カランコロンカラン。
「ただいま!」
陽菜(はるな)が店のドアを開けると、常連客は、おかえりー、今日はどこいっとんたんや、宿題終わったんかー、と次々に声をかけてくれる。
陽菜はまっすぐカウンター席の一番奥の席に向かい、鞄を置いた。鞄から画用紙を取り出して、常連客のテーブルに混ざりに行く。
「自由研究で地図作ってんの!ね、おっちゃん達、おすすめのお店とか教えてよ」
と、得意げに画用紙を広げているうちに、お店の奥から綾(あや)が出てきて、お冷のグラスを陽菜の席に置いた。
「こらこら、ハルちゃん、お客さんの邪魔しないよ〜」
「ええよぉ綾ちゃん、ハルは俺らの孫みたいなもんや、休みのたんびにこうやって会えるんが、生き甲斐なんや」
「そうそう、賑やかでええわ」
そう言って、おじさんは陽菜の頭を撫でた。陽菜の方も、満更でもない顔で、わしゃわしゃされている。
「私もあるよ、生き甲斐!」
陽菜はカウンターに戻ると、お冷をぐいっと飲んだ。
「ぷはぁ〜、遊んだ後はやっぱり、お店のミント水が一番やね、生き返るわぁ〜」
わざとらしい方言と、満面の笑みに、皆が大笑いした。
#生きる意味
掴んだはずの赤い風船が空に飛んでいった。
手を伸ばして、確かに捕まえたと思った瞬間だった。
足が滑って、あっ落ちるなって、そう思ったのに、
気づいたら私は、元いた歩道橋の上に座り込んでいた。
「なにやってんだよッ」
怒鳴り声にハッとして私は振り返った。誰かが私を引っ張ってくれたんだ。知らない男の子が、同じく座り込んでいた。私を引っ張った時に一緒に転んでしまったらしい。
「正気かよ、こんなとこから身を乗り出したら、落ちるに決まってるだろ!」
そう言いながらも、彼は立ち上がって私に手を伸ばしてくれた。
「風船がそこの看板に引っかかって…届きそうだったから、取ろうとしただけよ、悪いことじゃないでしょ」
風船を離してしまった少年が下にいたはず…と、覗き見てみたら、もうどこにも見つからなかった。
「あらら、もう諦めちゃったのかな」
振り返ると彼は目を見開いて、息を呑んでいた。それからふーーっと息を吐いた。
「あんたが落ちてたら、その子は一生今日のことを忘れないぞ。恐怖と、後悔をずっと、抱えていくことになる。それは、悪いことじゃないのか」
彼の声は震えていた。握った拳も震えていた。私は少し考えて、言った。
「ごめんなさい、怖い思いさせちゃって」
彼は横に首を振った。
「それから、ありがとうございます、助けてくれて」
「わかってくれたなら、それでいいよ」
静かに呟くと、少し遠くにあったスクールバッグを拾って、もう一度戻ってきた。
「自分のことはもっと大事にした方がいい。良いとか悪いとか、そういうことの前に」
じゃあ、と、今度こそ彼は去っていった。
私は、ああいう人こそ、ほんとの善人なんだなと思った。
空にはもう風船は見えない。
私は彼とは反対の階段を降りる。
踏み外さないよう、ゆっくりと。
#善悪
エレナはカーテンを開けた。
四角い枠に切り取られた夕暮れの空。
静かだった。耳を澄ましても、鈴の音は聞こえない。
母は、手先も、感情表現も不器用な人だった。
家に篭りきりのエレナが、絵本で見たサンタクロースについて、母に尋ねたことがあった。
その年のクリスマスに、一度だけ、エレナはプレゼントをねだった。
「おともだちがほしいの」
母は、深くため息をついて、「そう」と、つぶやいた。
翌朝、枕元に置いてあったのが、手作りのぬいぐるみだった。
フェルトの四角い胴体に顔と手足がついたもので、何を模して作ったものかはさっぱり検討がつかなかった。
歪な形をしていて自立せず、すぐにころんと倒れるので、エレナはそれに「コロロ」と名前をつけた。
母は、「サンタさんが置いて行ったのよ」と言っていた。
1人きりの部屋から見えるのは、満点の星空。
目を凝らしてみるが、そりは飛んでいない。
エレナは目を閉じる。
もう母の顔は思い出せない。
あれっきり、何度お願いしても、サンタクロースはやってこなかった。
エレナはそっとカーテンを閉めた。
部屋は真っ暗になった。
エレナは手探りでベッドに潜り込み、コロロを抱きしめた。
サンタクロースは母を連れてきてはくれなかった。
母は、諦めきれない夢を追って、家を出た。
エレナが母の夢を叶えてあげられなかったから。
だからエレナはサンタクロースになりたかった。
夢を叶えるサンタクロースに。
#イブの夜
酒はまだ、飲んだことがない。
親戚揃って下戸なので、テーブルを回って酒を注いで…みたいな席はなかったし、お前もやめとけ、と大学に入る時に釘を刺されている。
友達に連れてこられた飲み会で、先輩たちが馬鹿笑いをして肩を叩き合っているのをみて「ああ、これを酔っ払いと呼ぶんだな」と思ったけど、他人事だと思っていた。
多分今、俺は、酔っているんだと思う。
ノンアルコールのカクテルと、暗めの照明と、再会の余韻、少しも変わらないその笑顔。場に酔っている。
昔から彼女は、いつでも笑っていて、でもどこか寂しそうで、毎日会っていても、時々、とても遠くに感じた。
一度だけ見た涙を、俺は一生忘れないと誓った。
それなのに、手放してしまった。
手を伸ばすのをやめたんだ。
それなのに、本当に二度と会えないんじゃないかって、不安に思っていた。
ようやく、掴み直した、彼女と俺を繋ぐ糸。
終わらせない。今日だけで終わらせたりしない。
絶対、忘れたなんて言わせない。今度は。
「忘れる隙も与えないから、覚悟しておけよ」
のらりくらりと彼女はいう。
「ま、やってみな」
初めて会ったあの日の、赤い風船を思い出す。
歩道橋の上、風がさらった風船を捕まえようと身を乗り出した彼女の危うさを、俺だけが知っている。
もう、離さない。
#終わらせないで
帰省ついでに、と、かつての子供部屋の片付けを決意した。
元々、そんなに荷物が多いわけではない。
高校時代を過ごした家ではあるが、居候の身であった自覚はあった。仕事で各地を転々とする母に代わり、家主の叔父夫婦が、自分を我が子のように愛してくれていたのは理解しているし感謝もしているけど、心のどこかで、ここに留まってはいけないのだと、幼心に思っていた。
今でこそ、自分の「実家」はここだな、と自然に思うようにはなったけれど、それはそれ、これはこれ。
いらないものをいつまでもとっておくことはない。
小さい頃の服やらなんやらは、叔母経由で近所に「お下がり」に出しているのであまり残っていないが、高校時代の文房具なんかは、ここで暮らしていた時のままだ。
使えそうな洋服は、一人暮らしのマンションに引き上げようと、開けた衣装ケースの中に、そのセーターは残っていた。
派手な黄色。胸の位置に銀色の糸でワンポイントの刺繍がしてある。袖口がほつれているし、ボタンは落としてつけ替えたものもあって、ちぐはぐだ。
中学3年生の冬、母が私によこしたものだ。なんの気まぐれか、簡単な手紙とセーターだけが、仕事先から送られてきた。
デザインは好みではなかったけれど、多分高価なものだと思う、薄手の割に暖かくて、こればかり着ていた。
流石に目立つので、学校には着ていかなかったけど…
そういえば、友達と出かけた時に「そういう明るい色も着るんだね」と言われたことを思い出して、姿見の前に立ってみた。
黒いスカートに、白のブラウス、靴下がかろうじて赤。
黄色のセーターを胸元に重ねてみた。悪くはないか…
少し悩んだが、セーターはゴミ袋に押し込んだ。
今の私には、きっと要らないものだ。
「セーター」