いつもの朝食の時だった。
妻が突然、「私、過去に戻れるんだよね」と言い出したのだ。
僕は、持っていたトーストを落としそうになった。
「え、まじで?」
まじでまじで、と妻。オレンジジュースを一気飲みして妻は言った。
「なんか私、そういう能力あるみたい」
まじなのか。僕は身を乗り出して妻に質問した。
「すげーじゃん。どうやって過去に戻るの? タイムマシン作った?」
「タイムマシンなんて、そんなすごいのじゃなくて」
妻はころころと笑って言った。僕は妻が楽しそうに笑うのが好きだ。
「なんかね、念じたら、シュッていけちゃうんだよね」
「そんな簡単なんだ?」
「ねえ? 意外とシンプルなんだよね」
過去に戻れるという常人ではあり得ない事態なのに、めっちゃ普通に受け入れる妻。僕は妻のそういうところも好きだ。一緒にいて飽きないとはこういう人だ。
「で? 過去に戻って何してんの?」
僕は興味津々。前のめりで妻に聞いた。
「んーたとえばさ、ヘアサロンとかでオーダーした髪型となんか違うって時とか、ネットで数量間違って注文したやつ取り消したりとか、そういう小さい後悔とか失敗をリセットしたりとか、その程度だよ」
「へえー! 便利な能力」
それから僕は、ちょっと考えて、笑って言った。
「何度か過去に戻ってるんだ?」
「まあね」
「失敗をリセットするために?」
「そんなとこ」
「じゃあ……僕と結婚したことについては、君は失敗じゃないって思ってくれてるんだね。僕との結婚はリセットされてない」
妻は、あはは、と軽やかに笑った。
「そんなこと考えたんだ?」
「僕との結婚は……失敗じゃない?」
「当たり前でしょ。失敗だなんて思ったことないよ」
「でも君を好きな人は僕以外にもいたろ?」
「あら、知ってた? そう、いたわね……でも何度過去に戻っても、私はあなたを選ぶに決まってる」
妻の言葉に、僕は胸がじんわりと温かくなった。
「何度でも僕の妻になってくれてありがとう」
テーブルの上で僕と妻は手を握り合った。妻の照れた笑顔を見ながら、僕は改めて目の前の愛する人と、夫婦でいられることの幸せを噛み締めた。
「私、もう過去に行くのやめようかな」と妻が言った。
「え? せっかくの能力なのに、勿体無い」
「なんかリセット癖ついたらやだし」
「リセット癖?」
「そう。何回か過去に戻ってリセットしてみて……私も考えたんだけど、失敗も後悔もさ、なかったことにするよりも、笑って教訓にするとか乗り越える方がいいと思うんだ。よく考えてみればさ、髪型とか過去に戻ってまで、どうしてもやり直したいことじゃなかったし」
失敗したとしても、笑って教訓にし乗り越えるという前向きな妻の考えは、僕も大いに賛成だった。
「二人でいれば、どんな困難もどんと来いだ」と僕は言った。
妻は、頼もしいね、とにっこり笑った。
「あなたと、どんな未来を過ごすのかとても楽しみ」
妻は、輝くような笑顔を僕に向けてくれた。
僕は思いを馳せる。この先、歳をとっても僕らはずっと、こうして2人で笑い合っているだろう。
■■■■■
ある日、僕は目覚めて、違和感に気づいた。
一人だった。隣にいるはずの妻がいないのだ。
ん?
妻?
何でそんなことを思ったんだろう、僕はれっきとした独身者なのに。
だけど何でだろう、結婚していた気がする。そんな記録どこにもないのに。
夢でも見てたんだろうか、妻がいるなんて幸せな夢を。
妻がいて、未来を語り合って……そんな幸せな夢。
枕元に置いたスマホを手にとった。
妻と一緒に撮った写真があるはず……またもや妙なことを思った。
もちろん、そこには誰かとの思い出の写真なんて一つもない。
何で存在しない妻の思い出なんて……
妻?
どんな顔の妻?
僕は妻だと思う人の顔を思い浮かべようとするのだが、なかなか思い出せなかった。
おぼろげでぼやけている。
夢の中で見る人なんて、そんなもんだ。
すぐ忘れるだろう、夢のことなんて。
僕はベッドから出て朝食を用意した。
ぼんやりしてしまってトーストを焦がしてしまった。
真っ黒になったトーストを見て、これは失敗だな、と僕は一人呟いた。
失敗。
失敗、失敗、失敗、とその言葉が僕の頭の中で繰り返された。
そう、失敗だったんだ、彼女にとっては。
だから彼女は、やり直したんだ。彼女って誰? やり直すって何を?
自分でも、何だかよくわからない。
分からないまま、僕の胸には、強烈な悲しみと寂しさが広がっていた。
僕は、一人テーブルにつき、失敗して黒焦げになったトーストを齧った。
トーストは苦くてパサパサしていて、涙が込み上げてくる。
ぽろぽろと溢れた涙は、いつまでも止まらなかった。
7/24/2025, 1:54:53 PM