僕ほど冒険と縁遠い者はいないだろう。
生まれてこの方、遠くへ行こうなんて思った事がない。
学校からの帰り道、ふといつもと違う道に入ってみたこともないし、夏休みにみんなが寝静まってからこっそりと家を抜け出したこともない。
何があるか分からないところへ飛び込むなんて、危険すぎる。
控えめで慎重、つまり平凡で臆病な僕には、冒険なんて全く別世界のものなのだ。
身の程をわきまえている、と言った方がいいだろうか。
高校も大学も会社も、いつも自分の身の丈に見合った「そこそこ」の場所を選んできた。
才能なんて何もない。勉強、スポーツは平均以下。
何かを創作するような性質も持ち合わせていない。
そんな僕は、普通に生きるだけで精一杯だ
リスクを取るなんて絶対無理。
しかしそれこそが僕の持ち味、唯一の取り柄だ。リスク回避能力。
胸を張って、特技と言ってもいいくらいだ。
冒険しない人生だっていいじゃないか。
平均よりちょい下ぐらい、個性のないその他モブ。でもギリ、落ちこぼれてなければ別にいいし、モブらしく何か有事の際には真っ先に命を落とすだろうけど、それが僕に与えられた役割なんだろう。
自己肯定感なら低めで安定してるし。
髪型も服装も、いつも通り。
コンビニのスイーツだって定番が一番安心だし。
なんだよ、スイカフレーバーのミルクサイダーって。そんなところを攻めたって僕は買わない。
冒険しない。
冒険したら失敗するのが目に見えている。
毎日、自販で買ったいつものコーヒーを片手に、淡々と業務をこなす日々。
それが僕の人生。
そんな僕が、世界の終わりを生き延びた。
もう、地球は限界だったのかもしれない
海水温度の急上昇、昆虫の異常繁殖、何度目かのパンデミック。
僕は世界中で起こる不安定な兆しを察知し、念のために出勤を控え、外食もやめ、通信機器を何台も用意し、在宅ワークに切り替えて、家に引き籠もった。
そしてある日、電波が届かなくなり、ネットが沈黙した。
外に出てみても、誰もいなかった。
街は静まり返り、空には何も飛んでいない。
どうやら世界は滅亡したらしい。
あっけない終わりだった。
世界が終わった決定的な理由はよく分からない。戦争か災害か。
どのみち人間が終わらせたんだろう。
でも、僕はなぜか生きていた
本来、真っ先に死ぬはずのモブの僕が――爆発やビルの崩壊の巻き添えとか、やたらとデカく成長した虫に喰われるとか、そんな場面にも遭遇せず、無事生き延びた。
終わった世界で、僕は何とか生きている。
冒険をしないまま。
空になったコンビニを漁り、缶詰を補給する。
危なそうなところは入らない。
崩れかけた建物には近づかない。
武器なんて持つわけない。
僕は、人類最後の生き残りかもしれない。だけど僕は何かするわけじゃない、何も成し遂げない。
毎朝、太陽が昇るのを見て、少しの食事をして、何年も前に買った文庫本を繰り返し読む。
「特に異常なし。今日も生きてる。コーヒーは昨日と同じ味」
日記を書いたら、夕暮れをみて眠りに落ちる。
世界が終わる前とたいして変わらない。
冒険しない人生の、延長だ。
でも、この静けさが好きだ。僕以外、誰もいないというのも、まあ理想に近い。対人関係という、世界最大のリスクがこの世からさっぱりと消えたのだから。
誰もいない所で、ただ一人死ぬ日を待つ。
冒険をしない僕に相応しい日々だ。
あの日、夏の盛り真っ只中のあの日。
僕は容赦なく照りつける太陽から逃れるように海へと飛び込んだ。
一瞬の浮遊後、僕は冷たい海水に包み込まれる。
僕は海の水が体の熱を奪っていくのに身を任せた。
世界は静かだった。
水の中から空を見上げた。
見慣れた地上の空は遠ざかり、僕はマリンブルーの世界にいた。
息を呑むような、美しさだった。
太陽の光が海面を突き抜け、キラキラと砕けて水中に散らばって、空の輝きを映し出す。まるで、空と海が共鳴しているみたいだ。
空と海の境界に、僕は魅せられた。
海の中に深く潜れば潜るほど、濃紺の静寂さが広がる。
時折その静寂を破るように、銀色の魚の群れが目の前を通り過ぎた。
彼らの鱗は、まるで小さな鏡のように周囲の光を反射し、目が眩むほどのまばゆさを放つ。
潜るほどにその青は濃さを増し、まるで世界の果てに触れるような美しさだった。
そして僕はまだ、あの日の景色の中にいる。
逃げたのは、太陽の熱だけじゃなかった。
全て、全てのことから僕は、逃げ出した。
君からでさえも。
僕は、永遠にこの景色の中に沈んだまま。もう戻らない。
ここでは、すべてが青に溶けるんだ。君の声は遠ざかり、影さえも消えていく。
海の底から見上げる空は、どこまでも遠く、どこまでも自由だ。
願い事といえば、思い出すことがある。
七夕の短冊飾り。
幼稚園の先生の「何をお願いするの?」という優しい声に私は胸を張って言った。
「力持ちになりたい!」
なんでそんなこと願ったのかというと、砂遊びをしていて、重たくなったバケツを動かせなかったからだ。
バケツをひっくり返して砂のお城を作りたかったのに、重くてびくともしなかった。それが悔しくて。
お迎えの時に、先生が母にその話をして、母があはは、と笑っていたのも覚えている。
以来、七夕になると母は必ず言う。
「あんた昔、お願いしたわよねえ。力持ちになれますようにって」
はいはい。確かにしましたね。母は、くすくすと笑いながら言った。
「よかったわねえ、本当に力持ちになれて。願いが叶ったね」
そうなのだ。
願いは叶った。私はバッチリ力持ちになったのだ。
母なんて片手でヒョイっと持ち上げられるし、みかんがぎっしり入った木箱も五つくらいも一度に運べる。100kgの耐火用金庫なんかも全然余裕だ。
この間なんて、近所の駐車場で動かなくなった自動車を、ちょっと押して動かしてあげた。
おじさんが、「す、すげえな……」って目を丸くして驚いていたけど、どうってことはない。
ただ力持ちってだけだ。
正直、この力持ちを、私は少し持て余している。
職業はWebデザイン関係だし、パソコンのマウスを動かすのにそれほどの筋力は必要ない。
なので最近では、この力持ちを活かしてボランティア活動に参加するようになった。
瓦礫の撤去、家財道具運搬、土のう運びとか、多少は役に立ててる……はず。
願いが叶って力持ちになって、少しは人の役に立てるようになったわけだけど、私自身が、力持ちのおかげでモテてるとか、幸せになったとか、そういうわけでもない。
じゃあなぜ、私の願いは叶ったんだろう?
神様の気まぐれ?
子供が願った純度の高い、無垢な願いだったから?
私のように短冊に書いた願いが叶った人って、どれくらいいるんだろう。
「ねえ、あんたが願ったらまた願いが叶うかもしれないからさ、もうこれ以上、物価が値上がりしませんように、って願ってくれない?」
母が言う。真剣な眼差しだ。
「いやいや、願いが叶うなんて、もう無理でしょ。一回叶ったんだよ、もうないよ。神様だって一人のお願い、何回も叶えないよ」
と言いつつ、私は毎年こっそり短冊に願いを書いている。
もう一度叶えてください、なんてちゃっかり願いを込めて、素敵な恋ができますように、とか、世界が平和になりますように、とか。
恋も世界平和も一向に訪れないけど。
神様が願いを叶えてくれるのが一度だけなら、私はそれを砂のお城のために使い果たしてしまったってことだ……微妙すぎて笑えない。
でも……そうだとしても、私はまた願うんだと思う。
小さな子供の頃と違って、願い事をするとき、そうそう都合よく願いなんて叶わない、なんて心のどこかでちゃんと分かってる。
そう思いながらもやっぱり願うのは、未来を諦めてないってことだと、私は思う。
願う心は、大事にしていい。叶うかどうかよりも、願い事をするって行為がきっと重要で……まあ、何が言いたいのかというと、じゃんじゃん願っていきましょう、ということだ。
神様は、気まぐれで何か一つ叶えてくれるかもしれないです、私が力持ちになったように。
叶いますよ、願いは!
浮気の証拠は、呆れるほど簡単に見つかった。
彼女がSNSにあげた写真。
顔こそ映ってないけど、彼女をバックハグしているのは、明らかにミチ君だった。
ジャケットの肩のラインとか、細長い指とか、全部ミチ君だった。
彼女のアカウントを遡る。ミチ君が出張で泊まりだって言っていた日は二人で温泉旅行に行っていたようだった。
#デート #love #二人旅行 #理想の関係 #ずっと一緒 #お互い大事 #本当の恋
これでもかとつけられたハッシュタグ。キラキラした幸せそうなカップル。
多分、ミチ君は隠す気なんてなかったんだと思う。
「これ見たんだけど、ミチ君だよね」
スマホの画面を突きつけたら、ミチ君はあっさり認め素直に謝った。
「あ……ごめんね……言おうと思ってた。申し訳ない」
下を向いてミチ君は言った。
申し訳ないって。
なんだか浮気されたことよりも、その言葉の方がキツかった。
申し訳ない……申し訳ない?
なんか、会社でのやり取りみたい。
報告書まだ出ていないんですが。あ、申し訳ない。今日のうちに送っときます、みたいな。そんな感じの、申し訳ない、だった。
一言で言えば、他人行儀。
やっぱり気持ちが離れていたんだと、はっきりと分かってしまった。
怒る気持ちよりも、泣きたい気持ちよりも、早く終わらせてしまいたいと強く思った。修羅場なんてめんどくさいことにはしたくないし。
だから聞いた。
「……別れる?」
ミチ君は心底ほっとした感じで答えた。
「あ……うん。そうして欲しい。全面的に俺が悪い。ごめん」
別に結婚してたわけじゃないし。
同棲もしてたわけじゃないし。
なんとなく、別れるかもって思ってたし。
私とミチ君は、学生時代からの付き合いだ。
社会人になってもなんとなく続いてた。
私たちは、お互いよく似ていた。
二人とも大勢で騒ぐより静かな場所が好き。
居酒屋よりもカフェとか。映画館でポップコーンを分け合って、帰りにカフェで感想を話す。基本的に、お互いの時間を尊重する。
居心地が良かった。
喧嘩なんて一つもしたことがない。ミチ君の穏やかな佇まい、感情を露わにしない静かな話し方に、私は、安心していた。
昔から男の人が苦手な私にしてみれば、ミチ君は救い、みたいなところはあった。
だけど、ミチ君はもっと気持ちのこもったやり取りを求めていたのかな。
彼女のSNS。彼女の弾けるような笑顔と、強く握り合った二人の手。
たくさんのハッシュタグ。
理想の関係、ずっと一緒、お互い大事、本当の恋。
写真も言葉も浮かれてる。恥ずかしげもなく、キラキラして眩しい。
ミチ君は、ちゃんと恋をしたんだ。
一晩中見つめあって、身体をくっつけて好きという感情で胸が熱くなるような、恋。
お互い大事、なんて言える関係を築き上げたんだ。
私とミチ君は、どうだった?
お互い干渉し過ぎず、ちょうどいい距離だったけど、ずっと衝突を避けてきたようなところはあった。
それって本当は、ちゃんと向き合ってなかったってことだ。どこか上滑りしてるというか……別れる時だって、そうだった。
彼女との恋が、#本当の恋 なら、私との関係は
#空っぽな恋 だったのかも。
空虚な関係。本物じゃない恋。申し訳ない、で終わる恋。
ミチ君がいなくなって数週間。
心にぽっかり穴が空いたわけでもなく、泣くこともなく、髪型もファッションも変えるわけでもなく、私は何も変わらなかった。
変わらない日常がある。失恋して人間的に成長したとか何もなく、ただ振られた事実だけがあった。
仕事から帰ってきて、ベランダに出て空を見上げた。
太陽は沈んだのに、まだ光を残した空に、陰影が濃くなった雲が広がっている。
星はまだ見えない。
どんな空でも、私には届かない。
私は、ミチ君のこと大切にしていなかったのかな。ミチ君もそうだったのかな。
多分、そうなんだろう。
だからあんな、ぞんざいな別れ方になった。
どうして、私の心はこんなにも波立たないんだろう。
つまらない人間だから、恋愛もままならないんだろうか。
浮気の証拠を突きつけた時、ミチ君がもっと動揺して感情的になっていたら、私も怒ったりしたのかな。
怒らない私を、ミチ君はどう思ったんだろう。
今更、そんなことを思ってみてもしょうがないことばかり浮かんだ。
恋がしたい。
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
恋をしてみたい。
誰かと思い合いたい。
大好きだよって心から言いたい。
浮気なんかしないでって言いたい。
お互い大事だって思える関係を築きたい。
私が誰かのそんな存在になれるだろうか、大事な存在に。
自分の気持ちをさらけ出そうと思っても、出来ない私には、やはり恋なんて無理なんだろうか。
恋がしたいと願って見上げた空は、じわりと滲んだ。
私は、その夜、ミチ君がいなくなってから初めて、止まらないほど涙を流した。
夜の海岸は静かで、ただ波の音だけが響いている。
眠れなかった私はベッドを抜け出して、海辺へと来ていた。
月の光を一つの道筋のように映し出した水面は、僅かに揺れるだけ。
誰もいない波打ち際を私は歩いた。
胸には張り裂けそうな寂しさを抱えていた。
夜の海は黒く、この波の向こう側にどれだけの広さや深さがあるのだろうと思うと、私は少しだけ怖かった。
だけど歩いているうちに、波が寄せては返すそのリズムに、怖さも寂しさも少しずつ和らいでいく。
「ねえ、海」と私は囁いてみた。
「眠れないんだ、私」
海は小さく笑うように、波を軽く震わせた。
私は、砂に腰を下ろして膝を抱えた。海の匂いが鼻をくすぐる。
海が波を寄せながら言った。
「眠れない夜に私のところに来てくれるとは、光栄だね。ちょうどいい。私も少し昔を懐かしんでいたところなんだよ。誰かに思い出を語りたくてね。聞いてくれるかな?」
こういう時って、海が私の思いを聞いて受け止めてくれるんじゃないだろうか。
でもまあ……海の話を聞くのも悪くないか。話すの苦手だし、私の思いなんて、ただ孤独なだけだし。
私は海の昔話を聞くことにした。
「あなたは何を思い出していたの? 」
海はしばらくもったいぶって、波をゆっくり寄せては返した。
まるで太古の昔からの記憶の底をそっと探っているよう。私は目を閉じて海が語るのを待った。
やがて、海は柔らかな声で話し始めた。
波の音に混じって、海の囁きが私の耳に直接入ってくる。
「うーん、たくさんありすぎて、どこから話すか迷ってしまうな。 そうだな、古代の人のことを話そう。星の下で炎を囲んで踊っていた彼らのことを。彼らの舞は、祈りだった。裸足で大地を踏み、両手を空に伸ばして、まるで私の波音と一緒に揺れているみたいだったよ。女の子の長い黒髪が風に揺れて、炎がその顔を照らすのを覚えている」
「美人だった?」
「ああ。美しかった」
私は美しい黒髪の女の子を思った。手足を力強く優雅に動かして彼女は一心不乱に舞う。彼女は何を祈ったんだろう?
「何を祈ってたの?」
「彼らは言葉では祈らなかった。でもあの祈りの舞には、魂の振動みたいなものがあったんだ。それが私の波の音に重なっていくのが心地よくてね。覚えているよ」
海の声は優しくて、まるで私の手を握ってくれるみたいだ。
「だが私は、美しい言葉もたくさん聞いたよ。愛の言葉なんかを。恋人たちが私の波に足を浸して恥ずかしそうに愛を囁き合ったのも聞いたし、叶わない恋をした者が想いを歌にして私にだけ聞かせてくれたりもした。そういえば叶わない恋の歌を歌いにくるのは、大抵悲しげな顔をした男たちだったな。全く愛らしいよ」
私は微笑んで、砂に指で線を引く。
愛らしい囁き合う恋人たち。愛らしい悲しげな叶わない恋をした男の人たち。
私は海の話をいつまでも聞いていたい。
「他には? もっと昔の…人間が生まれる前のことは覚えてる? 例えば、恐竜とか……」
波が一瞬止まる。
海は深い溜息みたいに、ゆっくりと波を寄せた。
「恐竜か……うん、彼らのことは忘れられない。彼らが岸辺を揺らすように歩いたのも、私の中を自由に泳ぎ回ったのも昨日のことのように覚えている。一番忘れ難いのは、彼らの咆哮だよ……忘れられないんだ。私の岸で彼らは叫んだ。私の奥深くまで届くみたいな声で。まるで、誰か、俺を覚えててくれって言ってるみたいでね。だから私はその声を、波の奥にしまっているんだ」
私は月を見上げた。暗い海の上、月は白い光を放っている。
私は海辺に来た理由を思い出した。寂しさに胸が張り裂けそうで、いてもたってもいられなくてここに来たんだった。きっと恐竜も同じだったのかも。わけが分からないほど叫び出したくて、誰にも届かないのに聞いて欲しくて。海の語り口があまりにも柔らかくて涙が出そうだ。
「昔のことを、全部覚えてるの?」
「全部じゃないさ」
海は笑って答えた。
波が私の足元に触れる。ひんやりと冷たい。私は足で波を揺らして海に聞いた。
「私のことも覚えていてくれる?」
「もちろん、ちゃんと覚えておくよ」
私は目を閉じる。
波の音が、古代の祈りや愛の言葉や恐竜の咆哮なんかと一緒に、私を包む。
「海」と私は言った。
「あなたの話、素敵だったよ」
海は波を小さく寄せた。まるで微笑んでるみたい。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。君こそ聞いてくれてありがとう」
私は笑って、膝に顔を埋める。冷たい砂が足の裏に心地いい。私は愛の言葉を打ち明けるみたいに海に言った。
「本当のこと言うと、少し怖かったんだ……夜の海なんて。でもあなたは優しいし波の音も綺麗」
穏やかに繰り返す波の音は、まるで子守唄みたい。
私は言った。
「あなたの底に沈んでもいい?」
しばらく波の音だけが響いた。
波が揺れて、海がそっと話し始める。
「……ああ。いつでも私の底においで。私の深いところはとても静かだし、私がしまっておいた、たくさんの思い出もある。何も怖いことなどないよ。君がそうしたいなら、いつでもおいで」
私は息を止めて海の声を聞いていた。なんて柔らかくて優しい声なんだろう。
月の光が波に反射して、きらきらと輝いている。
胸の奥がじんわり温かくなる。私は心の底から安堵していた。
ありがとう、と私は海に言った。
海はもう何も言わなかった。ただ波が一瞬強く寄せて、私の足元を濡らす。
潮風が髪に絡む。波の音も潮風も、海が私を抱いてくれているみたいだった。
私は砂の上に座ったまま、膝を頭を乗せ、いつまでも海の波音に耳を澄ませていた。