家族とさえ関わらないように生きてきて、もちろん誰にも心を許したことのない僕にとって、true loveなんて類の言葉の意味を考えようとすると、頭の中に霞がかかったようにぼんやりしてしまう。まるでブレインフォグみたいだ。
ストレスに近い状態じゃないかと思う。
愛について考えるということは、愛を得られない自分についても考えなくてはならないということ。
だからごめん、true loveって競走馬にもいるよね、なんて茶化すくらいしか思いつかなくて。
true loveどころか打算的愛にも縁遠い僕は、世間から断罪されている気分になる。
愛を知らない人生なんて恥ずかしくないの?みたいに。
そんなことはないのかもしれないけどね、どうも卑屈になってしまうみたいだ。
だから僕はまず、小さな打算から始めてみようと思う。
ほんの少し、手を差し伸べるところから。
自分だけの小さな満足の為だけでいいから。
true loveにはほど遠くても、これが僕の一歩となるのなら。
「またいつか書けると思ってる?
多分君ね、使い果たしちゃったんだよ。
才能じゃないよ。
君が一番分かってるよね。
君に才能なんてあるわけない。
君が持ってたのは、運。ちっぽけな運ね。
それが尽きたってだけ。
自分で自分のこと賢いと思ってるんだろ?
なら諦めた方がいいって分かるよな。
他にやりがいのある仕事たくさんあると思うよ」
憧れだった、あの才気あふれる作家に言われた辛辣な言葉は、今でも俺の耳にこびりついている。
あれは呪いか?
だとしたら、今でも十分その効力は絶大だ。
一度地方紙で貰った評価(それもたまたまだったに過ぎない)にしがみつき、それっきり鳴かず飛ばずだった。
甘えていた俺。逃げてばかりいた俺。
あの人の言葉は、そんな俺を打ちのめすのに十分だった。
痛いほど真実だった。
あの人の言う通り、才能もなく、ちっぽけな運を使い果たした俺には何もない。
それでも俺は、あの人の言葉を墓標にはしたくない。
まだ断片しか見せてくれない物語の先を、俺が見たいから。
俺の中にまだ、語りたい声が聞こえてくるから。
俺はまだ物語を書くことをやめてないよ先生。
悪かったな、賢くなくて。
星を追いかけて
①星へ駆ける
馬にまたがり、彼は星を追っていた。
目指すはあの一番輝く星。
冬の夜空に、どの星よりも早く光るあの星だ。
彼は信じていた。あの星に追いつけば誰も見たことのない世界にたどり着けると。
「星に追いつこうなんて馬鹿げてる」
大人たちは笑った。
けれど彼は走った
だって、追いつく気でいたからだ。
未知の果てに何があるか知りたかった。
馬の脚が地を蹴るたび、空気を裂いて進んでいく。
視界に入る景色は次々と背後へと流れ、
冷たい風は熱に吹き飛ばされた。
「星が逃げるなら、僕が速くなればいいだけだ!」
走れ、もっと速く、前へ進め。
彼の胸の奥で、未知への渇望が燃えている。
それが燃え続ける限り、星は遠くない。
大人たちが笑う中、彼は夜空の奥へと消えていく。
ほら、見ただろう?
一瞬、星が彼の頭上で大きく瞬いたのを。
追い続けることで、それは彼の道になったんだ。
②彼女の星
「未練があるなら、追いかけてきてもいいよ」
彼女はそう言うと舞い上がり夜空に消えていった。
風変わりな子だった。
地球には調査に来たのだという。
「何の調査?」
「決まってるじゃない、地球人についての調査」
「じゃあ僕は調査対象というわけだ」
「そのようね」
「何か分かった?」
「地球人はNetflixとガリガリ君が好き」
「そうとも限らないさ」
「あとキスが下手」
地球人代表として大変申し訳ない。
僕のキスは下手だけど、キスが上手な人もたくさんいるって。
もし何億光年か先、君に再び地球人の恋人ができたとしたら、その時はキスがうまい相手だといいね。
ただ言い訳をするならば、彼女のキスはとても……コズミックすぎるというか、ここに書くのも憚られるようなものだった。
まるでブラックホールに吸い込まれるような。
ともかく彼女は夜空に消えた。
ーー未練があるなら、追いかけてきてもいいよ
そんな言葉を残して。
しまった、どの星か聞き忘れてしまった。
これじゃあ、追いかけようがないな。
ロケットもないし。
なんて追いかけない理由を幾つも並べて、僕は夜空を見上げる。
この夜空に無数に散らばる星の何処かに、彼女の星がある。
彼女のことを想いながら、僕はいつまでも夜空の星達を見上げていた。
「魚になって今を生きたいわ」
夏の暑い日、妻がぽつりとそう呟いた。
僕は水の中をスイスイと泳ぐ魚を想像する。
きっと白と青の鱗がキラキラ光る、ステキな魚だ。ヒラメとかじゃない。
魚は過去を悔やんだり未来を夢見たりするんだろうか……種を残す、なんて遺伝子に組み込まれた本能以外に何か考えたりするのかな。
そもそも魚は、精神的活動をするんだろうか?
水草の中を優雅に泳ぎ回って、今を生きてることを思索する魚がいたら、是非その死生観について聞いてみたいものだ。
今を生きるってどういうことだろう……
過去を過去として認めること?
黒歴史にもう怯えないこと?
未来への投資としての現在?
いつだって今を必死に生きてきたつもりだけど、正直僕には、よく分からない。
実は魚の方が分かってたりして。
もし僕が、魚だったら……なんてことを考えていると妻は言った。
「あなたも泳ぐ?」
「網にかかりそうな未来が気になるから、やめとく」
僕が答えると妻は、ちらりと僕を見た。
妻は片方の眉を引きあげて、ふーん、と言った後、まるで水草の陰に隠れる小魚のようにつんと部屋に引っ込んでしまった。
……むむ。妻の機嫌を損ねたらしい。なんでだ?
詩みたいな言葉をさらっと紡ぐくせに、気持ちを伝えるのは、実に不器用な妻。
妻はいつも想いを水の底に沈めて隠してしまう。
でも僕はそんな彼女の拗ねた背中にも惚れている。
さて、今を生きる、なんて大きな問いに明確な答えが出せなかった僕は、妻をなんとか笑顔に引き戻そうと作戦を練る。
そんな風に僕らは、この暑い夏を泳ぎ続けるんだろう。水の流れに身を任せて、何かを掴みそこねながら。
ベッドの上で散々ふざけ合った後、あなたはまだ熱の帯びた肌を、シーツからそっと離して、立ち上がった。
「帰らなくちゃ」
「え、もう帰るの? 早いね」
「だって、夫が帰ってくるもの」
旦那さんの事を言う時、あなたの声はどこか硬い。私はベッドに寝転んだまま、あなたの背中を見つめる。旦那さんの為にメイクをなおす、あなたの背中はきれい。
「へえ、あなたって旦那さんが帰るのを家で待つタイプのひとなんだ」
吐き出したのは意地悪な言葉で、私は喉の奥がすこしだけ熱くなる。
嫉妬なんて馬鹿みたい。
あなたは振り返り、眉を軽く上げてにっこり笑って言った。
「そうよ。そういう女よ。家に帰ったら、誰かいた方がいいでしょ?」
「そう思うのってやっぱり罪悪感?……女同士でこんなことしてるから?」
私はわざと軽い調子で言うけど、心はどこが、落ち着かない。すがりたい気分であなたの答えを待ってる。
「そう思うなら、思えばいいわ」
あなたは肩をすくめて、鏡の前で前髪を整え始める。その仕草が、いつもより少しぎこちなく思えるのは私の願望?
「ふーん。夫を待つために帰るなんてさ、やっぱり私には結婚なんて絶対無理」
私は枕に顔を埋めて、わざと大げさにため息をついた。
「そうね、それがいいわ。あなたは結婚なんてしないで」
「勝手なことばっかり……ねえ、旦那さんのこと、どこが好きなの?」
私はベッドから身を起こして、あなたの横顔を見つめる。
あなたは鏡に映る自分をまっすぐ見つめて、丁寧に髪をとかす。
しばらくして、あなたは答えた。
「夫はね、木陰みたいな人なの」
「木陰?」
「そう。静かで、穏やかに包みこんでくれる。そっと揺れる木陰そのものよ。夫はわたしに、世界で一番優しい場所を与えてくれるの」
あなたの声は柔らかい。でも私はその奥に滲む寂しさを探している。
「なんか詩的な表現だね、でも嘘っぽい」
また、意地悪な言い方をしてしまう。私は、胸の奥がちくりと痛む……でもあなたはくすくすと笑って言った。
「嘘っぽかった?」
「世界一優しい場所なんて、嘘っぽいよ」
「そうよね、大げさだったわよね」
あなたがあまりにも楽しそうに笑うので、私はベッドから出て、あなたにキスをする。
長い長いキスの後、唇を離すとあなたは言った。
「もう……せっかくメイクなおしたのに」
「リップはまだ、してなかったでしょ」
「……どうしてあなたとのキスって、泣きたくなるのかな」
あなたの目は潤んでて、私は強く抱きしめたくなる。ずるい、と思いつつ私は答える。
「好きな相手だからじゃない?」
「私は夫を愛してるのに」
あなたの声は震えていて、まるで自分に言い聞かせるよう。ずるい本当に。私に言わせるなんて。
「だって、あなたが本当にあなたのままで愛し合えるのは私だからじゃない? 身も心も」
「意地悪言わないで」
私はあなたの手を握りしめて言った。
「好きだよ……私はあなたの木陰になれないの?」
あなたは私の手を握り返し、でもすぐにそっと離す。
「私も好きよ、あなたのこと。特別だし大切に思ってる。でもあの人には必要なの、自分が優しくなれる相手が。誰かの木陰でいられることに、一番安心しているのは、あの人なの」
そう言って、あなたはバッグを手に部屋を出ていく。
ドアが閉まる音が、静かな部屋に響く。
私はベッドに倒れ込み、あなたの香りが残るシーツに顔を埋める。
頭に浮かぶのは――世界で一番優しい場所に帰るあなた。
揺れる枝葉の下で、あなたは微笑んでいる。何本にも別れた逞しい木の根が、あなたに絡みつき閉じこめる。優しさに揺れながらあなたは、静かにゆっくりと呼吸を浅くしていく。