◯◯っていう作家の、ゴーストライターしたことがある。
割と有名作家で賞も取ってる先生。
あ、それは私の書いたやつじゃないけど。
初期に何本か書いてあげただけ。
あんまり部数伸びなくて、使ってくれなくなっちゃった。
今は他のライター使ってるのか、また書けるようになったのか知らないけど。
でもあの先生、私の書く話が一番好きって言ってくれたんだよね。
多分、あの先生が私の書く話を一番理解してくれてるんだと思う。
告訴とかしないよ。
私の話を世に出せたし、今でも要求したら多分お金くれると思うし。
ねえ、知ってる? あの先生の作品によく出てくるチヒロって女の子いるじゃん。
あれ、私のことなんだ。
そうやって作中にラブレター書いてくれるから憎めないの、先生のこと。
昔付き合っていた女の子がこう言っていたのだが、僕は本気にしなかった。
いつもよく嘘を付く子だったし、何より彼女は◯◯という作家の熱烈なファンだった。行き過ぎた妄想というやつだと思っていた。
妄想癖のその子とはすぐ別れたのだが、彼女は今、行方不明になっているのだという。
数年前から連絡が取れず、姿を消してしまったらしい。
つい最近、◯◯という作家の最新作が映画化されると話題になっていた。
◯◯は作家として成功しており、今や売れっ子だ。
特に初期の短編は、毒気と瑞々しさの両方を備えた良質な物語として、再評価されていた。
何となく、今回映画化した作品のあらすじをネットで調べてみた。
僕は、作品の登場人物にチヒロという少女がいることに気づく。
彼女が物語の中で辿る運命を知って悪寒が走った。
妄想癖のあるチヒロは、惨殺されて森の奥に捨てられるのだ。
数年前から行方不明になっているあの子のことが頭に浮かんでいた。
……まさか。
いや、そんなことないだろう、そんな小説みたいな出来事なんて、あるはずがない。
僕は、頭によぎったことを打ち消したが、手の震えはとまらなかった。
風鈴の音。
蚊取り線香、蝉の音、冷えた麦茶、花火、ぐんぐんのびる庭の向日葵。
懐かしき、古き良き日本の情景。
都内のマンションで育った俺には、そのどれにも縁がない。
シングルマザーだった母は実家と折り合いが悪かったらしく、夏休みに田舎の祖父母の家に帰省なんてこともなかった。
俺の子供の頃の夏の思い出といえば、母に勧められて行った夏期講習だ。
午前中は、講師の授業を聞き、午後は教室の片隅で日差しを避けて、与えられた端末でひたすら課題をこなした。
だが、そんな俺でも日本の古き良き夏の情緒は理解しているつもりだ。
コマーシャルや映画なんかでよく見てきたし、経験していなくても、ある種の懐かしさを感じる。
知らず知らずのうちに心の奥に根付いている。
風土に染み込んだ情緒とは、そういうものなのかもしれない。
風鈴の音で目を覚ました。
暑さで空気がよどんだ、夏の午後。
蝉の音がこんなにもしているというのに、すっかり寝入ってしまったようだ。
何となく空気が重い。
畳の匂いが鼻をくすぐった……畳?
少し体を起こすと、縁側の向こうに庭が見えた。
植木が生い茂っている。緑の濃さに目が眩んだ。
すぐ、この状況がおかしい事に気づいた。
俺の家はフローリングだし、庭なんてないはずだ。
「あらあ、起きたの?」
不意に背後で声が聞こえた。
柔らかな声……どこかで聞いたことがあるような。
でも俺は恐ろしさで動けなかった。
親しげな声なのに、なぜか底の見えない響きを感じ取っていたからだ。
ここがどこなのか、背後にいる人物は誰なのか必死に考える。
「麦茶、淹れようか。あ、水蜜もらったんだけど食べる?あんた好きだったわよね」
背後の声は、まるで俺を知っているような素振りだ。
何なんだよこれ、夢の中の出来事なんだろうか、それにしては随分リアルで……
ーーチリン
風鈴が鳴った。風なんてないのに。
風鈴の音と共に、不意に鮮やかな映像が蘇る。
子供の頃の記憶。
畳の匂いが心地よくて寝そべっていたら、幼い俺はいつの間にか眠ってしまったのだ。傍にはお気に入りの絵本。
誰かが掛けてくれたタオルを握りしめていた。
いや、そんなはずはない。
今までの俺の人生で、そんな経験をしたことなんてない。狭かったマンション、無音なフロア。
畳の上で昼寝なんて、そんなことあるわけない。
ーーチリン
また風鈴の音が鳴る。
今度は、縁側から庭を見つめた時のことを思い出した。
年老いた男が微笑んでいる。あれは祖父だ。
祖父は、伸びすぎた枝を剪定バサミで切り落としていた。
ほら、ここを切ったら格好が良くなっただろ、と祖父は日焼けした顔に流れる汗を手拭いで拭う。
俺はよく、庭から祖父の作業を眺めていた。
黙々と作業に没頭していた祖父。
時折、俺の視線に気づくと、祖父は照れくさそうな笑顔を見せた……でもその顔を俺は知らない。
俺は、祖父に会ったことなどない。
「おじいちゃんがいなくなってから庭の手入れ、なかなか出来なくってねえ。私じゃうまくできないから、植木屋さんに頼んでるの」
背後の声が言った。まるで俺の思ったことを見透かしているようでゾッとした。
だが、この声にはやはり覚えがある……まだ、振り向けない。
「見てあの植木。枝が伸びて不格好になっちゃってさ。おじいちゃんにも申し訳ないわよねえ。そろそろ植木屋さんにお願いしなきゃ……」
チリン、と風鈴がまた鳴った。
風鈴の音が鳴るたびに、俺は思い出していた。
この家の縁側に座り麦茶を飲んだこと、近所の幼馴染とスイカを分けあったこと。
幼馴染の剥き出しの肩には、虫刺されの跡がいくつもあった。
水鉄砲、大きくなりすぎたきゅうり、海に行かないのに毎日履いていたビーチサンダル。
夕暮れには花火もした。花火が終わった後、僕は誰かの隣に座って鈴虫の音を聞いていた……
いくつもの、夏の記憶が蘇る。
どれも、自分の人生には存在しないはずの記憶だった。
俺の過ごした子供時代じゃない。
風鈴の音とともに、古き良き、情緒たっぷりの夏の思い出がなだれ込んでくる。
「ゆっくりしていけるんでしょ」
背後で母が言った。
そうだ、これは母の声だ。昼寝をしていた小さな俺にタオルを掛けてくれたのも、花火が終わった後、隣で一緒に鈴虫の音を聞いてくれたのも母だ。
目の奥が熱くなって涙が滲む。
母はもういないはずなのに。
母は、自ら死を選んだ。
マンションから飛び降りた、という説明を俺は警察から聞いた。
過労で心を病んだということだった。
あの狭い部屋を出てから俺は、母にろくに連絡をしなかった。母からの電話を、俺は何度も無視した。
「ずっとここにいなさいよ」
母が静かに言った。
これは俺の幻想なんだろうか?
こんな子供時代を過ごしたかったという願望?
それとも……母の未練、執着なんだろうか。
俺はそこに閉じ込められたんだろうか。
風もないのに、風鈴が鳴り続ける。
その度に、あるはずのない夏の思い出が蘇り、俺の脳内を侵食していった。
結婚しても時折心は逃避行しているような妻
今も風が吹いたのをいいことに
柔らかな髪を風に揺らしながら
心だけは自由に漂わせているみたいな横顔
そんな横顔に僕はずっと恋している
妻と僕はよく似ていた
いつも居心地悪くてどこにも馴染めず
でも決して枠からはみ出すことをしない
何でもない顔をして妻はよく壁を作る
透明で硬い壁の内側には誰にも触れられない
夫である僕は少しだけ胸が痛い
でもなんというか、僕はそんな妻を幸せにしたい
妻に会う前、僕は誰も幸せにしたことがなかったし
誰かを幸せにしたいと願うこともなかった
妻の逃避行さえ僕はいとおしいんだ
その逃避行の果てに帰る場所は
僕のところであると信じているからね
僕ほど冒険と縁遠い者はいないだろう。
生まれてこの方、遠くへ行こうなんて思った事がない。
学校からの帰り道、ふといつもと違う道に入ってみたこともないし、夏休みにみんなが寝静まってからこっそりと家を抜け出したこともない。
何があるか分からないところへ飛び込むなんて、危険すぎる。
控えめで慎重、つまり平凡で臆病な僕には、冒険なんて全く別世界のものなのだ。
身の程をわきまえている、と言った方がいいだろうか。
高校も大学も会社も、いつも自分の身の丈に見合った「そこそこ」の場所を選んできた。
才能なんて何もない。勉強、スポーツは平均以下。
何かを創作するような性質も持ち合わせていない。
そんな僕は、普通に生きるだけで精一杯だ
リスクを取るなんて絶対無理。
しかしそれこそが僕の持ち味、唯一の取り柄だ。リスク回避能力。
胸を張って、特技と言ってもいいくらいだ。
冒険しない人生だっていいじゃないか。
平均よりちょい下ぐらい、個性のないその他モブ。でもギリ、落ちこぼれてなければ別にいいし、モブらしく何か有事の際には真っ先に命を落とすだろうけど、それが僕に与えられた役割なんだろう。
自己肯定感なら低めで安定してるし。
髪型も服装も、いつも通り。
コンビニのスイーツだって定番が一番安心だし。
なんだよ、スイカフレーバーのミルクサイダーって。そんなところを攻めたって僕は買わない。
冒険しない。
冒険したら失敗するのが目に見えている。
毎日、自販で買ったいつものコーヒーを片手に、淡々と業務をこなす日々。
それが僕の人生。
そんな僕が、世界の終わりを生き延びた。
もう、地球は限界だったのかもしれない
海水温度の急上昇、昆虫の異常繁殖、何度目かのパンデミック。
僕は世界中で起こる不安定な兆しを察知し、念のために出勤を控え、外食もやめ、通信機器を何台も用意し、在宅ワークに切り替えて、家に引き籠もった。
そしてある日、電波が届かなくなり、ネットが沈黙した。
外に出てみても、誰もいなかった。
街は静まり返り、空には何も飛んでいない。
どうやら世界は滅亡したらしい。
あっけない終わりだった。
世界が終わった決定的な理由はよく分からない。戦争か災害か。
どのみち人間が終わらせたんだろう。
でも、僕はなぜか生きていた
本来、真っ先に死ぬはずのモブの僕が――爆発やビルの崩壊の巻き添えとか、やたらとデカく成長した虫に喰われるとか、そんな場面にも遭遇せず、無事生き延びた。
終わった世界で、僕は何とか生きている。
冒険をしないまま。
空になったコンビニを漁り、缶詰を補給する。
危なそうなところは入らない。
崩れかけた建物には近づかない。
武器なんて持つわけない。
僕は、人類最後の生き残りかもしれない。だけど僕は何かするわけじゃない、何も成し遂げない。
毎朝、太陽が昇るのを見て、少しの食事をして、何年も前に買った文庫本を繰り返し読む。
「特に異常なし。今日も生きてる。コーヒーは昨日と同じ味」
日記を書いたら、夕暮れをみて眠りに落ちる。
世界が終わる前とたいして変わらない。
冒険しない人生の、延長だ。
でも、この静けさが好きだ。僕以外、誰もいないというのも、まあ理想に近い。対人関係という、世界最大のリスクがこの世からさっぱりと消えたのだから。
誰もいない所で、ただ一人死ぬ日を待つ。
冒険をしない僕に相応しい日々だ。
あの日、夏の盛り真っ只中のあの日。
僕は容赦なく照りつける太陽から逃れるように海へと飛び込んだ。
一瞬の浮遊後、僕は冷たい海水に包み込まれる。
僕は海の水が体の熱を奪っていくのに身を任せた。
世界は静かだった。
水の中から空を見上げた。
見慣れた地上の空は遠ざかり、僕はマリンブルーの世界にいた。
息を呑むような、美しさだった。
太陽の光が海面を突き抜け、キラキラと砕けて水中に散らばって、空の輝きを映し出す。まるで、空と海が共鳴しているみたいだ。
空と海の境界に、僕は魅せられた。
海の中に深く潜れば潜るほど、濃紺の静寂さが広がる。
時折その静寂を破るように、銀色の魚の群れが目の前を通り過ぎた。
彼らの鱗は、まるで小さな鏡のように周囲の光を反射し、目が眩むほどのまばゆさを放つ。
潜るほどにその青は濃さを増し、まるで世界の果てに触れるような美しさだった。
そして僕はまだ、あの日の景色の中にいる。
逃げたのは、太陽の熱だけじゃなかった。
全て、全てのことから僕は、逃げ出した。
君からでさえも。
僕は、永遠にこの景色の中に沈んだまま。もう戻らない。
ここでは、すべてが青に溶けるんだ。君の声は遠ざかり、影さえも消えていく。
海の底から見上げる空は、どこまでも遠く、どこまでも自由だ。