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見知らぬ街



がたん、と音がして体が大きく前に揺れ、僕は目を覚ました。
どうやらうたた寝していたらしい。電車はちょうど停車するところだった。
「お降りの際はお気をつけ下さい」とアナウンスが響く。
降りる人が数人いて、なんとなく僕も電車を降りることにした。
することもない休日の午後、柄にもなくふらりと予定など決めずに家を出た。
だから、降りる駅はどこでもよかったのだ。
ただの気晴らしだった、見知らぬ街を歩いてみよう、なんて思ったのは。
どことなく時間が間延びしたような、よく言えば、のどかさに満ちた小さな街だった。
確かに初めて来た街だったが、こういう地方都市というのは、歩いてみればどこか既視感を覚えるものだから不思議だ。
古びた商店が立ち並ぶアーケードは閑散としているが、完全に機能していないわけでもない。新しい洒落たカフェやヘアサロンなんかもある。
区画整備されたばかりなのか、やたらと広い道路に、新しい遊具が設置されている公園。
都会ではないが、田舎とも言い切れない。どこにでもあるような地方都市。
日本にはいくつこのような街が存在するのだろう。
しばらく、僕は気ままに街を歩いていた。

乾いた風がザワザワと街路樹を揺らすのを見た時、僕はふと、思った──この街を知っている。
よくあるような地方都市の印象。この既視感は、それだけのものだろうか?
あの風に揺れる錆びついた看板を、昔も見たことがなかっただろうか。
秋になれば、あの濃い緑の街路樹の葉が紅く色づくのを、僕は知っているのではないか。
知らないはずのものを『知っている』というの奇妙な感覚は僕を不安にさせた。
思わず、その場で立ちどまってしまった僕に、前から歩いてきた人が声をかけてきた。

「◯◯じゃないか」

名前を呼ばれて、僕は硬直した。
◯◯、という名前は確かに、僕の名前だった。

「お前……帰ってきてたんだな、奥さんが心配してたぞ……どうした、大丈夫か? 顔色が悪い」

知らない人だ。会った事なんてない。
心配そうに僕の顔を覗き込むその人の、名前も顔も僕は知らない。
なのに彼は、まるで古くからの友人のように僕を見ている。この状況に僕は胸はザワザワと騒ぎ出す。

「いつ、帰ってきた? 奥さん心配してたぞ。子供だって小さいのに。何してんだ。もう一ヶ月も、どこ行ってたんだよ……本当にお前は……いや、俺は今は何も言わねえし訳も聞かねえからさ。まずは奥さんとこに行ってやれ、とにかく……お前は戻ってきたんだから」

僕は彼の言うことが一つも理解できなかった。
奥さん、子供……? 戻ってきた?
それは僕のことじゃない。

「人違いじゃないですか」

やっと震える声を絞り出して答えると、目の前の僕の『友人』である彼は、ため息のような息を吐き、静かに目を細める。

「お前は◯◯だろ。何かわけがあってこの街を出たんだろうが、お前はお前だよ、変わるはずもない」

僕は混乱のまま、違うんだ、と呟いた。
彼は優しげな眼差しだったが、その目の端にはどこか、憐れみのようなものさえ浮かんでいた。
気がついたら僕は駆け出していた。恐怖だけが僕を突き動かしていた。僕が僕であることが足元から崩れてしまうような恐ろしさがあった。背後から彼の叫び声が聞こえる。

「おい◯◯、逃げるな、お前の場所はここだぞ! ちゃんと戻ってこい」

叫ぶ声を振り切り、僕は無我夢中で逃げた。
それからあとのことをよく覚えていない。駅まで必死に走って、行き先も確かめず電車に飛び乗った。とにかく遠ざかりたかった。
戻りたかった、僕の街に。
電車を乗り継いで、毎朝利用する駅までたどり着くと、自分の家まで足早に、でも一歩一歩確かめるように歩いた。よく見知ったこの街こそ僕の街、僕の日常があるところ。奥さんも子供もいない。心配してくれるような友人も僕にはいない。何度もそう自分に言い聞かせた。



数年が経った今でも、時折、思い出す。
あの街は、一体何だったんだろう?
白昼夢か、それとも別の世界線か?
どこかの世界で、あの街で生きるもう一人の僕がいて……パラレルワードというSFめいた考えに行き着く。馬鹿げているが、そう結論づけるのが一番しっくり来た。
あの街の僕の『友人』は、一ヶ月ほど僕が不在だったと言っていた。
僕と同じように、あの見知らぬ街で暮らす僕も違う世界に飛んでしまったのかも。
そして空いた穴を埋めるように僕が呼ばれたのかもしれない。

だけど僕は僕のよく知る街に帰ってきた。
いつも引っかかる鍵、育ちすぎた観葉植物、馴染みのソファ、僕の日常。心の底から安堵している、僕が僕のままでいられることに。
それでもふと思ってしまう。
──あの街の『僕』はちゃんと戻ったのだろうか。
──僕があそこで逃げなかったら、僕はあの街で生き続けたんだろうか、もしそうなら、僕は今頃どんな顔をしているんだろう、そして僕が消えたこの街に、また別の僕が迷い込むんだろうか。

結局考えてみたところで、答えなんて永遠にわからない。 
僕はもう、あの街の名前も思い出せない。



8/25/2025, 2:37:35 AM