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「遠くへ行きたいなあ……」
それは諦めと共に思わず漏れた呟きだった。
あの人は確かに何処かへ行きたかったのだと思う。
今でも、夏の夕暮れ時になると思い出す。
父の横顔。
私以外、誰も聞かなかったあの呟き。

実家の庭は、蒸し暑い夏の空気がようやく和らぎ、薄闇に包まれていた。
縁側に腰かけた私は、ぼんやり庭を眺めていた。
隣には父がいた。
私の手には、冷えた麦茶のグラスがあって……切りたてのスイカだったかも――記憶は曖昧だ。
でも、線香花火だけは覚えている。
幼い私は、兄たちのように一人で花火を持たせてもらえず、むくれていたのだ。
「線香花火、しようか」
父がそう言ってなだめてくれたのに、私は「いい」とぶっきらぼうに答えた。
兄たちが手持ち花火をくるくると回すのをじっと眺めていた。
火の粉が美しい輪を描き笑い声が響く。
花火は、レーザー光線のような残像を残した。
水を張ったバケツに使い終わった花火を入れた時の、ジュッという小気味良い音。
縁側で足をぶらぶらさせているうちに、私のむくれた気持ちなんてすっかりなくなっていた。
でも何となく態度を改めるのが気恥ずかしくて、そのまま無言でいた。
その時だった。
「遠くへ行きたいなあ……」
まるで風に溶けてしまいそうな小さな声だった。
私は父の顔を見上げた。
線香花火の淡い光に照らされた父は、何も見ていなかった。
気付いてしまったのだ。
兄たちの笑い声も、火の粉のきらめきも、私の存在も、儚げな線香花火も――父の目には、なにも映っていない。
私の隣にいるのは、父じゃないみたいだった。そこには、ただ疲れ果てた所在なさげな一人の、孤独な大人がいた。
父のあの横顔。今も私の心に焼き付いている。
――遠くへ行きたい
父の呟きの、真の意味を理解できなくても、幼いなりに私は何かを感じ取っていたのだと思う。
お父さん、どこか行きたいの、そんな問いかけがどうしても出来なかった。
胸の奥がちくちくと針で突かれたように痛くて悲しくて、私は父から目を逸らした。
あの時の父の空虚な眼差し。
あれは、父や夫、あるいは職場での自分、そんな自分自身に疲れきって全てを放棄し、ここではない何処か、別の場所を切実に求めた瞬間だったのではないか。逃げ出したくても逃げ出せない父の心を、幼い子どもは気付いてしまったのではないか。

今ならわかる。
現実を忘れたい瞬間などいくらでもある。
その瞬間を、子どもが捉えてしまっただけのこと。
父は結局、遠くへは行かなかった。
家族を捨てる勇気も、別の人生を選ぶ決断も、父にはできなかった。例えそうしたいという願望があったとしても。
私や兄たちにとっての「父」という役割を、最後まで――完璧ではなくても――果たしてくれた。
でも、あの夏の夜に垣間見たように、父は心の奥深いところで、ここではない遠い場所をずっと求めていたのかもしれない。

夏の夕闇、線香花火の煙の匂い。
遠くへ行きたかった父の横顔と、小さな子供だった私の胸の奥のちくりと刺された痛みが蘇る。


「おかあさん、花火しようよー!」
娘の声に、私ははっと我に返った。
目の前の庭は、あの夏とはもう違う。
父はもういない。ここにいるのは大人になった私。
慌てて笑顔を貼り付けて、私は立ち上がった。
遠くへは行かない。今はまだ――。

7/4/2025, 5:05:50 AM