いやあ、参った、参った。
探し回ったんだ、この炎天下。コンビニを何軒も回ったよ。
悪いな、結局見つからなかった。お前の好きなピースもとうとう販売中止だってよ。俺がタバコやめてから何十年も経つから、全然知らなかった。
お前のピース、今年はなしだ。ははは、ザマアミロ。いい機会だからお前も今後禁煙な。
今時タバコなんてな、害悪扱いだぞ、吸ってる奴のほうが珍しい。でもコンビニ行ったらレジの向こう側にぎっしり陳列されてるのにな、みんなどこで吸ってるんだろうな。
すまん、花も忘れた。
いいだろ花なんか……いつもならユキエが用意してたから、すっかり忘れてたよ。
ユキエは今、入院してる。時々……わけの分からないことを言うようになった。認知の症状の出方は強弱があるようですね、なんて医者は言うんだ。
もどかしい言い方しやがって、まだらボケってやつだよ。
ちゃんと夫婦やってきたつもりだったのになあ、何十年も。誰?って言われるとやっぱりきついもんはあった。
なんかあいつの夫である身分をべりっと剥がされたみたいでなあ、怖かったよ。
ずっと考えてるんだ。
お前が生きてたら、ユキエと夫婦になったのは、やっぱりお前だったんだろうってさ。
気持ちっていうのは変わらないもんだ、特にお前みたいに若くてポックリ逝った野郎は、女心に残るんだろうな。俺の心にもしっかり残ってるぞ。
なあ、恨んでるか? ユキエと一緒になったこと。俺だって知ってたさ、お前とユキエがお互い憎からず思ってたのは……バカじゃねえのか、なんでお前ユキエに何も言わなかったんだよ。ユキエの心を宙ぶらりんにしたんだよお前は。
もしお前とユキエが一緒になったんなら、一番喜んだのは俺だからな。
最近よく思うんだ……お前がまだ生きていてユキエと結婚してたら、どんな夫婦になったんだろって。お前なら、ボケたユキエに誰って言われて、俺に泣きついてくんだろうな、とかな。
おい、俺のこと恨んでるなら化けて出てきていいぞ。
寂しいユキエにつけ込みやがってと、罵るのでもなんでもいい。俺のところに化けて出てきてくれよ。俺は待ってるんだ、お化けのお前が俺の前に現れるのを。
もうずっと、ずっと待ってるんだ。何十年も。
なんで化けて出てきてくれないんだよ。
お化けでいい、顔を見せてくれ。
暑くて毎晩寝苦しいんだ、エアコン代わりにお前で涼んでやるからさ、年寄りになった俺を見て笑ってくれよ。
八月、今年もまた墓前にて
あなたが、あの人のことを褒めた夜、私は眠れませんでした。
あなたが褒めるのもよくわかります。
あの人の美しさは決して、顔立ちやスタイルの良さだけではありませんでした。
あの人の価値観、自由な精神があの人を輝かせているのです。
あなたがその輝きに目を奪われるのは、当然のことのように思えます。なぜなら、あなたとあの人はよく似ているからです。あなた方は精神の自由さにおいて同じ光を放っているかのようです。私には到底辿り着けず、だからこそ焦がれてやまない光です。
魂の共鳴、というものがあるのだとしたら、きっとあなた方にそれは起こりうる、そんなことさえ思うほどです。
あなたの隣にいることは、私の誇りでした。指に光るシンプルなリングは、愛の証であるとともに、平凡な私にささやかな優越感さえもたらすものでした。
ですがあの日、あなたの瞳にあの人の影が宿ってから、私は平穏ではいられなくなりました。
心の奥が焼けつくように疼きます。焦燥感を煽るように胸を打ち続ける熱い鼓動は息苦しく、私から眠りを遠ざけました。
あなたは何も変わらないでいてくれました。
あなたは私の話に耳を傾け、手を握り優しく微笑んでくれます。
ですがその瞳の奥で見ているのはあの人でした。私の言葉を聞きながら、あなたはあの人の為の言葉を探しています。
いっそのこと、あなたとあの人に憎悪を向けることができたならば良かったのにと思います。
私の中に小さな子供がいて、暴れているのです。
四六時中私だけを見て、私以外の誰も褒めないで、言葉を尽くして私だけを愛してと叫ぶ子供です。
自分へ向けられるはずの愛を失う恐怖に怯える子供を、私は必死に宥めました。
私がここに来たのは終わらせるためです。
嫉妬に支配され、心が蝕まれていくことに、疲れ切ってしまいました。
終わらせて自由になりたいのです、あなた方のように。
羽などなくとも、私はきっと自由になれるはずです。
空を掴むように身を投げ出す。それだけが私の中で確かなことでした。
そしてその時こそ、私はきっと自分の光を見いだすことが出来ると思うのです。
今、私を現実に繋ぎ止めるのは、手すりに触れた指先の冷たい感触だけです。
窓の下を見ることはしませんでした。
目を閉じれば、心地よい冷たい風が私の額を撫でていきます。
自由になれる、その熱い鼓動だけが私を突き動かしていました。
雨上がりの空を、電車の中から眺めていた。
まだ灰色の雨雲の残る空、虹が薄くかかっている。
ふと昔のクラスメイトのことを思い出した。
あいつ。
いつもしょうもない嘘ばかりついていた、あいつ。
「虹のはじまりを見たことある」「人面犬も飼ってるし」
あいつはいつも、そんなバカみたいな嘘をついては得意げな顔をしていた。
小学六年生にしては、あまりに拙く幼い嘘に、みんな呆れて反応もしなかった。
クラスの女子が言ってた。
「またあんな嘘ついて……やっぱお父さんいないから構って欲しいんじゃない? なんか可哀想。っていうか痛々しい」
可哀想、痛々しい。
その言葉に俺はぎくりとした。
俺にも母親がいなかった。ちゃんとしてないと、俺もあいつみたいに痛々しくて可哀想だと思われる、子供心に強烈にそう思ったことを覚えている。
あいつが誰からも見向きもされない嘘をつくたび、ヒヤヒヤした。
なんでそんな嘘をついてまで人の気を引こうとするんだ、可哀想だなんて思われて、余計惨めだろって。
そして俺は、そんな事を思う自分が嫌だった。
あいつ、今どうしてるだろう……。
「おー! 久しぶりじゃん、元気?」
突然、声をかけられ顔をあげて、ぎょっとした。
目の前には、まさにそいつがいたからだ。記憶の中のしょうもない嘘ばかりついていたあいつ。大人になったあいつが俺の前に立っていた。
「俺だよ、覚えてね? 小学校一緒だったよなあ、懐かし!」
正直、戸惑っていた。
子供の頃のあいつの嘘と、俺の後ろめたさが一気に蘇る。
「お前今何やってんの? 俺は今さ、ゲーム開発の仕事してんだけどさ」
奴は昔と変わらず、一方的にまくしたてる。電車の窓の外に視線をやると、ぱっと笑顔になった。
「お、虹」
そしてスマホの画面を差し出して言った。
「これみて」
思わず、あ、と言ってしまった。
そこには虹のはじまりが映っていた。きらきらと光る草原に、虹が溶け込むように降り立っている。
「今、俺が作ってるゲーム。これスタート画面」
奴は、目を輝かせて語り出す。ストーリーはこうだとかキャラ設定はこうだとか。
子供の頃、教室で聞いたバカみたいな嘘の話だ。
俺は思っていた、こいつ、頭の中でこんなにも生き生きとした世界として広げていったのかって。
「発売したら絶対プレイしてよ、めっちゃ面白いから! あ、俺ここで降りるわ、じゃーな」
そういい残すと、奴は慌ただしく電車を降りてしまった。
電車の中に残された俺は、言葉もなくただ呆気にとられていた。
……そうか。あいつの嘘は夢であり、クリエイターとしての原点だったんだな。
溢れる想像力は、奴を惨めになんかしてなかった。
惨めだったのは俺の方だ。
痛々しいだとか可哀想だとか、あいつを同類にして一番見下していたのは、俺だったんだ。
ごめん……お前の嘘は、俺の弱さを暴いてるみたいで、怖かったんだ。
お前のゲーム、絶対やるから、絶対に。
そう伝えればよかった。
俺は窓の外を見る。
もう虹は、薄くなって今にも消えそうだった。
あいつが作り出した虹のはじまり。俺は電車に揺られながら、消えかかった虹をいつまでも眺めていた。
いつもは泣かないあっちゃんが、火がついたように泣いた。
僕はびっくりして、あっちゃんの顔をまじまじと見つめていた。
何が理由だったかなんて、今とはなっては覚えてない。
ただ、あっちゃんが泣いた。
あの強いあっちゃんが。
まさかあっちゃんが泣くなんて、僕は夢にも思わなかった。
だって、あっちゃんはみんなのヒーローだった。
いつも笑顔で、困っている子がいたら真っ先に助けて、みんなをぐいぐい引っ張るリーダーだったから。
でも僕が一番心に残っているのは、泣き喚いたあっちゃんじゃない。
泣き疲れて僕の肩に寄りかかってきた、ぐずぐずのあっちゃんだ。
僕のTシャツをびしょびしょ濡らすほど涙を流したあっちゃんは、泣き疲れたのか半分眠るように目を閉じて、まだ鼻をグスグスすすっていた。
頬には、幾すじもの涙の跡がついていた。
あの時、僕は思ったんだ。
もし僕が犬のマロンだったら、あっちゃんの頬をぺろぺろ舐めるのに。
そしたらあっちゃん、くすぐったくて笑うかもしれない。
僕が泣いた時、マロンがそうやって顔を舐め回して思わず笑っちゃったみたいに。
でも僕は犬じゃない。
ぺろぺろするわけにはいかない。
だから結局、僕は何もできなかった。
すぐ隣であっちゃんが泣いているのに。僕はあっちゃんの涙を拭う勇気すら出せなかった。
そして今日。
あっちゃんがまた泣いた。
あっちゃんの涙を見るのは、あの幼い日以来だ。
惜しげもなく流れる涙は、あの時と同じだった。
あの頃と同じく日焼けした、でもすっかり丸みなんか消えて細くなった頬に涙が流れていく。
きっと今、あっちゃんの涙を拭うのは、隣にいる人のほっそりした指なんだろう。
彼女の前では、あっちゃんはこんなにも素直に笑って泣けるんだ。
あっちゃん、君はちゃんと見つけたんだね、一緒に笑って泣ける人を。
少しだけ思っていた。
あの頃、あっちゃんの笑顔も泣き顔も一番近くで見ていたのは僕だったのに。
やっぱりあの時、犬の真似でもいいから、あっちゃんの頬を舐めときゃ良かった。
そしたらあの時、僕があっちゃんを笑顔にしたかもしれないのに。
結婚おめでとう、あっちゃん。
どうか、お幸せに。
めちゃくちゃ幸せになってくれ。
いつもの朝食の時だった。
妻が突然、「私、過去に戻れるんだよね」と言い出したのだ。
僕は、持っていたトーストを落としそうになった。
「え、まじで?」
まじでまじで、と妻。オレンジジュースを一気飲みして妻は言った。
「なんか私、そういう能力あるみたい」
まじなのか。僕は身を乗り出して妻に質問した。
「すげーじゃん。どうやって過去に戻るの? タイムマシン作った?」
「タイムマシンなんて、そんなすごいのじゃなくて」
妻はころころと笑って言った。僕は妻が楽しそうに笑うのが好きだ。
「なんかね、念じたら、シュッていけちゃうんだよね」
「そんな簡単なんだ?」
「ねえ? 意外とシンプルなんだよね」
過去に戻れるという常人ではあり得ない事態なのに、めっちゃ普通に受け入れる妻。僕は妻のそういうところも好きだ。一緒にいて飽きないとはこういう人だ。
「で? 過去に戻って何してんの?」
僕は興味津々。前のめりで妻に聞いた。
「んーたとえばさ、ヘアサロンとかでオーダーした髪型となんか違うって時とか、ネットで数量間違って注文したやつ取り消したりとか、そういう小さい後悔とか失敗をリセットしたりとか、その程度だよ」
「へえー! 便利な能力」
それから僕は、ちょっと考えて、笑って言った。
「何度か過去に戻ってるんだ?」
「まあね」
「失敗をリセットするために?」
「そんなとこ」
「じゃあ……僕と結婚したことについては、君は失敗じゃないって思ってくれてるんだね。僕との結婚はリセットされてない」
妻は、あはは、と軽やかに笑った。
「そんなこと考えたんだ?」
「僕との結婚は……失敗じゃない?」
「当たり前でしょ。失敗だなんて思ったことないよ」
「でも君を好きな人は僕以外にもいたろ?」
「あら、知ってた? そう、いたわね……でも何度過去に戻っても、私はあなたを選ぶに決まってる」
妻の言葉に、僕は胸がじんわりと温かくなった。
「何度でも僕の妻になってくれてありがとう」
テーブルの上で僕と妻は手を握り合った。妻の照れた笑顔を見ながら、僕は改めて目の前の愛する人と、夫婦でいられることの幸せを噛み締めた。
「私、もう過去に行くのやめようかな」と妻が言った。
「え? せっかくの能力なのに、勿体無い」
「なんかリセット癖ついたらやだし」
「リセット癖?」
「そう。何回か過去に戻ってリセットしてみて……私も考えたんだけど、失敗も後悔もさ、なかったことにするよりも、笑って教訓にするとか乗り越える方がいいと思うんだ。よく考えてみればさ、髪型とか過去に戻ってまで、どうしてもやり直したいことじゃなかったし」
失敗したとしても、笑って教訓にし乗り越えるという前向きな妻の考えは、僕も大いに賛成だった。
「二人でいれば、どんな困難もどんと来いだ」と僕は言った。
妻は、頼もしいね、とにっこり笑った。
「あなたと、どんな未来を過ごすのかとても楽しみ」
妻は、輝くような笑顔を僕に向けてくれた。
僕は思いを馳せる。この先、歳をとっても僕らはずっと、こうして2人で笑い合っているだろう。
■■■■■
ある日、僕は目覚めて、違和感に気づいた。
一人だった。隣にいるはずの妻がいないのだ。
ん?
妻?
何でそんなことを思ったんだろう、僕はれっきとした独身者なのに。
だけど何でだろう、結婚していた気がする。そんな記録どこにもないのに。
夢でも見てたんだろうか、妻がいるなんて幸せな夢を。
妻がいて、未来を語り合って……そんな幸せな夢。
枕元に置いたスマホを手にとった。
妻と一緒に撮った写真があるはず……またもや妙なことを思った。
もちろん、そこには誰かとの思い出の写真なんて一つもない。
何で存在しない妻の思い出なんて……
妻?
どんな顔の妻?
僕は妻だと思う人の顔を思い浮かべようとするのだが、なかなか思い出せなかった。
おぼろげでぼやけている。
夢の中で見る人なんて、そんなもんだ。
すぐ忘れるだろう、夢のことなんて。
僕はベッドから出て朝食を用意した。
ぼんやりしてしまってトーストを焦がしてしまった。
真っ黒になったトーストを見て、これは失敗だな、と僕は一人呟いた。
失敗。
失敗、失敗、失敗、とその言葉が僕の頭の中で繰り返された。
そう、失敗だったんだ、彼女にとっては。
だから彼女は、やり直したんだ。彼女って誰? やり直すって何を?
自分でも、何だかよくわからない。
分からないまま、僕の胸には、強烈な悲しみと寂しさが広がっていた。
僕は、一人テーブルにつき、失敗して黒焦げになったトーストを齧った。
トーストは苦くてパサパサしていて、涙が込み上げてくる。
ぽろぽろと溢れた涙は、いつまでも止まらなかった。