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7/7/2025, 8:36:43 PM

願い事といえば、思い出すことがある。
七夕の短冊飾り。
幼稚園の先生の「何をお願いするの?」という優しい声に私は胸を張って言った。

「力持ちになりたい!」

なんでそんなこと願ったのかというと、砂遊びをしていて、重たくなったバケツを動かせなかったからだ。
バケツをひっくり返して砂のお城を作りたかったのに、重くてびくともしなかった。それが悔しくて。
お迎えの時に、先生が母にその話をして、母があはは、と笑っていたのも覚えている。
以来、七夕になると母は必ず言う。

「あんた昔、お願いしたわよねえ。力持ちになれますようにって」

はいはい。確かにしましたね。母は、くすくすと笑いながら言った。

「よかったわねえ、本当に力持ちになれて。願いが叶ったね」

そうなのだ。
願いは叶った。私はバッチリ力持ちになったのだ。
母なんて片手でヒョイっと持ち上げられるし、みかんがぎっしり入った木箱も五つくらいも一度に運べる。100kgの耐火用金庫なんかも全然余裕だ。
この間なんて、近所の駐車場で動かなくなった自動車を、ちょっと押して動かしてあげた。
おじさんが、「す、すげえな……」って目を丸くして驚いていたけど、どうってことはない。
ただ力持ちってだけだ。

正直、この力持ちを、私は少し持て余している。
職業はWebデザイン関係だし、パソコンのマウスを動かすのにそれほどの筋力は必要ない。
なので最近では、この力持ちを活かしてボランティア活動に参加するようになった。
瓦礫の撤去、家財道具運搬、土のう運びとか、多少は役に立ててる……はず。
願いが叶って力持ちになって、少しは人の役に立てるようになったわけだけど、私自身が、力持ちのおかげでモテてるとか、幸せになったとか、そういうわけでもない。
じゃあなぜ、私の願いは叶ったんだろう? 
神様の気まぐれ?
子供が願った純度の高い、無垢な願いだったから?
私のように短冊に書いた願いが叶った人って、どれくらいいるんだろう。

「ねえ、あんたが願ったらまた願いが叶うかもしれないからさ、もうこれ以上、物価が値上がりしませんように、って願ってくれない?」

母が言う。真剣な眼差しだ。

「いやいや、願いが叶うなんて、もう無理でしょ。一回叶ったんだよ、もうないよ。神様だって一人のお願い、何回も叶えないよ」

と言いつつ、私は毎年こっそり短冊に願いを書いている。
もう一度叶えてください、なんてちゃっかり願いを込めて、素敵な恋ができますように、とか、世界が平和になりますように、とか。
恋も世界平和も一向に訪れないけど。

神様が願いを叶えてくれるのが一度だけなら、私はそれを砂のお城のために使い果たしてしまったってことだ……微妙すぎて笑えない。
でも……そうだとしても、私はまた願うんだと思う。

小さな子供の頃と違って、願い事をするとき、そうそう都合よく願いなんて叶わない、なんて心のどこかでちゃんと分かってる。
そう思いながらもやっぱり願うのは、未来を諦めてないってことだと、私は思う。
願う心は、大事にしていい。叶うかどうかよりも、願い事をするって行為がきっと重要で……まあ、何が言いたいのかというと、じゃんじゃん願っていきましょう、ということだ。
神様は、気まぐれで何か一つ叶えてくれるかもしれないです、私が力持ちになったように。
叶いますよ、願いは!


7/6/2025, 3:05:08 PM

浮気の証拠は、呆れるほど簡単に見つかった。
彼女がSNSにあげた写真。
顔こそ映ってないけど、彼女をバックハグしているのは、明らかにミチ君だった。
ジャケットの肩のラインとか、細長い指とか、全部ミチ君だった。
彼女のアカウントを遡る。ミチ君が出張で泊まりだって言っていた日は二人で温泉旅行に行っていたようだった。
#デート #love #二人旅行 #理想の関係 #ずっと一緒 #お互い大事 #本当の恋
これでもかとつけられたハッシュタグ。キラキラした幸せそうなカップル。
多分、ミチ君は隠す気なんてなかったんだと思う。

「これ見たんだけど、ミチ君だよね」
スマホの画面を突きつけたら、ミチ君はあっさり認め素直に謝った。
「あ……ごめんね……言おうと思ってた。申し訳ない」
下を向いてミチ君は言った。
申し訳ないって。
なんだか浮気されたことよりも、その言葉の方がキツかった。
申し訳ない……申し訳ない?
なんか、会社でのやり取りみたい。
報告書まだ出ていないんですが。あ、申し訳ない。今日のうちに送っときます、みたいな。そんな感じの、申し訳ない、だった。
一言で言えば、他人行儀。
やっぱり気持ちが離れていたんだと、はっきりと分かってしまった。
怒る気持ちよりも、泣きたい気持ちよりも、早く終わらせてしまいたいと強く思った。修羅場なんてめんどくさいことにはしたくないし。
だから聞いた。
「……別れる?」
ミチ君は心底ほっとした感じで答えた。
「あ……うん。そうして欲しい。全面的に俺が悪い。ごめん」
別に結婚してたわけじゃないし。
同棲もしてたわけじゃないし。
なんとなく、別れるかもって思ってたし。

私とミチ君は、学生時代からの付き合いだ。
社会人になってもなんとなく続いてた。
私たちは、お互いよく似ていた。
二人とも大勢で騒ぐより静かな場所が好き。
居酒屋よりもカフェとか。映画館でポップコーンを分け合って、帰りにカフェで感想を話す。基本的に、お互いの時間を尊重する。
居心地が良かった。
喧嘩なんて一つもしたことがない。ミチ君の穏やかな佇まい、感情を露わにしない静かな話し方に、私は、安心していた。
昔から男の人が苦手な私にしてみれば、ミチ君は救い、みたいなところはあった。
だけど、ミチ君はもっと気持ちのこもったやり取りを求めていたのかな。
彼女のSNS。彼女の弾けるような笑顔と、強く握り合った二人の手。
たくさんのハッシュタグ。
理想の関係、ずっと一緒、お互い大事、本当の恋。
写真も言葉も浮かれてる。恥ずかしげもなく、キラキラして眩しい。
ミチ君は、ちゃんと恋をしたんだ。
一晩中見つめあって、身体をくっつけて好きという感情で胸が熱くなるような、恋。
お互い大事、なんて言える関係を築き上げたんだ。
私とミチ君は、どうだった?
お互い干渉し過ぎず、ちょうどいい距離だったけど、ずっと衝突を避けてきたようなところはあった。
それって本当は、ちゃんと向き合ってなかったってことだ。どこか上滑りしてるというか……別れる時だって、そうだった。
彼女との恋が、#本当の恋 なら、私との関係は 
#空っぽな恋 だったのかも。
空虚な関係。本物じゃない恋。申し訳ない、で終わる恋。

ミチ君がいなくなって数週間。
心にぽっかり穴が空いたわけでもなく、泣くこともなく、髪型もファッションも変えるわけでもなく、私は何も変わらなかった。
変わらない日常がある。失恋して人間的に成長したとか何もなく、ただ振られた事実だけがあった。
仕事から帰ってきて、ベランダに出て空を見上げた。
太陽は沈んだのに、まだ光を残した空に、陰影が濃くなった雲が広がっている。
星はまだ見えない。
どんな空でも、私には届かない。
私は、ミチ君のこと大切にしていなかったのかな。ミチ君もそうだったのかな。
多分、そうなんだろう。
だからあんな、ぞんざいな別れ方になった。
どうして、私の心はこんなにも波立たないんだろう。
つまらない人間だから、恋愛もままならないんだろうか。
浮気の証拠を突きつけた時、ミチ君がもっと動揺して感情的になっていたら、私も怒ったりしたのかな。
怒らない私を、ミチ君はどう思ったんだろう。
今更、そんなことを思ってみてもしょうがないことばかり浮かんだ。
恋がしたい。
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
恋をしてみたい。
誰かと思い合いたい。
大好きだよって心から言いたい。
浮気なんかしないでって言いたい。
お互い大事だって思える関係を築きたい。
私が誰かのそんな存在になれるだろうか、大事な存在に。
自分の気持ちをさらけ出そうと思っても、出来ない私には、やはり恋なんて無理なんだろうか。
恋がしたいと願って見上げた空は、じわりと滲んだ。
私は、その夜、ミチ君がいなくなってから初めて、止まらないほど涙を流した。

7/6/2025, 1:18:12 AM

夜の海岸は静かで、ただ波の音だけが響いている。
眠れなかった私はベッドを抜け出して、海辺へと来ていた。
月の光を一つの道筋のように映し出した水面は、僅かに揺れるだけ。
誰もいない波打ち際を私は歩いた。
胸には張り裂けそうな寂しさを抱えていた。
夜の海は黒く、この波の向こう側にどれだけの広さや深さがあるのだろうと思うと、私は少しだけ怖かった。
だけど歩いているうちに、波が寄せては返すそのリズムに、怖さも寂しさも少しずつ和らいでいく。
「ねえ、海」と私は囁いてみた。

「眠れないんだ、私」

海は小さく笑うように、波を軽く震わせた。
私は、砂に腰を下ろして膝を抱えた。海の匂いが鼻をくすぐる。
海が波を寄せながら言った。

「眠れない夜に私のところに来てくれるとは、光栄だね。ちょうどいい。私も少し昔を懐かしんでいたところなんだよ。誰かに思い出を語りたくてね。聞いてくれるかな?」

こういう時って、海が私の思いを聞いて受け止めてくれるんじゃないだろうか。
でもまあ……海の話を聞くのも悪くないか。話すの苦手だし、私の思いなんて、ただ孤独なだけだし。
私は海の昔話を聞くことにした。

「あなたは何を思い出していたの? 」

海はしばらくもったいぶって、波をゆっくり寄せては返した。
まるで太古の昔からの記憶の底をそっと探っているよう。私は目を閉じて海が語るのを待った。
やがて、海は柔らかな声で話し始めた。
波の音に混じって、海の囁きが私の耳に直接入ってくる。

「うーん、たくさんありすぎて、どこから話すか迷ってしまうな。 そうだな、古代の人のことを話そう。星の下で炎を囲んで踊っていた彼らのことを。彼らの舞は、祈りだった。裸足で大地を踏み、両手を空に伸ばして、まるで私の波音と一緒に揺れているみたいだったよ。女の子の長い黒髪が風に揺れて、炎がその顔を照らすのを覚えている」
「美人だった?」
「ああ。美しかった」

私は美しい黒髪の女の子を思った。手足を力強く優雅に動かして彼女は一心不乱に舞う。彼女は何を祈ったんだろう?

「何を祈ってたの?」
「彼らは言葉では祈らなかった。でもあの祈りの舞には、魂の振動みたいなものがあったんだ。それが私の波の音に重なっていくのが心地よくてね。覚えているよ」

海の声は優しくて、まるで私の手を握ってくれるみたいだ。

「だが私は、美しい言葉もたくさん聞いたよ。愛の言葉なんかを。恋人たちが私の波に足を浸して恥ずかしそうに愛を囁き合ったのも聞いたし、叶わない恋をした者が想いを歌にして私にだけ聞かせてくれたりもした。そういえば叶わない恋の歌を歌いにくるのは、大抵悲しげな顔をした男たちだったな。全く愛らしいよ」

私は微笑んで、砂に指で線を引く。
愛らしい囁き合う恋人たち。愛らしい悲しげな叶わない恋をした男の人たち。
私は海の話をいつまでも聞いていたい。

「他には? もっと昔の…人間が生まれる前のことは覚えてる? 例えば、恐竜とか……」

波が一瞬止まる。
海は深い溜息みたいに、ゆっくりと波を寄せた。

「恐竜か……うん、彼らのことは忘れられない。彼らが岸辺を揺らすように歩いたのも、私の中を自由に泳ぎ回ったのも昨日のことのように覚えている。一番忘れ難いのは、彼らの咆哮だよ……忘れられないんだ。私の岸で彼らは叫んだ。私の奥深くまで届くみたいな声で。まるで、誰か、俺を覚えててくれって言ってるみたいでね。だから私はその声を、波の奥にしまっているんだ」

私は月を見上げた。暗い海の上、月は白い光を放っている。
私は海辺に来た理由を思い出した。寂しさに胸が張り裂けそうで、いてもたってもいられなくてここに来たんだった。きっと恐竜も同じだったのかも。わけが分からないほど叫び出したくて、誰にも届かないのに聞いて欲しくて。海の語り口があまりにも柔らかくて涙が出そうだ。

「昔のことを、全部覚えてるの?」
「全部じゃないさ」

海は笑って答えた。
波が私の足元に触れる。ひんやりと冷たい。私は足で波を揺らして海に聞いた。

「私のことも覚えていてくれる?」
「もちろん、ちゃんと覚えておくよ」

私は目を閉じる。
波の音が、古代の祈りや愛の言葉や恐竜の咆哮なんかと一緒に、私を包む。
「海」と私は言った。

「あなたの話、素敵だったよ」

海は波を小さく寄せた。まるで微笑んでるみたい。

「そう言ってもらえると嬉しいよ。君こそ聞いてくれてありがとう」

私は笑って、膝に顔を埋める。冷たい砂が足の裏に心地いい。私は愛の言葉を打ち明けるみたいに海に言った。

「本当のこと言うと、少し怖かったんだ……夜の海なんて。でもあなたは優しいし波の音も綺麗」

穏やかに繰り返す波の音は、まるで子守唄みたい。
私は言った。

「あなたの底に沈んでもいい?」

しばらく波の音だけが響いた。
波が揺れて、海がそっと話し始める。

「……ああ。いつでも私の底においで。私の深いところはとても静かだし、私がしまっておいた、たくさんの思い出もある。何も怖いことなどないよ。君がそうしたいなら、いつでもおいで」

私は息を止めて海の声を聞いていた。なんて柔らかくて優しい声なんだろう。
月の光が波に反射して、きらきらと輝いている。
胸の奥がじんわり温かくなる。私は心の底から安堵していた。
ありがとう、と私は海に言った。
海はもう何も言わなかった。ただ波が一瞬強く寄せて、私の足元を濡らす。
潮風が髪に絡む。波の音も潮風も、海が私を抱いてくれているみたいだった。
私は砂の上に座ったまま、膝を頭を乗せ、いつまでも海の波音に耳を澄ませていた。


7/4/2025, 9:56:04 PM

暗い森の奥深く、苔むした岩の隙間を彼は進んだ。
彼の鱗は黒く、森の暗がりに馴染んで溶け込むようだった。目だけが鋭く赤く光って闇に浮かぶ。
彼は蛇だ。嫌われ者の蛇。
森に住む者はみな彼を避けた。
彼を見た途端、鳥も兎も逃げていく。鹿や狐でさえ遠巻きに去っていく。
彼にしてみれば、慣れたものだ。
嫌われ者と囁かれるのも、忌むべき者として恐れられるのも、蛇は受け入れていた。

ある日、森に青い風が吹いた。
葉擦れの音は、いつもよりざわざわと落ち着かなかった。
青い風は森の木々を揺らしその間を縫って、彼の棲む岩の隙間まで吹き込んだ。
風に吹かれて、鱗の下で何かが疼いた。
どぐろを巻いた体の奥で、冷たい血が熱を帯びる。
風はまるで、何かを囁くように彼の体を撫でた。
ーー変われるよ。
そう囁いているみたいだった。
その夜、彼は身体が軋むのを感じた。
鱗が窮屈に身体を締め上げるような異和感……
いや、もう一つの皮膚が生まれているのだ、鱗の下で。新しい皮膚が、じわじわと古い鱗を押し上げている。
彼は目を閉じた。赤い目は白く濁っていた。
脱皮の時がきたのだ。
彼は岩肌に身を寄せて、ゆっくりと身体を擦り付けた。鱗が擦れる音がした。
鱗が剥がれるたび、湿った体液が滲み、裂けるような痛みが体中を走った。
彼は、身体を弓なりに反らせてその痛みに耐えた。
同時に奇妙な歓びが彼を包んでいた。
古い自分を脱ぎ捨てていく。
新しい皮膚が現れる。
この奇妙な歓びは、生まれ変わることへの期待なのかもしれない。
それとも今、確かに生きていることを実感している歓びなのかもしれない。
皮膚の滑りを良くするために滲み出した体液は温かく、月に照らされ濡れたように輝いていた。
彼はのけぞって岩にしなやかな肢体を預け、息を吐いた。
まだ外気に慣れないその皮膚の表面を、青い風が優しく撫でていく。
新しい皮膚はあまりにも敏感で、彼の身体はわずかな風の動きにも震えた。
風は新しい皮膚を隅々まで味合うように絡みつく。まるで、君は美しいよ、と言われているみたいだ。 風が彼の曲線をなぞるたび、胸の奥が苦しく切なくてたまらなかった。だが彼は動けず、ただ風に身を委ね、息を吐くしかできなかった。
彼はふと思った。
ーーこの新しい皮膚なら、私は嫌われないだろうか。
同時に、こうも思った。
ーー淡い期待など、無駄なこと。愚かなことを考えるな。
彼はゆっくりと目を開けた。
脱皮を終えつつある彼の目は、鋭い赤さを取り戻していた。
赤い目から涙がいく筋にもなって流れだす。
青い風が、蛇の涙をそっと撫でて溶かしていった。


7/4/2025, 5:05:50 AM


「遠くへ行きたいなあ……」
それは諦めと共に思わず漏れた呟きだった。
あの人は確かに何処かへ行きたかったのだと思う。
今でも、夏の夕暮れ時になると思い出す。
父の横顔。
私以外、誰も聞かなかったあの呟き。

実家の庭は、蒸し暑い夏の空気がようやく和らぎ、薄闇に包まれていた。
縁側に腰かけた私は、ぼんやり庭を眺めていた。
隣には父がいた。
私の手には、冷えた麦茶のグラスがあって……切りたてのスイカだったかも――記憶は曖昧だ。
でも、線香花火だけは覚えている。
幼い私は、兄たちのように一人で花火を持たせてもらえず、むくれていたのだ。
「線香花火、しようか」
父がそう言ってなだめてくれたのに、私は「いい」とぶっきらぼうに答えた。
兄たちが手持ち花火をくるくると回すのをじっと眺めていた。
火の粉が美しい輪を描き笑い声が響く。
花火は、レーザー光線のような残像を残した。
水を張ったバケツに使い終わった花火を入れた時の、ジュッという小気味良い音。
縁側で足をぶらぶらさせているうちに、私のむくれた気持ちなんてすっかりなくなっていた。
でも何となく態度を改めるのが気恥ずかしくて、そのまま無言でいた。
その時だった。
「遠くへ行きたいなあ……」
まるで風に溶けてしまいそうな小さな声だった。
私は父の顔を見上げた。
線香花火の淡い光に照らされた父は、何も見ていなかった。
気付いてしまったのだ。
兄たちの笑い声も、火の粉のきらめきも、私の存在も、儚げな線香花火も――父の目には、なにも映っていない。
私の隣にいるのは、父じゃないみたいだった。そこには、ただ疲れ果てた所在なさげな一人の、孤独な大人がいた。
父のあの横顔。今も私の心に焼き付いている。
――遠くへ行きたい
父の呟きの、真の意味を理解できなくても、幼いなりに私は何かを感じ取っていたのだと思う。
お父さん、どこか行きたいの、そんな問いかけがどうしても出来なかった。
胸の奥がちくちくと針で突かれたように痛くて悲しくて、私は父から目を逸らした。
あの時の父の空虚な眼差し。
あれは、父や夫、あるいは職場での自分、そんな自分自身に疲れきって全てを放棄し、ここではない何処か、別の場所を切実に求めた瞬間だったのではないか。逃げ出したくても逃げ出せない父の心を、幼い子どもは気付いてしまったのではないか。

今ならわかる。
現実を忘れたい瞬間などいくらでもある。
その瞬間を、子どもが捉えてしまっただけのこと。
父は結局、遠くへは行かなかった。
家族を捨てる勇気も、別の人生を選ぶ決断も、父にはできなかった。例えそうしたいという願望があったとしても。
私や兄たちにとっての「父」という役割を、最後まで――完璧ではなくても――果たしてくれた。
でも、あの夏の夜に垣間見たように、父は心の奥深いところで、ここではない遠い場所をずっと求めていたのかもしれない。

夏の夕闇、線香花火の煙の匂い。
遠くへ行きたかった父の横顔と、小さな子供だった私の胸の奥のちくりと刺された痛みが蘇る。


「おかあさん、花火しようよー!」
娘の声に、私ははっと我に返った。
目の前の庭は、あの夏とはもう違う。
父はもういない。ここにいるのは大人になった私。
慌てて笑顔を貼り付けて、私は立ち上がった。
遠くへは行かない。今はまだ――。

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