夜、静寂につつまれた王座の間では、二人の男が向かい合っていた。
この国の王と、彼の忠実な剣士だ。
燭台の炎が揺らぎながら、二つの影を壁に映し出す。
しかし今、忠誠を誓ったはずの男は、冷たい微笑みのまま剣を王に向けている。
二人は強い視線で睨み合っていた。
長い間側に仕えてきた男の瞳が、これほど深い闇を宿すのを、王はこれまで見たことがなかった。王は言った。
「私とお前では、負っているものの大きさが違う。だが私たちには、互いの立場を越えて二人だけで築いたものがあったはずだ」
男はじっと王を見据えたまま、何も答えない。王に向けた剣は震えもしない。
「野望の炎を燃やし、勝利の甘美な瞬間を共に味わった。夜通し馬で敵地まで駆け抜けた。杯を交わしたお前とは、信頼と絆があると信じていた。それらは全て偽りだったのか?」
男は一歩踏み出す。剣先を王の喉元へと突きつけて静かに囁いた。
「偽りではありません、愛する王よ」
剣を突きつけられても、王は王たる風格で動じなかった。目だけでその先を言え、と男に促す。
「私は貴方に全て偽りなく捧げました。そして貴方も私に与えてくれた。栄光の時と微笑みと信頼と、脆い心さえ。身に余る光栄です――私との間に確かに築いたものがあったと、そう貴方も感じていてくださったと知り、私の心は今ひどく震えています」
「ならば、なぜお前は剣を向けるのだ。私に忠誠を誓ったその剣で、何故だ」
王の声に、男の目が一瞬揺れる。
「私の母国は、貴方の力に屈した国のひとつです。苦渋を味わい惨めに生き延びた者が、私を送り込んだのです、復讐の為に。貴方の首を取ること、それこそが己の使命だと教わって生きてきました」
男は一瞬言葉に詰まる――だが、かすれた声で男は続けた。
「私たちが立場を越え二人で築いたもの、それがどれほど私の心を苦しめたか、貴方にはわかるまい。毎晩、私は全て胸に押し込めてきた……私だけの幻想ではなかったと分かった今、この胸は狂いそうなほど痛い。それでも、終わらせねばなりません、母国のために」
「待て。他に道はないのか」
「ありません。ご存知でしょう、貴方を狙う者は多い。今までどれだけ私が貴方への刺客を潰してきたことか。私がやらなくてもいずれ貴方は、こうなる。他の者に貴方を渡したくなどない」
「貴様……」
剣が鋭い光が放つ。次の瞬間、男は王の喉を貫いていた。うめき声と共に、王の喉から血が噴き出す。
赤い血は、ぼたぼたと音を立てて石の床に落ちていった。
「貴様、よくも……」
「王よ、貴方を一人にはしません」
崩れ落ちる王の手に、男は剣を握らせて囁いた。
「貴方の手で終わらせてください。私の命を貴方に捧げたい。愛する王、どうか……私を忠実なる下僕として共にいかせてください」
男は王に握らせた剣を、自ら胸に導いた。剣は男の身体を裂いて心臓へと進んでいく。
男は王の耳元でつぶやいた。
「これで、やっと……二人だけの……」
男の身体を受け止めながら、王は悟った。
喉を貫かれたのは致命傷だ、そろそろ自分の命も消えるだろう、この国はどうなる……?
血が流れ、身体の熱が失われていく。
それなのに手だけが温かった。
それは、かつて忠誠を誓いどんな時も王の傍らにいた男の血で濡れているからだと王は気づく。
最期に王は、見たような気がした。自分の命を奪った男の瞳が濡れて光るのを。
二人だけの絆は、裏切りと死を超えてなお、永遠であればいい。
王は、息絶える前にそう願った。
「お盆が過ぎたら夏なんてもう終わりだよ」
北国の生まれの君がそう言ったのを思い出す。
あれから数年。夏はしぶとくなった。
夏の暑さは年々厳しくなって、お盆が過ぎても9月になっても夏は終わらない。
君は今、どうしてる?
夏が苦手な君は、涼しい場所を見つけるのが天才的に上手だったよね。
ちょっとした木陰とか、川辺から吹く風とか。
家の中は玄関が一番涼しいと言って、帰ってきた僕を驚かせたこともあった。
扇風機の風に、ぬるい、なんて文句をつけながら
アイスを頬張っていた君。
だから驚いたよ。
夏が苦手で冷たいものが大好きだった君が、
太陽みたいな男と去っていくとはね。
眩しくて暑苦しくて、いつもカラッと笑ってるような男。
きっと君はあいつの隣で、すっかり日焼けした肌になって、汗をかきながら笑顔を輝かせ、夏が似合うひとになったんだろうな。
僕はといえば、まだ君のいたあの夏に取り残されている。君のように上手く涼しい場所を見つけられないんだ。
君に追いつけないまま、今夜も僕は一人、ひんやりとした夜空を見上げるだろう、そんな夏。
◯◯っていう作家の、ゴーストライターしたことがある。
割と有名作家で賞も取ってる先生。
あ、それは私の書いたやつじゃないけど。
初期に何本か書いてあげただけ。
あんまり部数伸びなくて、使ってくれなくなっちゃった。
今は他のライター使ってるのか、また書けるようになったのか知らないけど。
でもあの先生、私の書く話が一番好きって言ってくれたんだよね。
多分、あの先生が私の書く話を一番理解してくれてるんだと思う。
告訴とかしないよ。
私の話を世に出せたし、今でも要求したら多分お金くれると思うし。
ねえ、知ってる? あの先生の作品によく出てくるチヒロって女の子いるじゃん。
あれ、私のことなんだ。
そうやって作中にラブレター書いてくれるから憎めないの、先生のこと。
昔付き合っていた女の子がこう言っていたのだが、僕は本気にしなかった。
いつもよく嘘を付く子だったし、何より彼女は◯◯という作家の熱烈なファンだった。行き過ぎた妄想というやつだと思っていた。
妄想癖のその子とはすぐ別れたのだが、彼女は今、行方不明になっているのだという。
数年前から連絡が取れず、姿を消してしまったらしい。
つい最近、◯◯という作家の最新作が映画化されると話題になっていた。
◯◯は作家として成功しており、今や売れっ子だ。
特に初期の短編は、毒気と瑞々しさの両方を備えた良質な物語として、再評価されていた。
何となく、今回映画化した作品のあらすじをネットで調べてみた。
僕は、作品の登場人物にチヒロという少女がいることに気づく。
彼女が物語の中で辿る運命を知って悪寒が走った。
妄想癖のあるチヒロは、惨殺されて森の奥に捨てられるのだ。
数年前から行方不明になっているあの子のことが頭に浮かんでいた。
……まさか。
いや、そんなことないだろう、そんな小説みたいな出来事なんて、あるはずがない。
僕は、頭によぎったことを打ち消したが、手の震えはとまらなかった。
風鈴の音。
蚊取り線香、蝉の音、冷えた麦茶、花火、ぐんぐんのびる庭の向日葵。
懐かしき、古き良き日本の情景。
都内のマンションで育った俺には、そのどれにも縁がない。
シングルマザーだった母は実家と折り合いが悪かったらしく、夏休みに田舎の祖父母の家に帰省なんてこともなかった。
俺の子供の頃の夏の思い出といえば、母に勧められて行った夏期講習だ。
午前中は、講師の授業を聞き、午後は教室の片隅で日差しを避けて、与えられた端末でひたすら課題をこなした。
だが、そんな俺でも日本の古き良き夏の情緒は理解しているつもりだ。
コマーシャルや映画なんかでよく見てきたし、経験していなくても、ある種の懐かしさを感じる。
知らず知らずのうちに心の奥に根付いている。
風土に染み込んだ情緒とは、そういうものなのかもしれない。
風鈴の音で目を覚ました。
暑さで空気がよどんだ、夏の午後。
蝉の音がこんなにもしているというのに、すっかり寝入ってしまったようだ。
何となく空気が重い。
畳の匂いが鼻をくすぐった……畳?
少し体を起こすと、縁側の向こうに庭が見えた。
植木が生い茂っている。緑の濃さに目が眩んだ。
すぐ、この状況がおかしい事に気づいた。
俺の家はフローリングだし、庭なんてないはずだ。
「あらあ、起きたの?」
不意に背後で声が聞こえた。
柔らかな声……どこかで聞いたことがあるような。
でも俺は恐ろしさで動けなかった。
親しげな声なのに、なぜか底の見えない響きを感じ取っていたからだ。
ここがどこなのか、背後にいる人物は誰なのか必死に考える。
「麦茶、淹れようか。あ、水蜜もらったんだけど食べる?あんた好きだったわよね」
背後の声は、まるで俺を知っているような素振りだ。
何なんだよこれ、夢の中の出来事なんだろうか、それにしては随分リアルで……
ーーチリン
風鈴が鳴った。風なんてないのに。
風鈴の音と共に、不意に鮮やかな映像が蘇る。
子供の頃の記憶。
畳の匂いが心地よくて寝そべっていたら、幼い俺はいつの間にか眠ってしまったのだ。傍にはお気に入りの絵本。
誰かが掛けてくれたタオルを握りしめていた。
いや、そんなはずはない。
今までの俺の人生で、そんな経験をしたことなんてない。狭かったマンション、無音なフロア。
畳の上で昼寝なんて、そんなことあるわけない。
ーーチリン
また風鈴の音が鳴る。
今度は、縁側から庭を見つめた時のことを思い出した。
年老いた男が微笑んでいる。あれは祖父だ。
祖父は、伸びすぎた枝を剪定バサミで切り落としていた。
ほら、ここを切ったら格好が良くなっただろ、と祖父は日焼けした顔に流れる汗を手拭いで拭う。
俺はよく、庭から祖父の作業を眺めていた。
黙々と作業に没頭していた祖父。
時折、俺の視線に気づくと、祖父は照れくさそうな笑顔を見せた……でもその顔を俺は知らない。
俺は、祖父に会ったことなどない。
「おじいちゃんがいなくなってから庭の手入れ、なかなか出来なくってねえ。私じゃうまくできないから、植木屋さんに頼んでるの」
背後の声が言った。まるで俺の思ったことを見透かしているようでゾッとした。
だが、この声にはやはり覚えがある……まだ、振り向けない。
「見てあの植木。枝が伸びて不格好になっちゃってさ。おじいちゃんにも申し訳ないわよねえ。そろそろ植木屋さんにお願いしなきゃ……」
チリン、と風鈴がまた鳴った。
風鈴の音が鳴るたびに、俺は思い出していた。
この家の縁側に座り麦茶を飲んだこと、近所の幼馴染とスイカを分けあったこと。
幼馴染の剥き出しの肩には、虫刺されの跡がいくつもあった。
水鉄砲、大きくなりすぎたきゅうり、海に行かないのに毎日履いていたビーチサンダル。
夕暮れには花火もした。花火が終わった後、僕は誰かの隣に座って鈴虫の音を聞いていた……
いくつもの、夏の記憶が蘇る。
どれも、自分の人生には存在しないはずの記憶だった。
俺の過ごした子供時代じゃない。
風鈴の音とともに、古き良き、情緒たっぷりの夏の思い出がなだれ込んでくる。
「ゆっくりしていけるんでしょ」
背後で母が言った。
そうだ、これは母の声だ。昼寝をしていた小さな俺にタオルを掛けてくれたのも、花火が終わった後、隣で一緒に鈴虫の音を聞いてくれたのも母だ。
目の奥が熱くなって涙が滲む。
母はもういないはずなのに。
母は、自ら死を選んだ。
マンションから飛び降りた、という説明を俺は警察から聞いた。
過労で心を病んだということだった。
あの狭い部屋を出てから俺は、母にろくに連絡をしなかった。母からの電話を、俺は何度も無視した。
「ずっとここにいなさいよ」
母が静かに言った。
これは俺の幻想なんだろうか?
こんな子供時代を過ごしたかったという願望?
それとも……母の未練、執着なんだろうか。
俺はそこに閉じ込められたんだろうか。
風もないのに、風鈴が鳴り続ける。
その度に、あるはずのない夏の思い出が蘇り、俺の脳内を侵食していった。
結婚しても時折心は逃避行しているような妻
今も風が吹いたのをいいことに
柔らかな髪を風に揺らしながら
心だけは自由に漂わせているみたいな横顔
そんな横顔に僕はずっと恋している
妻と僕はよく似ていた
いつも居心地悪くてどこにも馴染めず
でも決して枠からはみ出すことをしない
何でもない顔をして妻はよく壁を作る
透明で硬い壁の内側には誰にも触れられない
夫である僕は少しだけ胸が痛い
でもなんというか、僕はそんな妻を幸せにしたい
妻に会う前、僕は誰も幸せにしたことがなかったし
誰かを幸せにしたいと願うこともなかった
妻の逃避行さえ僕はいとおしいんだ
その逃避行の果てに帰る場所は
僕のところであると信じているからね