"まだ見ぬ景色"
最初に教わったことは、"黙ること"だった。
うるさく泣けば、騒げば、水の中に沈められ、窒息する寸前で引き上げられる。何度も何度も繰り返され、酸欠で朦朧とする意識のまま見上げると、彼女は悲しそうに、いつもお決まりの台詞を口遊むのだ。
"ごめんなさい。でもこれはあなたのためなの。あなたは賢いから、あの人の子供だから、分かってくれるでしょう?"
言葉を理解する気力もなく、ただ頷くと、彼女は嬉しそうに僕を抱きしめてくれる。
いい子、賢いかわいい子、私の一番の宝物だと、そう笑って。
怪我をしない、声も上がらない。殴ったり蹴ったりするよりも体力だって消費しないし、やり過ぎる心配もほとんどない。
手間もコストもリスクすら減らせてお手軽に言うことを聞かせられる方法。それが拷問や洗脳にも用いられる手法だと知ったのはいつだっただろうか。
彼女が去った一人きりのアパートの部屋で、洗面器に溜まった水を見下ろして。
きっと、この水鏡の向こう側には、彼女の望んだ"いい子"がいるのだと。この繰り返しの果てで、"悪い子"の自分と入れ替わってくれるナニカが現れるその時を、ずっと待ち望んでいた。
貴女が、水の中から引き上げてくれるまでは。
無気力な僕の傍で、貴女は手を繋いで色鮮やかに感情を教えてくれた。
あの部屋を出て、幾度季節が巡っただろうか。
彼女の"いい子"にはなれなかった僕だけど、それでも水の外のこちら側で、貴女と共にまだ見ぬ景色をみたいと思ったんだ。
"あの夢のつづきを"
毎年、初夢を貴女と語り合うのが恒例だった。
僕が見る夢は大抵碌でもなくて、自分が死ぬ夢ばかり。窒息、溺死、心臓発作、胸部損傷による心タンポナーデ。果ては劇場版みたいな壮大なスケール感の爆破劇や手の込んだ密室劇に巻き込まれてみたり。
推理小説や医療ミステリばかりを薦める貴女の影響か、やけにリアルな設定で編まれる夢に、何度冷や汗と共に飛び起きたものか。
貴女は羨ましがって何回も話をねだるけど、正直夢にはもううんざりしていた。
でも、最近は貴女の夢を見るんだ。
こうやって話をしている今が夢で、目を覚ましたら貴女が何処にもいないんだ。
僕がそう言うと、貴女は口元を緩ませる。
不機嫌にそっぽを向く僕に、貴女は、わたしがいないと君は死んじゃうんだねぇ、とにんまり笑った。
目覚まし時計のアラームを止め、もう一度布団に潜り込む。あと5分だけでもいい、あの夢のつづきに浸らせてほしい。貴女に会うために、この一年間現実を生きてきたのだから。
貴女はいつも冷たい手をして、カイロがわりだと僕の手を握ってはしゃいでた。
冷たいと振り解こうとしても、ぎゅっと指を絡めて、君があたたかいのがいけないのだとにんまり笑う。
僕はその笑顔に弱くて、まんまと体温を奪われてしまうのが冬の朝の日常だった。
最期に触れた手も、ひどく冷たくて。
棺の中で微笑む貴女がいつものように手を握ってくれはしないかと、そんな馬鹿な事を思っていた。
人が最初に忘れるのは声だと言う。
ひと月が経ち、ふた月が過ぎ、それでも涙が止まらなかった日々を越え。
貴女を亡くして幾歳月、"あたたかいね"と囁くあの声は、今もまだ鮮明に残っている。