君と飛び立つ
私たち夫婦は、これまで旅行らしい旅行をしたことがなかった。
結婚して数年目で私が病気になってしまったから。あなたは職場と家と病院を行き来する日々。
ごめんね。こんな事になってしまって。
ある日、夫がぽつりと言った。
「君が退院したら、夜間飛行に行こうよ。セスナに乗って、夜景と星空を見るんだ」
私は思わず笑ってしまった。
夫からそんなロマンチックな提案をされるとは思わなかったから。
でもそうね、忘れてたけど、そういえばあなたって、そんな事を言えちゃうようなロマンチストだったね。悪くないわね。
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しかしその願いは叶わなかった。
君が病室から戻る日は、とうとう来なかった。
小さな飛行場に着くと、古びたセスナ機が待っている。
乗り込むとシートの冷たさが気になった。
君は驚くだろうな。僕が一念発起して小型機の免許を取ったと知ったら。
そんな事にお金をかけるなんて、と怒った顔が目に浮かぶよ。
プロペラが回って、窓の外の灯りが小さな粒になって視界の下へと遠ざかっていく。
空を飛ぶようになって、僕は不思議な感覚を覚えるようになった。
それはね、時間認知の歪みだよ。
長く空の上にいると、地上とは違う時間軸の中にいるような感覚に陥ってしまうことがあるんだ。
例えば、朝日に向かって飛ぶと、太陽は動かずまるで朝焼けの中を永遠に飛んでいるように思えるし、日没に向かって飛ぶと、夜へと駆け足で進んで、時間を先取りしたみたいな感覚になる。
……僕はワクワクしてしまってね。
地上では知り得ない空の秘密を知った気分だ!
この歳になってもまだ、世界に驚かされるなんて……それがただの幻想だとしても。
「ずっと朝のままのデート」「夜へと駆けていくデート」なんて言ったら、君はきっと笑うだろう。
僕は独り、夜明けの空へ向かった。
もしかしたら、この不思議な時間感覚の中なら、君がいた朝に戻って、君と過ごす時間を永遠に出来るかもしれない。
そんな馬鹿げたロマンを、胸に抱きながら。
8/22/2025, 1:41:57 AM