ふと、僕は、本当にこれでよかったのか、自分をなぞってみるときがある。
分からなくなる。僕がここに居た証や、その答え方を。
夢や理想を立派に掲げて、負けず嫌いだと自覚して、悔しいと涙を流すくせに。
いつだって目の前のことだけで精一杯で、自分の理想になれたことが一度もない。
時おり向けられる羨望の眼差しが後悔と嫉妬を融解して、どろどろになった世界で息をしている。
吹き荒れる荒波が織りなす雨音に心が擦り減って。
僕と同じ船を造ったはずなのに、静かな波音で海を拓くあいつがずっと羨ましかった。
こんなにも、醜い感情に溺れながら、どうして僕は今日を生きるのか。
朝食が自分の好物で美味しかった。
いつもよりも余裕をもって家を出れた。
食堂のおばさんが唐揚げを一つおまけしてくれた。
午後四時の夕日が灯火の色みたいで綺麗だった。
見上げた夜空で煌めく光に言葉を奪われた。
何気のない、一つ一つの優しい出来事に答えがあるのかもしれない。
置き去りの答え。止まらない鼓動の音、その意味が。
僕のしてきたことは消せない。過去は、変えられない。
でも、理想になれない僕が僕としてやってきたことも、消えないんだ。
間違ってもいいから叫びたい。
僕の胸の残り火がこの掌に灯るまで。
迷ったっていいから探しに行こう。
僕の手に宿る灯火の私上命題を。
雨の交差点の奥に、もうすぐ君が見えなくなる。
引き攣った喉の奥で君の名前を呼んでも、傘を叩く音で届かないだろう。
愛してる、なんて、元からかたちを持たないくせに、君と僕の心は、繋がりは、今確かに壊れたのだろう。
君が触れたもの全部が優しく見えて、それを丸ごと愛おしいと思えた日々が、繰り返し繰り返し頭の中で浮かんでは消えずに、ただ、積もりに積もって溢れ出す。
薄汚れたビニール傘越しの世界は、どこを歩いても灰色に滲んでいた。
暖かい涙でふいに目が覚めた。
白い枕に顔をうずめて、あなたの温もりを追いかけて、焦がれた夢の続きは何処にあるの。
君のいない世界でどれほど時が経っただろう。
忘れたい記憶ばかりがあなたとの思い出になって、わたしの心の柔らかい所に居座って離れない。
あなたに合わせて買ったキングサイズのベッドも、寒いからと隙間なくくっついて座った三人がけのソファも、身体の大きなあなたがよく頭をぶつけていたキッチンも、ほんと、どこにでもいる。
どこにでもいるくせに、あなたの匂いは朝が来る度に薄れてもうちっとも思い出せない。
あなたを忘れて、忘れられなくても大切な思い出として左胸の奥深くへしまって、こんなこともあったね、なんて、モノクロの記憶となる日は来るの。もしそんなことが起こるなら、あなたの愛を知る前のわたしに、傷の痛みなんて知らないわたしのところまで、今すぐに連れていってほしい。
夢の続きを願えば願うほど、わたしが息をしている世界に、あなたはもういないんだと、思い知らされる。
冷たい海のような、澄んだ瞳で、呪われた世界を抱きしめたあなたは何処に帰ったの。
あなたと最後に行った海へ、砂を踏みしめても、そこに君はいないのに。果てしのない引力に、引き寄せられたまま。わたしだけがずっと。
ふたりだけしかいないのに、なまぬるい風が彼とわたしだけじゃない世界のすみっこで絡まる指先をそっと撫でていく。波の音が柔らかい光の下で静寂を歌って、わたしの心臓はそれに合わせるようにゆっくりと拍動していた。
繋がれた右手を辿って隣を見上げれば、夜闇に差し込んだ明かりが彼の白い肌を縁どって綺麗な青が覗いていた。
こんな暗い中でもあなたの瞳は眩しい。
ずっとそうだった。
血と呪いに塗れた世界で、常にいちばん前でわたしたちを明るい方へと導いてきたその瞳。
それに比べてわたしは、あなたの足手まといにならないように、追いかけて、でもまたすぐに引き離されて。まるで波のようだと、唐突に思ったそのとき。
朧気に踏み込んだ足元をさらさらとした砂にさらわれた。
あ、と思うことも出来ないままぐらりと身体が傾く。ばかだなぁと、どこか他人事のように考えていると、大きくて力強い手がぐ、と、腰に回った。
「あ、りがとう」
「ん」
単音だけで返事をした彼の双眸がわたしに向けられているはずだけれど、月明かりを背負っているせいでよく見えない。引き寄せたくて、随分高い位置で呼吸する彫刻のような顔に触れると、不意に彼の手が重ねられた。そのまま膝を折った彼の唇がゆっくりとわたしのそれに押し付けられる。
そっと閉じた眼の奥で、なるほど、と納得した。
わたしは波ではなく、砂だった。踏まれても踏まれても彼の足の形に順応しようとして、それでいて靴の隙間から際限なく入ってくる細砂のように、未練だけがいつまでも。
「明日帰ってきたらさ、どこか遠い所に旅行したいなって。だから…」
待っててよ。
そっと離れた唇から、海の匂いに溶け込めなかった彼の音が静かに溢れる。口に出したところで決して叶わない想いを抱えた心臓が泣き出して、つられて緩む涙腺を堪えながらわたしは必死に首を縦に振った。
「いってらっしゃい」
言いたかった言葉と、言わなかった言葉を一思いに呑み込んだわたしたちが、
願わくば、
長いまつ毛に縁取られた夜色の瞳に見つめられて、そのどろっとした熱から逃げるようにふいと目を逸らした。しつこく追いかけてくるようなことはせずに、代わりに「怖い?」と、優しい声が耳元に落ちて、大きな手がくしゃりと頭を撫ぜた。
あなたが怖いわけがない。
あなたの視線が、声が、言葉が、手が、体ぜんぶでわたしが愛おしいと、そう言っている気がして、こんな風にわたしを扱ってくれるひとは初めてだから。何かあたたかいものにぺしゃりと心臓を潰されて、甘くて、苦しくて泣きそうになる。
「優しく、しなくていいよ」
これまでずっと、皆そうだったから。そっちの方が慣れているから。それでもあなたは、間髪入れずに「やだ」と切り捨てた。はつりと瞬きをして顔を上げると、あたたかな手にそっと頬を包まれる。
「これからずっと、おまえは俺の大切なひとだよ」
諦めて、と、きゅっと細められた瞳に捕まって、じわと眼が濡れた。