『突如として、夜は眠りの領域ではなくなりました』
彼女のノートにはそう書いてあった。
『睡眠など簡単には許されませんでした。奪われたようなものです。
眠っている間に何か取り返しのつかない事が起きるのではないかと気が気でなかったですし、少しでもまぶたが落ちかけた時に、大きな音で起こされたことが何度もありました。もしこの警告音に気づかず眠ってしまった場合、起きなかったあなたは失格、そう告げられているみたいで、私は必死に目をこすりました』
今はすっかり眠りこけている彼女の横で、私はノートの続きを読む。
ページをめくろうとしたら、窓から風が吹き込んできたので、私は慌てて窓を閉めた。
そういえば台風が近づいているのだ。
窓の外の向こうには重々しい雲が広がっている。
私はノートをめくり、彼女の記述を追った。
『許されたのは、細切れの睡眠時間です。
一日のどこかで、数分ずつ、時間を盗み取るようにして私は眠りました。
この生活に慣れない頃、私はこの短い時間によく夢を見たものです。
うとうとした数分かあるいは数十秒、浅い眠りの中で見る夢です。
短い夢だったのに、私はこの時期に見た夢のことを今でもよく覚えています。
忘れられるはずがありません』
彼女がノートに書いた夢のこと、それは彼女が真昼に見た夢、喪失の幻についてのことだった。
『私がよく見たのは「失う」夢です。
私は夢の中で大切なものをなくしてしまうのです。
確かに大切に大事に腕に抱えたものなのに、私はなくしてしまうのです。
人混みの中、気づけば私は手に何も抱えていません。
海の上、あるいは高い橋の上で私は足元を滑らせ大切なものをなくしてしまいます。
絶対に失くしてはいけないのに。
慌てて起きて、私は呼吸も荒く涙を流しているのに気づきます。
まどろみの中で見る夢の恐ろしいところは、現実との区別が、すぐには分からないことです。
私は目覚めて夢なのか現実なのか分からないまま、失った恐怖で呆然とします。
そして何も失くしてない、こっちが現実だと知って安心するのですが、それも束の間です。
今度は何故そんな夢を見たのかと自分を責めるのです。
そんな恐ろしい夢を見るなんて、何処か心の奥底で大切なものを手放すことを願っているのではないのではないかと、ふと恐ろしい考えがよぎります。
そんな夢を見た自分が許せないのです』
窓の外は風が強くなってきたようだ。
外に出ていた入居者たちが、次々とホームへと戻ってくる。
私はブランケットをなおして、そっとページをめくった。
『貴重な睡眠の時間で、なぜあんな夢を見たのでしょう。
恐ろしい夢のせいで、私は眠った気がせず、余計に疲れていました。鉛のような身体、頭の中はいつも霧に覆われているようでした。眠れない夜、心を抉るような真昼の夢。そんな日々の中で、私の救いは、やはり小さなあなたの笑顔でした』
ノートを読み終えた頃、彼女は目を覚ました。シワだらけの瞼がゆっくりと持ち上がる。
「あ、ごめんなさい。つい読んでしまって」
「いいのよ、昔のことを思い出して書いていたの」
「あの、これって……」
「なんだか最近夜に眠れなくなってねえ……そのせいか昼間にうとうとして夢を見ちゃうものだから、思い出して書いていたの。ずいぶん昔のことなのに」
「眠れないですか、夜」
「年寄りだもの……あら、やっぱり台風が来るのかしら。雲が真っ黒」
彼女は窓に視線をやって言った。私は彼女に尋ねてみる。ノートに書いてあったこと。
「あの……このノートに書いてあったことって……これって、ご出産された時のことなんでしょうか?」
「あら分かる?……そう。もう五十年近くも前になるかしら。でも覚えてるの、本当に怖かったから。生まれたての娘が息しているのかって夜も眠れなくてね。何か最近そんなことばかり思い出しちゃうのよ。ふふ、私、死期が近いのかしら?」
「そんなこと言わないでくださいよ」
彼女はいたずらっぽく笑って目を閉じた。
瞼も指も首も、彼女の肌の全てに深い皺が刻まれている。今の姿から何十年も前の姿を想像するのはなかなか難しいが、私は思いを馳せる。
夜中に何度も起きては、むずがる赤ん坊を必死であやした若い母親のことを。
ホームの入居者の中でも、心配性で生真面目な彼女のこと、きっと初めての育児も不安を抱えたまま必死だったんだろう。
遠くで雷の音がする。やはり台風が近い。もうすぐ荒れた雨がやってくるだろう。
「残念でしたね、娘さん、来れなくなって」
「いいのよ、来ないでって私が言ったの。暑いし台風も近づいてるし、何かあったと思って心配するの、こっちが疲れちゃうもの」
目を閉じたままシワだらけの顔で笑った彼女に、私は再びブランケットをかけて、そして願った。
台風が来る前に、彼女が少しでも眠れますように──ただただ幸せで穏やかな夢を見ることができますように。
7/17/2025, 1:05:56 AM