"手のひらの宇宙"
宇宙ガラスというものがある。
小さな硝子玉の中に、螺旋状に輝く銀河とぽっかり浮かぶ極小の惑星が詰め込まれた芸術作品だ。
偶然入った展示会で見つけた瞬間、貴女は魅入られたようにガラスケースの前に立ち尽くし、随分と長い間その場を離れなかった。
普段は殆ど美術品に興味を示さなかった貴女が、あそこまで一つの作品に惹きつけられたのは、後にも先にあれだけだ。
出口近くで展示品の販売も行われていたが、値札を一瞥した貴女は力無く首を振る。
小さくとも"宇宙"を所有するには、それ相応の対価が必要だったのだ。
一年後、貴女の誕生日に小さな箱を渡した。
中を見た貴女は、瞳を輝かせて、いつまでもいつまでも手のひらの宇宙に魅入っていた。
"風のいたずら"
着ぐるみから赤い風船を貰った子供が、目の前を走っていった。
親御さんと手を繋ごうとした際、あっ、と声がして風船が飛んでいくのが見えた。
風のいたずらか、木に絡まって止まった風船を見て、子供が泣いている。
親御さんは、それほど飛ばされずに済んで良かったと、すぐに取ってあげるからねと、子供を慰めていた。
空に溶け込むことも出来ず、中途半端な位置でゆらゆら揺れている風船。
木々の緑の中にポツンと混ざった赤がひどく場違いで、哀れに思った。
"透明な涙"
夜中にふと目を覚ますと、
枕元に彼女が座っていた。
電気の消えた部屋の中、
窓から差し込む月の光がやけに明るくて。
彼女は目を覚ました僕に気付かず、ただ月を見上げて泣いていた。
声もなく、静かに涙を流す姿を見て。
もう終わりなんだなぁと、訳もなく悟った。
どれくらいの時間が経っただろう。
眠りに落ちる寸前。
頑張れなくてごめんね、と。
僕じゃない誰かの名前を呟く声が、聞こえた。
"あなたのもとへ"
彼女は忙しい人だった。
僕が静かにできるようになると、朝から晩まで家を空けるようになった。
朝、いってらっしゃい、と手を振って。
する事もなく、ぼうっと彼女が出ていった扉を見つめる。
部屋には玩具もTVも本もなく、食べ物だってなかった。エアコンなんてものも存在しなかったし、はるか頭上の窓は当然のように締め切られていた。
水道の蛇口には背が届かなかったから、どうしても喉が渇いた時には洗面器に入った水に口をつけることで凌いだ。
待って、待って、待ち続けて。
トン、トン、と待ち望んだ足音が聞こえた。
ガチャリと鍵が開けられ、ドアノブが回り切る前に扉に駆け寄る。
おかえりなさい、と抱きつくと、いつも彼女は"いい子ね"と頭を撫でてくれた。
不在の時間が徐々に長くなり、帰宅が翌日の朝になり、夜になり、更にもう1日、2日と経つと、さすがに堪えるようになった。
あなたは知ってるかな。
ひもじくて、自分の腕を齧るほどの飢えを。
痕が残ってしまったことでバレてしまったその行為は、結果的には良かったのかもしれない。彼女は僕の身体の見える位置に傷が出来ることに対して酷く神経質だったから。
それからは長く家を空ける際には菓子パンを与えられるようになった。
今でも彼女を嫌いになりきれないのは、
抱き締めてくれた時、
あなたのもとへ帰って来られた今が幸せなのだと、
あなたが家で待っていてくれるから頑張れるのだと、
彼女が泣きながら笑っていたのを覚えているからだろうなぁ。
なんて、彼女に対して怒ってくれた貴女には絶対に言えないな。
"そっと"
二人きりで食事をする時、貴女が苦手な食べ物をそっと差し出すようになったのはいつからだったかな。
渡されたお皿を見て、そのままじっと貴女を見つめると、わざとらしく目を逸らされる。それでも視線を外さずにいると、貴女は無言でそうっと僕を拝むんだ。普段は飄々とした貴女が、いかにも後ろめたいですって顔をしてチラチラ此方を窺う姿に、いつも僕の方が先に笑ってしまって負けてしまう。
さりげなくお皿にパスされるプチトマトとか。
いつの間にか僕の方に全部寄せられている鍋の中の春菊とか。
貴女が苦手なものは殆ど野菜だったなぁ。
第三者がいる時は澄ました顔で残さず食べるのにね。
心を許されている証みたいでなんだか擽ったくて、口では好き嫌いは良くないと言いながらも、本当は悪い気がしなかったんだ。
今日も食卓につき、いただきますと手を合わせる。
一人分きっちりの食事が、丁度良い量のはずなのに、なんだか物足りない。