風鈴の音。
蚊取り線香、蝉の音、冷えた麦茶、花火、ぐんぐんのびる庭の向日葵。
懐かしき、古き良き日本の情景。
都内のマンションで育った俺には、そのどれにも縁がない。
シングルマザーだった母は実家と折り合いが悪かったらしく、夏休みに田舎の祖父母の家に帰省なんてこともなかった。
俺の子供の頃の夏の思い出といえば、母に勧められて行った夏期講習だ。
午前中は、講師の授業を聞き、午後は教室の片隅で日差しを避けて、与えられた端末でひたすら課題をこなした。
だが、そんな俺でも日本の古き良き夏の情緒は理解しているつもりだ。
コマーシャルや映画なんかでよく見てきたし、経験していなくても、ある種の懐かしさを感じる。
知らず知らずのうちに心の奥に根付いている。
風土に染み込んだ情緒とは、そういうものなのかもしれない。
風鈴の音で目を覚ました。
暑さで空気がよどんだ、夏の午後。
蝉の音がこんなにもしているというのに、すっかり寝入ってしまったようだ。
何となく空気が重い。
畳の匂いが鼻をくすぐった……畳?
少し体を起こすと、縁側の向こうに庭が見えた。
植木が生い茂っている。緑の濃さに目が眩んだ。
すぐ、この状況がおかしい事に気づいた。
俺の家はフローリングだし、庭なんてないはずだ。
「あらあ、起きたの?」
不意に背後で声が聞こえた。
柔らかな声……どこかで聞いたことがあるような。
でも俺は恐ろしさで動けなかった。
親しげな声なのに、なぜか底の見えない響きを感じ取っていたからだ。
ここがどこなのか、背後にいる人物は誰なのか必死に考える。
「麦茶、淹れようか。あ、水蜜もらったんだけど食べる?あんた好きだったわよね」
背後の声は、まるで俺を知っているような素振りだ。
何なんだよこれ、夢の中の出来事なんだろうか、それにしては随分リアルで……
ーーチリン
風鈴が鳴った。風なんてないのに。
風鈴の音と共に、不意に鮮やかな映像が蘇る。
子供の頃の記憶。
畳の匂いが心地よくて寝そべっていたら、幼い俺はいつの間にか眠ってしまったのだ。傍にはお気に入りの絵本。
誰かが掛けてくれたタオルを握りしめていた。
いや、そんなはずはない。
今までの俺の人生で、そんな経験をしたことなんてない。狭かったマンション、無音なフロア。
畳の上で昼寝なんて、そんなことあるわけない。
ーーチリン
また風鈴の音が鳴る。
今度は、縁側から庭を見つめた時のことを思い出した。
年老いた男が微笑んでいる。あれは祖父だ。
祖父は、伸びすぎた枝を剪定バサミで切り落としていた。
ほら、ここを切ったら格好が良くなっただろ、と祖父は日焼けした顔に流れる汗を手拭いで拭う。
俺はよく、庭から祖父の作業を眺めていた。
黙々と作業に没頭していた祖父。
時折、俺の視線に気づくと、祖父は照れくさそうな笑顔を見せた……でもその顔を俺は知らない。
俺は、祖父に会ったことなどない。
「おじいちゃんがいなくなってから庭の手入れ、なかなか出来なくってねえ。私じゃうまくできないから、植木屋さんに頼んでるの」
背後の声が言った。まるで俺の思ったことを見透かしているようでゾッとした。
だが、この声にはやはり覚えがある……まだ、振り向けない。
「見てあの植木。枝が伸びて不格好になっちゃってさ。おじいちゃんにも申し訳ないわよねえ。そろそろ植木屋さんにお願いしなきゃ……」
チリン、と風鈴がまた鳴った。
風鈴の音が鳴るたびに、俺は思い出していた。
この家の縁側に座り麦茶を飲んだこと、近所の幼馴染とスイカを分けあったこと。
幼馴染の剥き出しの肩には、虫刺されの跡がいくつもあった。
水鉄砲、大きくなりすぎたきゅうり、海に行かないのに毎日履いていたビーチサンダル。
夕暮れには花火もした。花火が終わった後、僕は誰かの隣に座って鈴虫の音を聞いていた……
いくつもの、夏の記憶が蘇る。
どれも、自分の人生には存在しないはずの記憶だった。
俺の過ごした子供時代じゃない。
風鈴の音とともに、古き良き、情緒たっぷりの夏の思い出がなだれ込んでくる。
「ゆっくりしていけるんでしょ」
背後で母が言った。
そうだ、これは母の声だ。昼寝をしていた小さな俺にタオルを掛けてくれたのも、花火が終わった後、隣で一緒に鈴虫の音を聞いてくれたのも母だ。
目の奥が熱くなって涙が滲む。
母はもういないはずなのに。
母は、自ら死を選んだ。
マンションから飛び降りた、という説明を俺は警察から聞いた。
過労で心を病んだということだった。
あの狭い部屋を出てから俺は、母にろくに連絡をしなかった。母からの電話を、俺は何度も無視した。
「ずっとここにいなさいよ」
母が静かに言った。
これは俺の幻想なんだろうか?
こんな子供時代を過ごしたかったという願望?
それとも……母の未練、執着なんだろうか。
俺はそこに閉じ込められたんだろうか。
風もないのに、風鈴が鳴り続ける。
その度に、あるはずのない夏の思い出が蘇り、俺の脳内を侵食していった。
7/13/2025, 2:09:40 AM