夜の海岸は静かで、ただ波の音だけが響いている。
眠れなかった私はベッドを抜け出して、海辺へと来ていた。
月の光を一つの道筋のように映し出した水面は、僅かに揺れるだけ。
誰もいない波打ち際を私は歩いた。
胸には張り裂けそうな寂しさを抱えていた。
夜の海は黒く、この波の向こう側にどれだけの広さや深さがあるのだろうと思うと、私は少しだけ怖かった。
だけど歩いているうちに、波が寄せては返すそのリズムに、怖さも寂しさも少しずつ和らいでいく。
「ねえ、海」と私は囁いてみた。
「眠れないんだ、私」
海は小さく笑うように、波を軽く震わせた。
私は、砂に腰を下ろして膝を抱えた。海の匂いが鼻をくすぐる。
海が波を寄せながら言った。
「眠れない夜に私のところに来てくれるとは、光栄だね。ちょうどいい。私も少し昔を懐かしんでいたところなんだよ。誰かに思い出を語りたくてね。聞いてくれるかな?」
こういう時って、海が私の思いを聞いて受け止めてくれるんじゃないだろうか。
でもまあ……海の話を聞くのも悪くないか。話すの苦手だし、私の思いなんて、ただ孤独なだけだし。
私は海の昔話を聞くことにした。
「あなたは何を思い出していたの? 」
海はしばらくもったいぶって、波をゆっくり寄せては返した。
まるで太古の昔からの記憶の底をそっと探っているよう。私は目を閉じて海が語るのを待った。
やがて、海は柔らかな声で話し始めた。
波の音に混じって、海の囁きが私の耳に直接入ってくる。
「うーん、たくさんありすぎて、どこから話すか迷ってしまうな。 そうだな、古代の人のことを話そう。星の下で炎を囲んで踊っていた彼らのことを。彼らの舞は、祈りだった。裸足で大地を踏み、両手を空に伸ばして、まるで私の波音と一緒に揺れているみたいだったよ。女の子の長い黒髪が風に揺れて、炎がその顔を照らすのを覚えている」
「美人だった?」
「ああ。美しかった」
私は美しい黒髪の女の子を思った。手足を力強く優雅に動かして彼女は一心不乱に舞う。彼女は何を祈ったんだろう?
「何を祈ってたの?」
「彼らは言葉では祈らなかった。でもあの祈りの舞には、魂の振動みたいなものがあったんだ。それが私の波の音に重なっていくのが心地よくてね。覚えているよ」
海の声は優しくて、まるで私の手を握ってくれるみたいだ。
「だが私は、美しい言葉もたくさん聞いたよ。愛の言葉なんかを。恋人たちが私の波に足を浸して恥ずかしそうに愛を囁き合ったのも聞いたし、叶わない恋をした者が想いを歌にして私にだけ聞かせてくれたりもした。そういえば叶わない恋の歌を歌いにくるのは、大抵悲しげな顔をした男たちだったな。全く愛らしいよ」
私は微笑んで、砂に指で線を引く。
愛らしい囁き合う恋人たち。愛らしい悲しげな叶わない恋をした男の人たち。
私は海の話をいつまでも聞いていたい。
「他には? もっと昔の…人間が生まれる前のことは覚えてる? 例えば、恐竜とか……」
波が一瞬止まる。
海は深い溜息みたいに、ゆっくりと波を寄せた。
「恐竜か……うん、彼らのことは忘れられない。彼らが岸辺を揺らすように歩いたのも、私の中を自由に泳ぎ回ったのも昨日のことのように覚えている。一番忘れ難いのは、彼らの咆哮だよ……忘れられないんだ。私の岸で彼らは叫んだ。私の奥深くまで届くみたいな声で。まるで、誰か、俺を覚えててくれって言ってるみたいでね。だから私はその声を、波の奥にしまっているんだ」
私は月を見上げた。暗い海の上、月は白い光を放っている。
私は海辺に来た理由を思い出した。寂しさに胸が張り裂けそうで、いてもたってもいられなくてここに来たんだった。きっと恐竜も同じだったのかも。わけが分からないほど叫び出したくて、誰にも届かないのに聞いて欲しくて。海の語り口があまりにも柔らかくて涙が出そうだ。
「昔のことを、全部覚えてるの?」
「全部じゃないさ」
海は笑って答えた。
波が私の足元に触れる。ひんやりと冷たい。私は足で波を揺らして海に聞いた。
「私のことも覚えていてくれる?」
「もちろん、ちゃんと覚えておくよ」
私は目を閉じる。
波の音が、古代の祈りや愛の言葉や恐竜の咆哮なんかと一緒に、私を包む。
「海」と私は言った。
「あなたの話、素敵だったよ」
海は波を小さく寄せた。まるで微笑んでるみたい。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。君こそ聞いてくれてありがとう」
私は笑って、膝に顔を埋める。冷たい砂が足の裏に心地いい。私は愛の言葉を打ち明けるみたいに海に言った。
「本当のこと言うと、少し怖かったんだ……夜の海なんて。でもあなたは優しいし波の音も綺麗」
穏やかに繰り返す波の音は、まるで子守唄みたい。
私は言った。
「あなたの底に沈んでもいい?」
しばらく波の音だけが響いた。
波が揺れて、海がそっと話し始める。
「……ああ。いつでも私の底においで。私の深いところはとても静かだし、私がしまっておいた、たくさんの思い出もある。何も怖いことなどないよ。君がそうしたいなら、いつでもおいで」
私は息を止めて海の声を聞いていた。なんて柔らかくて優しい声なんだろう。
月の光が波に反射して、きらきらと輝いている。
胸の奥がじんわり温かくなる。私は心の底から安堵していた。
ありがとう、と私は海に言った。
海はもう何も言わなかった。ただ波が一瞬強く寄せて、私の足元を濡らす。
潮風が髪に絡む。波の音も潮風も、海が私を抱いてくれているみたいだった。
私は砂の上に座ったまま、膝を頭を乗せ、いつまでも海の波音に耳を澄ませていた。
7/6/2025, 1:18:12 AM