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7/21/2025, 12:41:48 AM

「魚になって今を生きたいわ」

夏の暑い日、妻がぽつりとそう呟いた。
僕は水の中をスイスイと泳ぐ魚を想像する。
きっと白と青の鱗がキラキラ光る、ステキな魚だ。ヒラメとかじゃない。
魚は過去を悔やんだり未来を夢見たりするんだろうか……種を残す、なんて遺伝子に組み込まれた本能以外に何か考えたりするのかな。
そもそも魚は、精神的活動をするんだろうか?
水草の中を優雅に泳ぎ回って、今を生きてることを思索する魚がいたら、是非その死生観について聞いてみたいものだ。
今を生きるってどういうことだろう……
過去を過去として認めること?
黒歴史にもう怯えないこと?
未来への投資としての現在?
いつだって今を必死に生きてきたつもりだけど、正直僕には、よく分からない。
実は魚の方が分かってたりして。
もし僕が、魚だったら……なんてことを考えていると妻は言った。

「あなたも泳ぐ?」
「網にかかりそうな未来が気になるから、やめとく」

僕が答えると妻は、ちらりと僕を見た。
妻は片方の眉を引きあげて、ふーん、と言った後、まるで水草の陰に隠れる小魚のようにつんと部屋に引っ込んでしまった。
……むむ。妻の機嫌を損ねたらしい。なんでだ?
詩みたいな言葉をさらっと紡ぐくせに、気持ちを伝えるのは、実に不器用な妻。
妻はいつも想いを水の底に沈めて隠してしまう。
でも僕はそんな彼女の拗ねた背中にも惚れている。

さて、今を生きる、なんて大きな問いに明確な答えが出せなかった僕は、妻をなんとか笑顔に引き戻そうと作戦を練る。
そんな風に僕らは、この暑い夏を泳ぎ続けるんだろう。水の流れに身を任せて、何かを掴みそこねながら。




7/18/2025, 5:45:23 AM

ベッドの上で散々ふざけ合った後、あなたはまだ熱の帯びた肌を、シーツからそっと離して、立ち上がった。

「帰らなくちゃ」
「え、もう帰るの? 早いね」
「だって、夫が帰ってくるもの」

旦那さんの事を言う時、あなたの声はどこか硬い。私はベッドに寝転んだまま、あなたの背中を見つめる。旦那さんの為にメイクをなおす、あなたの背中はきれい。

「へえ、あなたって旦那さんが帰るのを家で待つタイプのひとなんだ」

吐き出したのは意地悪な言葉で、私は喉の奥がすこしだけ熱くなる。
嫉妬なんて馬鹿みたい。
あなたは振り返り、眉を軽く上げてにっこり笑って言った。

「そうよ。そういう女よ。家に帰ったら、誰かいた方がいいでしょ?」
「そう思うのってやっぱり罪悪感?……女同士でこんなことしてるから?」

私はわざと軽い調子で言うけど、心はどこが、落ち着かない。すがりたい気分であなたの答えを待ってる。

「そう思うなら、思えばいいわ」

あなたは肩をすくめて、鏡の前で前髪を整え始める。その仕草が、いつもより少しぎこちなく思えるのは私の願望?

「ふーん。夫を待つために帰るなんてさ、やっぱり私には結婚なんて絶対無理」

私は枕に顔を埋めて、わざと大げさにため息をついた。

「そうね、それがいいわ。あなたは結婚なんてしないで」
「勝手なことばっかり……ねえ、旦那さんのこと、どこが好きなの?」

私はベッドから身を起こして、あなたの横顔を見つめる。
あなたは鏡に映る自分をまっすぐ見つめて、丁寧に髪をとかす。
しばらくして、あなたは答えた。

「夫はね、木陰みたいな人なの」
「木陰?」
「そう。静かで、穏やかに包みこんでくれる。そっと揺れる木陰そのものよ。夫はわたしに、世界で一番優しい場所を与えてくれるの」

あなたの声は柔らかい。でも私はその奥に滲む寂しさを探している。

「なんか詩的な表現だね、でも嘘っぽい」

また、意地悪な言い方をしてしまう。私は、胸の奥がちくりと痛む……でもあなたはくすくすと笑って言った。

「嘘っぽかった?」
「世界一優しい場所なんて、嘘っぽいよ」
「そうよね、大げさだったわよね」

あなたがあまりにも楽しそうに笑うので、私はベッドから出て、あなたにキスをする。
長い長いキスの後、唇を離すとあなたは言った。

「もう……せっかくメイクなおしたのに」
「リップはまだ、してなかったでしょ」
「……どうしてあなたとのキスって、泣きたくなるのかな」

あなたの目は潤んでて、私は強く抱きしめたくなる。ずるい、と思いつつ私は答える。

「好きな相手だからじゃない?」
「私は夫を愛してるのに」

あなたの声は震えていて、まるで自分に言い聞かせるよう。ずるい本当に。私に言わせるなんて。

「だって、あなたが本当にあなたのままで愛し合えるのは私だからじゃない? 身も心も」
「意地悪言わないで」

私はあなたの手を握りしめて言った。

「好きだよ……私はあなたの木陰になれないの?」

あなたは私の手を握り返し、でもすぐにそっと離す。

「私も好きよ、あなたのこと。特別だし大切に思ってる。でもあの人には必要なの、自分が優しくなれる相手が。誰かの木陰でいられることに、一番安心しているのは、あの人なの」

そう言って、あなたはバッグを手に部屋を出ていく。
ドアが閉まる音が、静かな部屋に響く。
私はベッドに倒れ込み、あなたの香りが残るシーツに顔を埋める。
頭に浮かぶのは――世界で一番優しい場所に帰るあなた。
揺れる枝葉の下で、あなたは微笑んでいる。何本にも別れた逞しい木の根が、あなたに絡みつき閉じこめる。優しさに揺れながらあなたは、静かにゆっくりと呼吸を浅くしていく。

7/17/2025, 1:05:56 AM

『突如として、夜は眠りの領域ではなくなりました』

彼女のノートにはそう書いてあった。

『睡眠など簡単には許されませんでした。奪われたようなものです。
眠っている間に何か取り返しのつかない事が起きるのではないかと気が気でなかったですし、少しでもまぶたが落ちかけた時に、大きな音で起こされたことが何度もありました。もしこの警告音に気づかず眠ってしまった場合、起きなかったあなたは失格、そう告げられているみたいで、私は必死に目をこすりました』

今はすっかり眠りこけている彼女の横で、私はノートの続きを読む。
ページをめくろうとしたら、窓から風が吹き込んできたので、私は慌てて窓を閉めた。
そういえば台風が近づいているのだ。
窓の外の向こうには重々しい雲が広がっている。
私はノートをめくり、彼女の記述を追った。

『許されたのは、細切れの睡眠時間です。
一日のどこかで、数分ずつ、時間を盗み取るようにして私は眠りました。
この生活に慣れない頃、私はこの短い時間によく夢を見たものです。
うとうとした数分かあるいは数十秒、浅い眠りの中で見る夢です。
短い夢だったのに、私はこの時期に見た夢のことを今でもよく覚えています。
忘れられるはずがありません』

彼女がノートに書いた夢のこと、それは彼女が真昼に見た夢、喪失の幻についてのことだった。

『私がよく見たのは「失う」夢です。
私は夢の中で大切なものをなくしてしまうのです。
確かに大切に大事に腕に抱えたものなのに、私はなくしてしまうのです。
人混みの中、気づけば私は手に何も抱えていません。
海の上、あるいは高い橋の上で私は足元を滑らせ大切なものをなくしてしまいます。
絶対に失くしてはいけないのに。
慌てて起きて、私は呼吸も荒く涙を流しているのに気づきます。
まどろみの中で見る夢の恐ろしいところは、現実との区別が、すぐには分からないことです。
私は目覚めて夢なのか現実なのか分からないまま、失った恐怖で呆然とします。
そして何も失くしてない、こっちが現実だと知って安心するのですが、それも束の間です。
今度は何故そんな夢を見たのかと自分を責めるのです。
そんな恐ろしい夢を見るなんて、何処か心の奥底で大切なものを手放すことを願っているのではないのではないかと、ふと恐ろしい考えがよぎります。
そんな夢を見た自分が許せないのです』

窓の外は風が強くなってきたようだ。
外に出ていた入居者たちが、次々とホームへと戻ってくる。
私はブランケットをなおして、そっとページをめくった。

『貴重な睡眠の時間で、なぜあんな夢を見たのでしょう。
恐ろしい夢のせいで、私は眠った気がせず、余計に疲れていました。鉛のような身体、頭の中はいつも霧に覆われているようでした。眠れない夜、心を抉るような真昼の夢。そんな日々の中で、私の救いは、やはり小さなあなたの笑顔でした』

ノートを読み終えた頃、彼女は目を覚ました。シワだらけの瞼がゆっくりと持ち上がる。

「あ、ごめんなさい。つい読んでしまって」
「いいのよ、昔のことを思い出して書いていたの」
「あの、これって……」
「なんだか最近夜に眠れなくなってねえ……そのせいか昼間にうとうとして夢を見ちゃうものだから、思い出して書いていたの。ずいぶん昔のことなのに」
「眠れないですか、夜」
「年寄りだもの……あら、やっぱり台風が来るのかしら。雲が真っ黒」

彼女は窓に視線をやって言った。私は彼女に尋ねてみる。ノートに書いてあったこと。

「あの……このノートに書いてあったことって……これって、ご出産された時のことなんでしょうか?」
「あら分かる?……そう。もう五十年近くも前になるかしら。でも覚えてるの、本当に怖かったから。生まれたての娘が息しているのかって夜も眠れなくてね。何か最近そんなことばかり思い出しちゃうのよ。ふふ、私、死期が近いのかしら?」
「そんなこと言わないでくださいよ」

彼女はいたずらっぽく笑って目を閉じた。
瞼も指も首も、彼女の肌の全てに深い皺が刻まれている。今の姿から何十年も前の姿を想像するのはなかなか難しいが、私は思いを馳せる。
夜中に何度も起きては、むずがる赤ん坊を必死であやした若い母親のことを。
ホームの入居者の中でも、心配性で生真面目な彼女のこと、きっと初めての育児も不安を抱えたまま必死だったんだろう。
遠くで雷の音がする。やはり台風が近い。もうすぐ荒れた雨がやってくるだろう。

「残念でしたね、娘さん、来れなくなって」
「いいのよ、来ないでって私が言ったの。暑いし台風も近づいてるし、何かあったと思って心配するの、こっちが疲れちゃうもの」

目を閉じたままシワだらけの顔で笑った彼女に、私は再びブランケットをかけて、そして願った。
台風が来る前に、彼女が少しでも眠れますように──ただただ幸せで穏やかな夢を見ることができますように。


7/16/2025, 1:06:31 AM

夜、静寂につつまれた王座の間では、二人の男が向かい合っていた。
この国の王と、彼の忠実な剣士だ。
燭台の炎が揺らぎながら、二つの影を壁に映し出す。
しかし今、忠誠を誓ったはずの男は、冷たい微笑みのまま剣を王に向けている。
二人は強い視線で睨み合っていた。
長い間側に仕えてきた男の瞳が、これほど深い闇を宿すのを、王はこれまで見たことがなかった。王は言った。

「私とお前では、負っているものの大きさが違う。だが私たちには、互いの立場を越えて二人だけで築いたものがあったはずだ」

男はじっと王を見据えたまま、何も答えない。王に向けた剣は震えもしない。

「野望の炎を燃やし、勝利の甘美な瞬間を共に味わった。夜通し馬で敵地まで駆け抜けた。杯を交わしたお前とは、信頼と絆があると信じていた。それらは全て偽りだったのか?」

男は一歩踏み出す。剣先を王の喉元へと突きつけて静かに囁いた。

「偽りではありません、愛する王よ」

剣を突きつけられても、王は王たる風格で動じなかった。目だけでその先を言え、と男に促す。

「私は貴方に全て偽りなく捧げました。そして貴方も私に与えてくれた。栄光の時と微笑みと信頼と、脆い心さえ。身に余る光栄です――私との間に確かに築いたものがあったと、そう貴方も感じていてくださったと知り、私の心は今ひどく震えています」

「ならば、なぜお前は剣を向けるのだ。私に忠誠を誓ったその剣で、何故だ」

王の声に、男の目が一瞬揺れる。

「私の母国は、貴方の力に屈した国のひとつです。苦渋を味わい惨めに生き延びた者が、私を送り込んだのです、復讐の為に。貴方の首を取ること、それこそが己の使命だと教わって生きてきました」

男は一瞬言葉に詰まる――だが、かすれた声で男は続けた。

「私たちが立場を越え二人で築いたもの、それがどれほど私の心を苦しめたか、貴方にはわかるまい。毎晩、私は全て胸に押し込めてきた……私だけの幻想ではなかったと分かった今、この胸は狂いそうなほど痛い。それでも、終わらせねばなりません、母国のために」
「待て。他に道はないのか」
「ありません。ご存知でしょう、貴方を狙う者は多い。今までどれだけ私が貴方への刺客を潰してきたことか。私がやらなくてもいずれ貴方は、こうなる。他の者に貴方を渡したくなどない」
「貴様……」

剣が鋭い光が放つ。次の瞬間、男は王の喉を貫いていた。うめき声と共に、王の喉から血が噴き出す。
赤い血は、ぼたぼたと音を立てて石の床に落ちていった。

「貴様、よくも……」
「王よ、貴方を一人にはしません」

崩れ落ちる王の手に、男は剣を握らせて囁いた。

「貴方の手で終わらせてください。私の命を貴方に捧げたい。愛する王、どうか……私を忠実なる下僕として共にいかせてください」

男は王に握らせた剣を、自ら胸に導いた。剣は男の身体を裂いて心臓へと進んでいく。
男は王の耳元でつぶやいた。

「これで、やっと……二人だけの……」

男の身体を受け止めながら、王は悟った。
喉を貫かれたのは致命傷だ、そろそろ自分の命も消えるだろう、この国はどうなる……?
血が流れ、身体の熱が失われていく。
それなのに手だけが温かった。
それは、かつて忠誠を誓いどんな時も王の傍らにいた男の血で濡れているからだと王は気づく。
最期に王は、見たような気がした。自分の命を奪った男の瞳が濡れて光るのを。
二人だけの絆は、裏切りと死を超えてなお、永遠であればいい。
王は、息絶える前にそう願った。

7/15/2025, 3:36:37 AM

「お盆が過ぎたら夏なんてもう終わりだよ」
北国の生まれの君がそう言ったのを思い出す。
あれから数年。夏はしぶとくなった。
夏の暑さは年々厳しくなって、お盆が過ぎても9月になっても夏は終わらない。
君は今、どうしてる?
夏が苦手な君は、涼しい場所を見つけるのが天才的に上手だったよね。
ちょっとした木陰とか、川辺から吹く風とか。
家の中は玄関が一番涼しいと言って、帰ってきた僕を驚かせたこともあった。
扇風機の風に、ぬるい、なんて文句をつけながら
アイスを頬張っていた君。
だから驚いたよ。
夏が苦手で冷たいものが大好きだった君が、
太陽みたいな男と去っていくとはね。
眩しくて暑苦しくて、いつもカラッと笑ってるような男。
きっと君はあいつの隣で、すっかり日焼けした肌になって、汗をかきながら笑顔を輝かせ、夏が似合うひとになったんだろうな。
僕はといえば、まだ君のいたあの夏に取り残されている。君のように上手く涼しい場所を見つけられないんだ。
君に追いつけないまま、今夜も僕は一人、ひんやりとした夜空を見上げるだろう、そんな夏。

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