きっと忘れない
恋愛なんて、ぶっちゃけ僕の人生には必要ないと思っていた。
だけどあの夏、君が駅のベンチで、「もう少し一緒にいたいかも」と笑った時、僕の心臓はうるさいほど鳴り出した。
でもすぐその後、君は目を伏せた。
「ごめん、今のは忘れて」
――忘れないよ。
そう言うのが正解だったのか?
でも、僕は胸がざわついて何も言えないままだった。
今でも思う。あれは、ちょっと……ずるいだろ。僕の心に勝手にデータを書き込んで、即削除、みたいな。
夏が終わった時、君は友達のままで離れていった。
僕も忘れることにしたんだ、以下は脳内で作成した忘却メモ。
君について忘れること
・待ち合わせた場所で会えた時の、照れくさそうな笑顔
・ソフトクリームの下手くそな食べ方
・キラキラ光って見えた髪の毛
・サイズの合ってないブカブカの服
・語尾に「〜的な?」をつける口癖
・メニューを選ぶ時全く迷わないこと
・駅の改札で、うまくタッチできずにもたついていた後ろ姿
・家族とうまく行ってないと打ち明けてくれた時の横顔
・ずっと大切そうにしていた、ちょっと変なキーホルダー
全部まとめて削除したつもりだったんだけど。
この間、君を見かけた。
隣には恋人らしき人。
なのに僕の頭の中では、あの夏の君の笑顔や寂しい横顔がリプレイされていた。
「うわ、削除したデータだぞ、勝手に再生されるのやめてくれ!」
って心の中で叫びたい気持ちだったよ。ほんと情けなかった。
君は今、幸せ?
そうでありますように。
僕は、あの夏から恋なんて必要ありませんので……
誰か忘却の仕方を教えてください。
なぜ泣くの?と聞かれたから
なぜ、泣かないの?と私は男に聞き返した。
泣く理由なんて、数えきれないほどあるでしょ?
第一、この世で生きている事自体、ほとんど悲しくて嘆かわしいことでしょ?
嬉しくても悲しくても、それは涙になるんだよ。
ずっと泣いたことがないんだ、と男は言った。
俺は泣き方がわからない。
そう呟いた男の顔は、溢れるほど涙を流して泣く人たちの誰よりも泣いているように見えた。
ふと、私は彼の為に泣きたい、と思った。
その思いは胸の奥からやってきて広がり溢れて止まらなくなった。
男の頬に手を伸ばし、泣き方がわからない彼の為に、私は泣いた。
なぜ泣く?男が再び問う。
理由なんてどうでもいいじゃない、と私は答える。
男はそれ以上問うことをしなかった。
ただ静かに私の頬をつたう涙を見つめていた。
城の回廊の一番奥の部屋で、年老いた女王は一人横たわっていた。
もう息も細く体を動かすことも出来ない。
かつて栄華を誇ったこの国は、腐敗し傾きかけていた。
女王はただ国を守る為に、強硬な手を打ち続けた。
国は建て直ったが、代償として彼女に残されたのは孤独だった。
魔女と呼ばれ恐れられ、誰も彼女に近寄らない。
老いと病に蝕まれ死を目前にした今、豪華なベッドに寝かされてはいるが部屋は冷たく、彼女に寄り添うものは誰もいない。
魔女に相応しい最期だ、と彼女は自嘲して目を閉じる。どのみち白く濁った目は、何も映し出すことはできない。
意識が遠のいていく中、彼女は悟った。やっと待ち望んでいた終わりがくるのだ。
その時だった。
こつ、こつ、と磨き上げられた石床を踏む足音が響いた。
規則正しいその音は、彼女の遠い記憶を呼び起こした。
この足音は……彼だ。
忘れるはずがない、この足音だけは。
幼い日のこと。彼の目を盗んではよく広い城の中を駆け回って隠れた。大きな柱の影、迷路のような庭の茂み、誰も入ったことのない塔の上。
けれどいつだって彼は彼女を見つけ出した。足音は必ず彼女のすぐ近くまで来て止まる。呆れたような嗜めるような声を聞くのが好きだった。
「姫様、そこにおられるのでしょう?」
彼の足音を聞けば安心したものだ。いつも必ず見つけ出してくれる。クスクスと笑いをこらえながら身を潜めていたっけ。どんなところに隠れたって彼は彼女を一人にはしなかった……まさか、迎えに来てくれたんだろうか。
「姫様」
足音はとまり、懐かしい声が彼女を優しく呼ぶ。
魔女と言われた自分が、姫様などと呼ばれたのが可笑しくて、彼女は深い皺に刻まれた顔を綻ばせた。自分が自分らしくいられたのは、父王の前でもなく母君の隣でもなかったのだと今更ながら思い知る。
彼女は最後の力で目を開く。白濁した瞳ではもう何も見ることはできない。でも彼女には分かる。そこに立っていたのは、とうに亡くしたはずの、ただ一人心を許した人。
「お迎えにあがりました」
――もう誰も来ないかと思ってた。みんな私を恐れ忌み嫌って近づかなくなってしまった。
「私がおります、姫様」
――懐かしいね。あなたは逃げて隠れた私をいつも見つけ出してくれた。
「本当はいつも、心配でいても立ってもいられなかったのです……私はもう二度とあなたを見失いたくはございません」
差し伸べられた彼の手に、彼女はそっと手を重ねた。
「さあ。行きましょう」
――何処へ? 私は何処に行ったらいい?
「どこへでも。あなたは自由です。どこに行かれようとも私がお供いたします」
自由、という言葉に彼女は少し震えた。自由とはどんなものだろう?
女王は彼の手に支えられながら冷たいベッドから抜け出した。身体は少しも重くなかった。
空が朝焼けに染まる頃、城の長い回廊に立つ番兵は、微かな足音を聞いたような気がした。
その二つの足音は、何かに怯えるでもなく急ぐでもなく、軽やかに響いていく。番兵は身構えたが足音はすぐに消え、静寂だけが残された。
終わらない夏
【海辺にて】
君と二人、沈みゆく太陽を眺めていた。
太陽は大きな光の塊となって水平線へと落ちていく。黄金に染まった海は美しかったけれど、僕はやっぱり君の横顔ばかり見ていた。
「きれいな夕日」
そう言って君は笑った。
「君とこんなふうに過ごしているなんて夢みたいだ。夏の終わりを海辺で、君と」
「来年も一緒よ」
「来年も……?」
「ええ、来年も再来年も。その次も。夏の終わりは海でこうして二人で過ごしましょう」
潮風に髪を揺らしながら、君は僕を見上げて笑った。
金色に輝く光の中、僕は君の笑顔をずっと見つめていた。
【祭りの夜】
君と二人、夜空を仰いだ。
花火が広がって散るたびに、握り合った手に力がこもった。
君の浴衣姿はすごく素敵で僕は言葉を失って見惚れてしまうほどだった。でも僕まで浴衣なのが、ちょっとだけ恥ずかしかった。
「見て。すごい花火ね」
「祭りがこんなに楽しいものなんて僕は知らなかった。今まで人混みが苦手で祭りを楽しもうとは思わなかったんだ。でも君がいるだけで何もかも素晴らしくなる」
「じゃあ来年も一緒に行きましょ」
君は僕を覗き込んで微笑む。
「来年も、その次も。夏になれば一緒にお祭りに行って花火を見ましょう。あなたの隣にはいつも私がいるわ」
大きな音がしたかと思うと花火が大輪を描き、その光が君の横顔を照らす。
一瞬を永遠にしたようだ。
【二人きりの部屋】
君と二人、朝からずっと寄り添っていた。
冷房を効かせた部屋で、僕らは皮膚が同じ温度になるまで何度も触れ合った。笑った顔も、泣きそうな顔も、僕にしか見せない姿もすべてが愛おしい。
「そんなに見ないで」
「ずっと見ていたいんだ。君のことを全部、目に焼き付けたい」
「私も。あなただけをずっと見ていたい」
そこで、君の声が少しだけ震えた。
「……あなたを忘れないわ」
ーーーーーー
僕はゴーグルを外した。
失敗だ。
「忘れない」なんて、彼女はそんな事は言わない。
これじゃまるで、彼女はこの後、僕を置いて去っていくみたいじゃないか。
「パターンを変えないでくれ」
僕はAIに言った。
《セリフを追加しました》と、機械的な声が返ってくる。
《別のシナリオを提案しますか?》
ため息が漏れる。AIは分かってない。
僕が欲しいのは新しさじゃない。美しい思い出を変える必要がどこにある?
「同じことの繰り返しでいいんだ」と僕はAIに返答する。
彼女はもういない。
だけど記録されたデータを消去しない限り、彼女は僕の前に現れる。
僕は再び装置に手を伸ばした。
――彼女に会うために。終わらない夏を永遠に留めるために。
遠くの空へ
昼休み、アキは口さがない人たちの陰口に耐えかねて、部屋を出た。
お先です、と言い残して屋上へと向かう。
席を外してしまったから、次は自分が陰口の標的になるかもしれない。まあ、いつものことだ。
あの人たちのことを、一概に責める気にはならなかった。
彼らには彼らなりに理由がある。理不尽な業務に押しつぶされそうな時、不満を言い合ってなんとか息を繋ぐ。あの人たちにとって陰口は、みんな同じだってことを確認する作業のようなものだ。
アキだって、上司に仕事を押し付けられた時、先輩が自分以上にムカついてくれて、ちょっと救われたような気持ちになったこともあった。
だからアキは、彼らと一線を画して孤立する勇気もない。
流されるのも嫌だけど、嫌われるのも怖い。
アキは昔からそういう子だ。
学校の休み時間をやり過ごしていたあの頃と変わらない。
自分から誰かを悪く言うことはない。だけど陰口を非難しようともしない。
無害であろうとして結局、誰とも本心で繋がれない透明な存在になった。
中途半端な立ち位置は、いつだってアキそのもの。
今日だっていつもみたいに、スマホの画面をスクロールして陰口なんて聞き流せば良かったんだけど。
空があまりにも青く、高かったから。
否定的な意味を成す言葉たちは、皮膚を針でちくちく刺してくる。やり過ごすには、雲ひとつなく透き通る青が眩しすぎた。
アキは屋上のフェンスにもたれて、空を見上げる。
昔はあの青い空が全てを吸い込んでくれたような気がしてたけど……
今はもう空を見たって、胸の奥に澱んで残った自分の不甲斐なさが消えるわけでもないのをアキは知っている。
遠くの空へ届けたい思いも相手もいないアキは、ただただ無になる為に、果てしなく広がる高くて青い空へ溶け込んでしまいたかった。