エレナはカーテンを開けた。
四角い枠に切り取られた夕暮れの空。
静かだった。耳を澄ましても、鈴の音は聞こえない。
母は、手先も、感情表現も不器用な人だった。
家に篭りきりのエレナが、絵本で見たサンタクロースについて、母に尋ねたことがあった。
その年のクリスマスに、一度だけ、エレナはプレゼントをねだった。
「おともだちがほしいの」
母は、深くため息をついて、「そう」と、つぶやいた。
翌朝、枕元に置いてあったのが、手作りのぬいぐるみだった。
フェルトの四角い胴体に顔と手足がついたもので、何を模して作ったものかはさっぱり検討がつかなかった。
歪な形をしていて自立せず、すぐにころんと倒れるので、エレナはそれに「コロロ」と名前をつけた。
母は、「サンタさんが置いて行ったのよ」と言っていた。
1人きりの部屋から見えるのは、満点の星空。
目を凝らしてみるが、そりは飛んでいない。
エレナは目を閉じる。
もう母の顔は思い出せない。
あれっきり、何度お願いしても、サンタクロースはやってこなかった。
エレナはそっとカーテンを閉めた。
部屋は真っ暗になった。
エレナは手探りでベッドに潜り込み、コロロを抱きしめた。
サンタクロースは母を連れてきてはくれなかった。
母は、諦めきれない夢を追って、家を出た。
エレナが母の夢を叶えてあげられなかったから。
だからエレナはサンタクロースになりたかった。
夢を叶えるサンタクロースに。
#イブの夜
酒はまだ、飲んだことがない。
親戚揃って下戸なので、テーブルを回って酒を注いで…みたいな席はなかったし、お前もやめとけ、と大学に入る時に釘を刺されている。
友達に連れてこられた飲み会で、先輩たちが馬鹿笑いをして肩を叩き合っているのをみて「ああ、これを酔っ払いと呼ぶんだな」と思ったけど、他人事だと思っていた。
多分今、俺は、酔っているんだと思う。
ノンアルコールのカクテルと、暗めの照明と、再会の余韻、少しも変わらないその笑顔。場に酔っている。
昔から彼女は、いつでも笑っていて、でもどこか寂しそうで、毎日会っていても、時々、とても遠くに感じた。
一度だけ見た涙を、俺は一生忘れないと誓った。
それなのに、手放してしまった。
手を伸ばすのをやめたんだ。
それなのに、本当に二度と会えないんじゃないかって、不安に思っていた。
ようやく、掴み直した、彼女と俺を繋ぐ糸。
終わらせない。今日だけで終わらせたりしない。
絶対、忘れたなんて言わせない。今度は。
「忘れる隙も与えないから、覚悟しておけよ」
のらりくらりと彼女はいう。
「ま、やってみな」
初めて会ったあの日の、赤い風船を思い出す。
歩道橋の上、風がさらった風船を捕まえようと身を乗り出した彼女の危うさを、俺だけが知っている。
もう、離さない。
#終わらせないで
帰省ついでに、と、かつての子供部屋の片付けを決意した。
元々、そんなに荷物が多いわけではない。
高校時代を過ごした家ではあるが、居候の身であった自覚はあった。仕事で各地を転々とする母に代わり、家主の叔父夫婦が、自分を我が子のように愛してくれていたのは理解しているし感謝もしているけど、心のどこかで、ここに留まってはいけないのだと、幼心に思っていた。
今でこそ、自分の「実家」はここだな、と自然に思うようにはなったけれど、それはそれ、これはこれ。
いらないものをいつまでもとっておくことはない。
小さい頃の服やらなんやらは、叔母経由で近所に「お下がり」に出しているのであまり残っていないが、高校時代の文房具なんかは、ここで暮らしていた時のままだ。
使えそうな洋服は、一人暮らしのマンションに引き上げようと、開けた衣装ケースの中に、そのセーターは残っていた。
派手な黄色。胸の位置に銀色の糸でワンポイントの刺繍がしてある。袖口がほつれているし、ボタンは落としてつけ替えたものもあって、ちぐはぐだ。
中学3年生の冬、母が私によこしたものだ。なんの気まぐれか、簡単な手紙とセーターだけが、仕事先から送られてきた。
デザインは好みではなかったけれど、多分高価なものだと思う、薄手の割に暖かくて、こればかり着ていた。
流石に目立つので、学校には着ていかなかったけど…
そういえば、友達と出かけた時に「そういう明るい色も着るんだね」と言われたことを思い出して、姿見の前に立ってみた。
黒いスカートに、白のブラウス、靴下がかろうじて赤。
黄色のセーターを胸元に重ねてみた。悪くはないか…
少し悩んだが、セーターはゴミ袋に押し込んだ。
今の私には、きっと要らないものだ。
「セーター」
久々の再会にギクシャクしていたのは陽菜(はるな)ばかりで、一彰(かずあき)は以前と変わらず、落ち着いていた。
むしろ、年齢が性格や見た目に追いついたといったところか。
私服で出かけた時には、歳上の陽菜のほうが妹に見られることもあった。
さっき、店に入った時も店員は陽菜だけに年齢確認を求めた。陽菜があたふたしていたところ、さっと一彰の方が学生証を出してきて「お互い飲めない年齢で」と説明していて、恥ずかしい思いをしたところである。
ノンアルコールで乾杯してなんとなく近況報告やら、昔話やらしているうちに、陽菜もようやく、学生時代のように、自然に話せるようになってきた。
こんなに、穏やかに人と話すのって、いつぶりだろう。
陽菜はふと思った。
職場での人間関係は悪くない。仕事量が多すぎることを除けば、和やかな雰囲気で、それなりに雑談もするものの、なんとなく、深く踏み込んではいけない、暗黙の了解があるような気がして。
一人暮らしで、誰かとゆっくりご飯を食べるのも、そういえば久しぶりだな、と、思わず顔が緩んだ。
目が合った一彰は同じく微笑んでいた。
「…どうしたの?」
「いや、変わんないなと思って、安心した」
グラスを揺らすと、氷がカランと回った。
「本当は、連絡するか迷ってたんだ。便りがないのは良いことって言うしさ、なんかあったら連絡くるだろって、思ってたけど……」
「なに、心配してくれたの?」
「いや、俺が会いたくなっただけだよ」
予想外の返答に、陽菜は息を呑んだ。掴んでいた唐揚げがコロンと皿に戻った。
「お前は俺が心配しなくたって、どこでもなんとでもやってるんだろうけど、こうやってこっちから聞かないと、教えてくれないんだよなって」
一彰は目線を逸らさない。
陽菜は、目を逸らすことができない。
「俺のこと、たまには思い出してくれてたか?」
そうだった、こいつはそういうやつなんだ。
なんの躊躇いも狙いもなく、私を甘やかすんだ。
陽菜は一彰が誰にでも優しいことを知っている。
知っているのに。
深く息を吐いて、陽菜はニッと笑った。
「たまーにね」
「これからは頻繁に思い出してもらえるように、連絡する」
「ほんとー? 休みの日も遊びに行こうよ! 私友達いないから、大体家でダラダラしちゃう。私にも学生の遊び方教えてよ〜」
「俺も言うほど友達いないけど…まあ、行き先は考えとくわ」
笑って誤魔化すことが、癖になっていた。言葉を軽く受け取ったような態度をすることで、深く関わることを避けてきたのかもしれない。
暗黙の了解を作ってきたのは、陽菜自身なのだ。
「忘れる隙も与えないから、覚悟しとけよ」
友達であろうとする気持ちと反比例して、陽菜の心の深いところへ、一彰のコトバが落ちていく。
「ま、やってみな」
ずいぶん薄まったオレンジジュースを、陽菜は一気に飲み干した。
「落ちていく」
今回の「帰省」だが、陽菜にはもう一つの目的がある。
高校時代の後輩と会うこと。約3年ぶりだ。
2年間毎日のように顔を合わせていたのに、卒業すると途端に会わなくなった。連絡すらとっていなかった。
そんな彼から、先日急に、陽菜の叔父夫婦の営む喫茶店でアルバイトを始めたと報告があった。久しぶりに会おう、と。
「うちで会えばいいのに」と叔母は言う。
後輩も、バイト上がりに店で…と言っていたが即座に断った。自分の家で、家族に見守れながら、何の話ができるのか。恥ずかしすぎる。とは後輩にも叔母にも言えず。
「うちの店にはいつでも行けるから」と、理由をつけて、駅の裏手の飲み屋街から、ゆっくりできそうな店を予約した。
待ち合わせは、駅前のバスロータリーだ。
それなりに行き交う人の波を避け、階段のそばで、陽菜は待っている。
陽は落ちたとは言え、まだまだ空気が蒸し暑い。
何本かバスを見送った。乗客が駅へと去っていくのを眺めていくと、後ろから声をかけられた。
「佐倉!」
どきりと心臓が跳ねる。毎日聞いていたはずの声なのに、呼ばれる名前がむず痒い。振り向くと、彼が立っていた。あの頃と、何も変わらない。でも、制服でないのが、少し違和感。
「佐倉陽菜、久しぶりだな」
「…いや、何でフルネーム?」
「下の名前も知らないって、お前が怒ったんだろ」
後輩はニッと笑った。そんなことも、あったかしら。
「私もちゃんと覚えてるよ。一彰。萩野一彰」
顔を指さして言うと、一彰は満足そうに頷いた。
「…よし、早速移動するか」
そういうと、一彰は、さっさと進んでいく。
気構えていたよりもずっとスムーズに再開ができてホッとしつつ、陽菜は一彰と並んだ。
少し見上げると、一彰のほほに汗が伝うのが見えた。
「私の名前」