言い出せなかった「」
会議室のドアが閉まれば、彼のショータイムの始まりだ。
「OK, guys,準備は出来てるか?君たちの報告が楽しみで、昨夜は眠れないほどだったよ。興奮してるんだ。ここは会議室じゃなくて遊園地か?なんてな、はっはっは!さあ始めようぜ。おっと、その前に一つ話をさせてくれ。今の若いやつらはスマホに夢中だろ?いや、批判するつもりはない。俺はそんな器の小さい男か?そうじゃないだろ?ただな、昔はこうじゃなかった。俺の肌が桃みたいにピチピチに瑞々しかった頃は……」
お決まりのイントロから繰り広げられる若き日の栄光。
guysこと我々は、窓の外の景色に目をやった。
「その時俺はなんて言ったと思う?」「相手は黙っちゃってさ!」「俺のファンクラブにでも入りたいのかよってね」
時計の針はなかなか進んでくれない。いつまで続くんだ、このワンマンショー。
途中退場もできやしない。俺は立ち上がって拍手を送りたいほどだった。
「すごいよ、ボス!あなたの話はいつも……」
喉まで出かかった言葉を飲み込む。結局いつも同じだ──言い出せなかった。
「ものすごく、つまらない!!」
secret love
私の家にはお父さん専用の部屋があるのだけど、私はその部屋がどこにあるか知らない。それを知っているのはお母さんだけで、お父さんはそこから出てこない。私はお父さんの顔も見たことがない。
時々、家の中にくぐもった低い呻めき声が聞こえるんだけど、あれがきっとお父さんの声なのかなって思う。壁の向こう側のどこかにお父さんがいる。
この間、お母さんから鍵をもらった。お母さんは言ったの、あなただけの秘密の部屋を作りなさい、って。そして私はこっそり、愛し方を受け継いだ。
愛する人を誰にも分からない場所に隠しておくんだって……なんて素敵なんだろう。ドキドキしちゃった。きっと私はあなたの為に部屋を整える。どんな部屋にしたい?花も飾りましょう。カーテンの色はあなたが決めて。その部屋にあなたを隠してあげる。そこでずっと愛し合うの。決して人には明かせないような愛し方で。
ページをめくる
図書館で借りてきた本を読んでいたら、ページをめくるたびに妙な音がした。
「あっ」とか「んんっ」とか、誰かの息づかいのような。気味が悪くて本を逆さにして振ってみたら、本の中から「すみません」と声がした。
……なんとこの本のページとページの間に、幽霊が取り憑いていたのだ。
事情を聞くと、彼は生前この本を読み終える前に不慮の事故で亡くなり、どうしても結末が気になって本に憑いたらしい。とはいえ、実体のない幽霊じゃページをめくることもできず、悶々としていたんだとか。
本に取り憑くなんて妙な話だったが、よっぽど最後まで読みたかったんだろう。気の毒に思った僕は、幽霊と一緒にこの本を読み進めることにした。
最初はタイミングが合わなかった。そりゃそうだ。本を読むっていうのは、本来一人で行うべき孤独な作業なのに、それをシェアするなんて。僕がページをめくると「まだ」と咳払いされ、幽霊が「次いって」とせかす時には僕がついていけず。
けれど半分を過ぎる頃には、僕が「いい?」と聞き、幽霊が「ん」と返事して、めくる。そんな呼吸が自然に合ってきた。
気がつけば感想を言い合うまでになっていた。「この展開どう思う?」「まあ、そう来るかって感じ」なんて。
ちょっとした不思議な連帯感が生まれつつあった。人生とは、ページをめくっていくようなものだと言うけれど、案外二人でめくるのも悪くないのかもしれない。相手は幽霊だけど。
最後のページまでたどり着いたとき、幽霊は満足そうに「ありがとう」とだけ言い、すっと消えた。部屋には、ぱたんと本を閉じる音だけが残った。
なあ、幽霊。案外楽しかったよ、二人で本を読むというのも。また誰かとこんな風にページをめくる日が、僕にやって来るだろうか。その時が来るかどうかは分からないが、それまで僕はまた一人、ページをめくることにするよ。
ちなみに僕らが一緒に読んでいたのは物語とかではなく、『読むだけで話し上手になれる、会話の間なんかもう怖くない』というハウツー本だ。
……取り憑くほど執着したなんて、幽霊は生前よっぽど会話下手だったんだろう。僕と同じだ。どうかあの世で役立っていますように。
夏の忘れ物を探して
僕の友人は、遺失物センターで働いているのだが、9月になると決まって「夏の忘れ物」が急増するらしい。彼は遺失物管理者として、それらをひとつひとつ丁寧に保管しリストを作っているそうだ。
夏の忘れ物ってどんなのだよ、と僕が聞くと友人は、たとえばこんなの、といくつか挙げてみせた。
夏休みの終盤に焦って書いて結局出さなかった読書感想文、置き去りにされた片方だけのビーチサンダル、何度挑戦しても一度も成功しなかった逆上がりの練習帳、ホタテの貝殻に書いて海に流したはずのラブレター、いいねがひとつもつかなった花火大会のSNS投稿、リクエストが一度もなかったサマーソング……時には、誰も怖がってくれなかった幽霊、なんていうのもあるらしい。
へえ、色々あるんだな、と笑ったが、実は僕も夏に忘れてきたものがあった。あの人のこと。夏の思い出ってやつだ。あの人が僕に向けた微笑み、震えながら閉じた瞼、髪に残った潮風の匂い、耳元で囁かれた「またね」の言葉。でも全部、わざと忘れてきたから探すつもりはない。
まあ、取りにくる人なんてほとんどいないけどね、と友人は笑った──特に、ひと夏の恋とかはね。友人がからかうような笑みで付け足したのを、僕は肩をすくめて受け流す。この友人なら、「またね」という言葉は、再会の約束ではなく別れの言葉だと僕より早く気づいただろう。
誰も取りにこなかった忘れ物はどうなるんだ? と僕が聞くと、友人はあっさりと言った。処分だよ。保管期限が切れたら処分。再利用できるものでもないし。
友人と別れた帰り道。
日没の早まりを感じながら僕は、遺失物センターに保管された夏の忘れ物たちに思いを馳せた。持ち主が取りに来ることもなく、片隅に積み上げられたものたち。だがまだ淡く夏の煌めきを残している。そのわずかな、もうすぐ消えていくだろう煌めきが、僕の胸をほろ苦さでいっぱいにした。
8月31日、午後5時
君は今年も無事、9月1日を迎えただろうか。
僕はまだ、8月31日の午後5時にいる。時計は進んでも僕の中に空白時間として抱え込んでしまった。僕はあの時の君の声を反芻している──もう来なくていいよ。
たいして意味のない言葉だったのに、ナイフそのものだった。どんな言葉で返すのが正解だったのか、僕はいまだに考えている。あの時感じた複雑な感情の中で、最も僕を捉えて今も離さないのは、屈辱、悲しみ、焦り、怒り、哀願のどれだろうか。考えてはみるが結局、いつも結論は出ない。
正直、君の顔はもう思い出せない。なのに、あの時の表情だけは鮮明だ。
君はあまりにも無表情だった。人間ではないみたいに。
皮肉にもあの無関心さが、僕を執着させているのかもしれない。もう顔も覚えていない君の無表情が、今も深くナイフを刺し込んで僕を8月31日、午後5時に繋ぎ止めている。