「魚になって今を生きたいわ」
夏の暑い日、妻がぽつりとそう呟いた。
僕は水の中をスイスイと泳ぐ魚を想像する。
きっと白と青の鱗がキラキラ光る、ステキな魚だ。ヒラメとかじゃない。
魚は過去を悔やんだり未来を夢見たりするんだろうか……種を残す、なんて遺伝子に組み込まれた本能以外に何か考えたりするのかな。
そもそも魚は、精神的活動をするんだろうか?
水草の中を優雅に泳ぎ回って、今を生きてることを思索する魚がいたら、是非その死生観について聞いてみたいものだ。
今を生きるってどういうことだろう……
過去を過去として認めること?
黒歴史にもう怯えないこと?
未来への投資としての現在?
いつだって今を必死に生きてきたつもりだけど、正直僕には、よく分からない。
実は魚の方が分かってたりして。
もし僕が、魚だったら……なんてことを考えていると妻は言った。
「あなたも泳ぐ?」
「網にかかりそうな未来が気になるから、やめとく」
僕が答えると妻は、ちらりと僕を見た。
妻は片方の眉を引きあげて、ふーん、と言った後、まるで水草の陰に隠れる小魚のようにつんと部屋に引っ込んでしまった。
……むむ。妻の機嫌を損ねたらしい。なんでだ?
詩みたいな言葉をさらっと紡ぐくせに、気持ちを伝えるのは、実に不器用な妻。
妻はいつも想いを水の底に沈めて隠してしまう。
でも僕はそんな彼女の拗ねた背中にも惚れている。
さて、今を生きる、なんて大きな問いに明確な答えが出せなかった僕は、妻をなんとか笑顔に引き戻そうと作戦を練る。
そんな風に僕らは、この暑い夏を泳ぎ続けるんだろう。水の流れに身を任せて、何かを掴みそこねながら。
7/21/2025, 12:41:48 AM