願い事といえば、思い出すことがある。
七夕の短冊飾り。
幼稚園の先生の「何をお願いするの?」という優しい声に私は胸を張って言った。
「力持ちになりたい!」
なんでそんなこと願ったのかというと、砂遊びをしていて、重たくなったバケツを動かせなかったからだ。
バケツをひっくり返して砂のお城を作りたかったのに、重くてびくともしなかった。それが悔しくて。
お迎えの時に、先生が母にその話をして、母があはは、と笑っていたのも覚えている。
以来、七夕になると母は必ず言う。
「あんた昔、お願いしたわよねえ。力持ちになれますようにって」
はいはい。確かにしましたね。母は、くすくすと笑いながら言った。
「よかったわねえ、本当に力持ちになれて。願いが叶ったね」
そうなのだ。
願いは叶った。私はバッチリ力持ちになったのだ。
母なんて片手でヒョイっと持ち上げられるし、みかんがぎっしり入った木箱も五つくらいも一度に運べる。100kgの耐火用金庫なんかも全然余裕だ。
この間なんて、近所の駐車場で動かなくなった自動車を、ちょっと押して動かしてあげた。
おじさんが、「す、すげえな……」って目を丸くして驚いていたけど、どうってことはない。
ただ力持ちってだけだ。
正直、この力持ちを、私は少し持て余している。
職業はWebデザイン関係だし、パソコンのマウスを動かすのにそれほどの筋力は必要ない。
なので最近では、この力持ちを活かしてボランティア活動に参加するようになった。
瓦礫の撤去、家財道具運搬、土のう運びとか、多少は役に立ててる……はず。
願いが叶って力持ちになって、少しは人の役に立てるようになったわけだけど、私自身が、力持ちのおかげでモテてるとか、幸せになったとか、そういうわけでもない。
じゃあなぜ、私の願いは叶ったんだろう?
神様の気まぐれ?
子供が願った純度の高い、無垢な願いだったから?
私のように短冊に書いた願いが叶った人って、どれくらいいるんだろう。
「ねえ、あんたが願ったらまた願いが叶うかもしれないからさ、もうこれ以上、物価が値上がりしませんように、って願ってくれない?」
母が言う。真剣な眼差しだ。
「いやいや、願いが叶うなんて、もう無理でしょ。一回叶ったんだよ、もうないよ。神様だって一人のお願い、何回も叶えないよ」
と言いつつ、私は毎年こっそり短冊に願いを書いている。
もう一度叶えてください、なんてちゃっかり願いを込めて、素敵な恋ができますように、とか、世界が平和になりますように、とか。
恋も世界平和も一向に訪れないけど。
神様が願いを叶えてくれるのが一度だけなら、私はそれを砂のお城のために使い果たしてしまったってことだ……微妙すぎて笑えない。
でも……そうだとしても、私はまた願うんだと思う。
小さな子供の頃と違って、願い事をするとき、そうそう都合よく願いなんて叶わない、なんて心のどこかでちゃんと分かってる。
そう思いながらもやっぱり願うのは、未来を諦めてないってことだと、私は思う。
願う心は、大事にしていい。叶うかどうかよりも、願い事をするって行為がきっと重要で……まあ、何が言いたいのかというと、じゃんじゃん願っていきましょう、ということだ。
神様は、気まぐれで何か一つ叶えてくれるかもしれないです、私が力持ちになったように。
叶いますよ、願いは!
7/7/2025, 8:36:43 PM