暗い森の奥深く、苔むした岩の隙間を彼は進んだ。
彼の鱗は黒く、森の暗がりに馴染んで溶け込むようだった。目だけが鋭く赤く光って闇に浮かぶ。
彼は蛇だ。嫌われ者の蛇。
森に住む者はみな彼を避けた。
彼を見た途端、鳥も兎も逃げていく。鹿や狐でさえ遠巻きに去っていく。
彼にしてみれば、慣れたものだ。
嫌われ者と囁かれるのも、忌むべき者として恐れられるのも、蛇は受け入れていた。
ある日、森に青い風が吹いた。
葉擦れの音は、いつもよりざわざわと落ち着かなかった。
青い風は森の木々を揺らしその間を縫って、彼の棲む岩の隙間まで吹き込んだ。
風に吹かれて、鱗の下で何かが疼いた。
どぐろを巻いた体の奥で、冷たい血が熱を帯びる。
風はまるで、何かを囁くように彼の体を撫でた。
ーー変われるよ。
そう囁いているみたいだった。
その夜、彼は身体が軋むのを感じた。
鱗が窮屈に身体を締め上げるような異和感……
いや、もう一つの皮膚が生まれているのだ、鱗の下で。新しい皮膚が、じわじわと古い鱗を押し上げている。
彼は目を閉じた。赤い目は白く濁っていた。
脱皮の時がきたのだ。
彼は岩肌に身を寄せて、ゆっくりと身体を擦り付けた。鱗が擦れる音がした。
鱗が剥がれるたび、湿った体液が滲み、裂けるような痛みが体中を走った。
彼は、身体を弓なりに反らせてその痛みに耐えた。
同時に奇妙な歓びが彼を包んでいた。
古い自分を脱ぎ捨てていく。
新しい皮膚が現れる。
この奇妙な歓びは、生まれ変わることへの期待なのかもしれない。
それとも今、確かに生きていることを実感している歓びなのかもしれない。
皮膚の滑りを良くするために滲み出した体液は温かく、月に照らされ濡れたように輝いていた。
彼はのけぞって岩にしなやかな肢体を預け、息を吐いた。
まだ外気に慣れないその皮膚の表面を、青い風が優しく撫でていく。
新しい皮膚はあまりにも敏感で、彼の身体はわずかな風の動きにも震えた。
風は新しい皮膚を隅々まで味合うように絡みつく。まるで、君は美しいよ、と言われているみたいだ。 風が彼の曲線をなぞるたび、胸の奥が苦しく切なくてたまらなかった。だが彼は動けず、ただ風に身を委ね、息を吐くしかできなかった。
彼はふと思った。
ーーこの新しい皮膚なら、私は嫌われないだろうか。
同時に、こうも思った。
ーー淡い期待など、無駄なこと。愚かなことを考えるな。
彼はゆっくりと目を開けた。
脱皮を終えつつある彼の目は、鋭い赤さを取り戻していた。
赤い目から涙がいく筋にもなって流れだす。
青い風が、蛇の涙をそっと撫でて溶かしていった。
7/4/2025, 9:56:04 PM