜のような日もあるが、大抵はずっと薄闇の日々が続く。
通りには街灯もある。この薄闇に調和するような控え目な灯りだ。ぼうっと夜の中で浮かび上がっている。
この街の人々は、暗がりの中で蠢くように暮らしている。
僕はこの街の、全てが暗さの中に沈んでしまった感じが結構好きだ。
日の光を浴びないせいか、通りを行く人々は皆、気鬱な面持ちで人を避けるように歩いている。ここでは誰もが影のように生きているのだ。僕も似たようなところがあるから好感が持てるし、居心地がいい。
だが妻は、この街独特の陰気臭さが好きではないらしい。
部屋に戻ると、ここの暗さに同化したくないとばかりに一万ルクスの人工白色光を浴びる。
妻曰く、ライトセラピーというやつらしい。
ずっとこの街にいると死者みたいな気持ちになっちゃう、と妻はビタミンDのサプリを口に流し込んだ。
さて、正月休みも終わりだ。
今朝早く僕らの住む街へと高速を飛ばした、日の出の方向へと。
折しも太陽が現れて全てを照らし始めていた。
薄暗い街に慣れた僕は、神々しい光に思わず瞬きした。
明るい光は輪郭を作り影を作る。
僕の身体にも否応なく輪郭が与えられていく気がしていた。
妻が隣で光を受け止めながら、生き返っていくようだわ、と力強く言った。
僕は、これが生き返りなら随分と強制的だ、と思ったが何も言わなかった。
ただ、あの街に滞在した副作用のような頭痛がいつまでも続いていた。
星に包まれて
思わず息を呑み込んだ君を見て、僕は嬉しくなった。
──ほらな、すごいだろ。
この絶景を知っているなんて、なかなかやるだろ、とばかりに得意気に胸をはる。君はもちろん僕のことなんて見ていない。見上げることに夢中だ。
──来て良かっただろ?
まあ、僕としては、君のその横顔を見れただけで十分だったんだけどね。ただ一心に何かに夢中になってる君を見るのが好きだ。
うん、泣き出したいくらいだ……君が上を向いたままそっと呟くのを聞いて、僕は言葉を失った。
すごいよ……お父さん、大声で叫んで走り出したいくらいだよ……!
そう言うと君は、本当にそのまま駆け出して行く。何というか、ずいぶんと感傷的だなあ、泣き出したいなんて……誰に似たんだよ。
僕が君ぐらいの頃、同じことを思ったのを思い出していた。そう、ここには昔、親父と来た。今は病院にいるあの人だ。信じられないだろうが、あの人にも若い父親だった時代があった。
僕もここに来て、嬉しいのか悲しいのかわからないのに、泣き出したい気持ちが込み上げた。でも妙に気恥ずかしくて、君みたいに素直に言葉にすることもできず、無言のまま立ち尽くしていたっけ。あの時、親父はどんな顔をしていたんだろう。あまり覚えていない。覚えているのは、思わず握った大きな手と、変わらない頭上のこの無数の輝き。だがそれでいいんだろうな、きっと。僕も君に覚えていて欲しいのは、この夜空の下、訳も分からず走り出したことだ。来年もまた来よう。君が喜びに満ちた気持ちで一年を締めくくり、新たな年を迎えますように。
心の旅路
私たちはよく旅をしました。
それこそ夢のような場所へあちこちと。
ひと気のない遊園地とか、蒼く沈んだ森とか。もちろん都市部の明るい華やかなところへも行きました。私たちの多くは、日の当たるような場所は苦手でしたが、中にはそういう場所を好む者もいました。行ったら行ったで案外皆で楽しんだものです。でもよく行ったのは海です。私は山の方が好きだったけど、皆が行きたがったのは海です。海、海、とはしゃいで砂浜を駆け回り、夕陽が沈む頃には皆、無言で波音を聴きました。海を前にしたら言葉などなくてもいいのです。
でもどこへ行こうとも、長居はできませんでした。私たちを追いたてる存在がいたのです。それは黒い影です。ふと気がつけば私たちの行く先々に、黒くて大きな人影がいくつも立っていました。輪郭のはっきりしないゆらゆらとした影でしたが、私たちを監視しているようにじっとこちらを見ているのがわかりました。彼らの動きは一見、緩慢です。ですが近づけば、あっという間に全てを飲み込んでしまうのです。
彼らの目的が何なのか、何故私たちを監視し捕まえようとするのかは、分かりません。私たちは黒い影から必死で逃げました。けれど何人も捕まってしまいました。皆、どこへ行ってしまったのでしょう。主張が違っても一つだった私たちは、バラバラになってしまいました。私は、あの黒い影たちから逃げて山あいの奥深く、沼地までやってきました。そして今は奥地のぬかるみの中で一人、ひっそりと息を殺し彼らに見つからないよう隠れているのです。
凍てつく鏡
追手から逃げ切るためには、凍りついた沼を渡らなくてはならなかった。
亡霊の沼と呼ばれたその沼は、その昔、賢者が亡霊たちを閉じ込め二度と出てこないよう凍らせたという言い伝えがあった。
凍った表面を、音を立てずに静かに渡り切らなくてはならない──少しでも音を立てれば、氷の下で眠る亡霊たちが目を覚まし襲いかかってくるという。
辺りは一面、霧がかかっており視界は不明瞭だった。吐く息は白く、物音一つしない。
追手はまだここまで来ていない。
向こう岸に行くなら今しかない。
私は、慎重に一歩を踏み出した。
震えていたのは、寒さだけではないだろう。
氷の下には確かに何かいるような気がしたが、足元は見ないようにした。
追手がたどり着けない向こう岸へ。
前へ進む。それだけを考えた。
向こう側に辿り着けばもう大丈夫、平穏が待っている。
静寂の中、私は慎重に進んで行った。
沼の半分まで来て、ピシリと音が響く。
踏みしめて氷にヒビが入ってしまったか。
反射的に、視線が下に行く。
……やはり良い伝えは本当だった。氷の下に見えたのは、静かに眠る亡霊。
次の瞬間、私は動けなくなった。
氷の下で眠る亡霊、その顔をよく知っていたからだ──それは私自身の顔。
音に気づいた亡霊が目を見開く。
氷の下の亡霊は、私の目をとらえて離さなかった。
雪明りの夜
帰ってこないはずのあなたが、不意に帰ってきたのは、雪明りの夜のこと。
昨日から降り続けた雪は、この街には珍しい積雪となりました。夜、雪の白さは、柔らかな光を帯びていました。
仕事が終わって向かったバス停には、誰もいませんでした。こんな雪だからバスも遅れたようなのです。ふと古びたベンチに座る人影が見えました。
それがあなただと分かった時、息がとまるかと思いました。でも私は声をかけることはできず、ただあなたを見つめていました。バス停には私とあなた以外に誰もいません。まるで雪明りが、あなたを浮かびあがらせているようでした。あの頃と違う姿のあなたを見て、あの日止まったままの時計が、不思議と何もなかったように進んでいたのだと分かりました。
あなたは、私の背をすっかり追い越すほどに大きく成長していました。私の記憶の中のあなたは、いつも落ち着きなく、珍しいものを見つけるたびに駆け寄る幼い姿のままなのに。
今のあなたは、何事にも無関心、とばかりに少し退屈そうにベンチに腰掛けてうつむいています。けれど、ふと上げた視線の、射抜くような意志の強さ。高校生になったあなたは、そんな表情で世界を見るようになったのですね。私に気づくと、あなたは少し照れくさそうに、眉を下げて笑いました。笑った顔は幼いまま。私もつられて笑いました。
あなたは何のためらいもなく、長い足でこちらへ歩き出します。迷いのない足取りでこちらに向かう姿を、私はただ一心に目に焼き付けていました。街灯がチカチカと点滅し、あなたは静かに消えていきました。ほんの束の間のこと。私は胸がいっぱいで動けませんでした。あなたのことをもっと見つめていたかった。例えそれが、雪明りが見せたひとときの幻影だったとしても。
祈りを捧げて
一度だけ、本気で人を呪ったことがある。全身全霊でその人の苦しみだけを願った。私を苦しめた人。誰かの不幸をあんなにも強く願ったことなど人生で他にない。あの時、私の身体の中で何かが強く燃え上がるのを止められずにいた。だがやはりあれは、間違いだったのだ。私の心はすっかり疲弊してしまった。残ったのは虚しさだけ。あの時の事が蘇りそうな時、私は祈る。どうかもう、あの人にも私にも訪れるのは平穏でありますようにと、と。
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静かに膝をつき、祈る君の横顔は綺麗だ。けれど、呪詛を口にした君はもっと綺麗だった。あの時の君は美しく、強い生命力に溢れていた。それが私を強烈に惹きつけたんだ。奇妙だと思うかい?それほど君は美しかった。なのに君は間違いだったなんて悔いている。どれほど真摯に祈りを捧げようとも、私は覚えている。誰かを壊したくてたまらなかった君のこと。君の思いが私をここに繋ぎ止めたんだ。だからもう一度見せてくれないか、あの熱情。どうか受け入れてほしい──悪霊の私であっても。いつも君の心の影とともにあるから。
遠い日のぬくもり
亡霊は、思いを馳せてみることにした。遠い日のぬくもりについて。遠い遠い過去の、それも太古の昔に生きた誰かのぬくもりについて。その人は、享受していたのか喪失したのか提供していたのか、あるいはどれも叶わず渇望したのか。歌や絵や物語の中にぬくもりの断片を留めようとしたことがあっただろうか。それから亡霊は、遠い未来の日のぬくもりについても思った。目覚ましい勢いで進化を続けるAIが、ついに最適化されたぬくもりを生成する日が来るのかもしれない。精密に設計されたぬくもりに、人は違和感を覚えるだろうか、それともあえて選び取るだろうか。いずれにせよ、亡霊には関係ないことだった。身体性においても関係性においても、ぬくもりは亡霊をすり抜けていく。亡霊は目を閉じて暗闇に戻った。
揺れるキャンドル
風もないのにキャンドルの火が揺れるのは、もうこの世にはいない懐かしい人が守護霊となって来てくださったからだよ。感謝の気持ちを込めてお祈りしなさい。
祖父はそう言って厳かな面持ちでお祈りを始めた。お祈りの後、祖父がキャンドルの火を吹き消すと、一瞬辺りは静まり返り、僕は誰かが立ち去ったような気がして背筋を伸ばしたものだった。子供の頃の思い出だ。
だけど幽霊になって分かったことがある。キャンドルの火が揺れる時、確かにそこに霊はいる。だがおそらく……生者が想定している数十倍はいる。部屋はもう、ぎゅうぎゅう詰めだ。僕らはひしめき合い、重なり合い、半透明同士で遠慮なく密着している。
「押さないで」
「そっちこそ」
「ちょっと、私の透過率下げないでくれる?」
そんなやり取りが、あちこちで起きている。稀に幽霊の気配に気づく人もいるが、こんなにも異様なほどの密度で存在していると知ったら驚くだろう。
つまりこれは、さまよえる魂がいかに多いかってことだ。僕らはいる。世界のあちこちでところ狭しと漂っている。キャンドルの火が揺れるのは、守護霊が降臨したからではない。霊たちの押し合いによって生じたささやかな風のせいなのだ。
そしてここだけの話、実はキャンドルの火を吹き消しても僕らは消えない。そこに居続ける。生者が「ああ、帰ってしまったのだなあ」と感慨深く浸っている時も僕らは居る。気まずい。気まずいし、いたたまれない。しかしどうしようもないんだ。僕らだって火が消えるのと同時に立ち去ることが出来ればどんなにいいかと思う。だけど僕らは暗がりの中から抜け出せない。ひしめき合ったまま、なぜここにいるのかも分からず、未練があるのかどうかさえ思い出せないまま漂っている。