陽菜(はるな)は店に入ると、いつものカウンター席ではなく、今日は窓際一番奥のテーブル席に向かった。一彰(かずあき)が座って本を読んでいる。
「お待たせ」
向かい側に座りながら、陽菜が声をかけると、一彰はすぐに本を閉じて机の端に置いた。真っ赤なハードカバーはとてもよく目立つ。
「わ、懐かしい。ミヒャエル・エンデ」
「家にあったから読んでみようと思って。読んだことある?」
「勿論、有名どころだもん、その辺はだいたい小学生の頃に履修済」
そんな世間話を交えつつ、陽菜はパフェを注文した。季節限定のパフェは、店主の綾(あや)のおすすめで、近所の農家さんから仕入れたいちごを使っている。いちごの季節ももう終わるので、在庫限りだそうだ。
「児童書とか、読むんだね、意外かも」
「うーん、まあ、今まで触れてこなかったのは、確かだけど……子どもっぽい?」
「ううん、大人になって読んでも面白い児童書はいっぱいあると思う」
ブラックコーヒーとの組み合わせは珍しいかもね、と陽菜が言うと、実は砂糖が入ってます、と一彰は小声で答えた。
久しぶりの再会から、数ヶ月。二人は、都合が合えば月に一回ほど会うようになった。学生時代とはまた違う、だけど、お互い心地よい距離感で、時間を過ごしていた。
「一彰でも、子どもっぽいとか、そういうの、気にするんだね」
「しますよ、俺だってね。あんたの前ではカッコつけたいって思うわけ」
不意な言葉に陽菜は一彰の顔をパッと見上げると、一彰も驚いたような顔で、ふいっと窓の外を見た。
「いや、今のは……ナシで……」
陽菜が急に喉が渇いて、お冷をぐっと飲んだところに、綾がパフェを運んできてくれた。
「お待たせ〜、どうぞ」
綾の背中が遠ざかるのを確認してから、陽菜は言った。
「そんなこと、高校の時は、なかったじゃない」
「や、スルーしてくれよそこはよ」
「自分の意見はちゃんと持ってて揺るがないみたいな」
一彰は、うーん、と相変わらず窓の外を見ながら口ごもる。陽菜は、沈黙に耐えかねてパフェを頬張った。
何度か天を仰いでから、観念したのか、ようやく一彰は前を向いた。
「俺は……あんたが、そういうとこがかっこいいって褒めてくれたから、そうなろうと思ってただけで、ああもう、みなまで言わせるなよ……」
熟したいちごは、とても甘かった。
#sweet memories
店の前の小さな花壇には、紫の花が咲いている。咲き始めた頃に名前を聞いたが、もう忘れてしまった。
建物の間からホースを引っ張ってきて、一彰(かずあき)が花壇に水をやると、花の中から白い蝶が出てきて、逃げていった。
「あれ、一彰くん、今日出勤だっけ」
店主の綾(あや)が、買い物袋を両手に下げて帰ってきた。
一彰はホースの先を一旦花壇の脇に置くと、店のドアを開けた。カランコロンカラン…
「持ちますよ」と荷物を半分受け取って、キッチンへ向かいながら、一彰は話を続けた。
「午後休講になったんで、席空いてたら課題やらせてもらおうと思ってきたんすけど…」
「あら、それはありがたいわね、夜に急な予約が入って困ってたとこよ」
綾のしたり顔を横目に、一彰は苦笑した。
「同じこと、洋介(ようすけ)さんにも言われたとこです」
その洋介はへへへ、と笑い、こちらをちらっと見ただけで、仕込みをする手を止めず言った。
「綾ちゃんおかえりー、今のうちに休憩しておいてね」
「洋介さんこそ、ちゃんと休んでよね、もう若くないんだからさー」
ここにいるのは場違いな気持ちがして、一彰はそそくさと店先へ出た。
カランコロンカラン……
ホースを片付けようと伸ばした手の先から、今度は2匹蝶がひらひらと踊るように飛んでいった。
二人みたいだな、と思いながら、一彰はしばらく蝶を見送っていた。
#モンシロチョウ
ドアが開いて、閉まって、電車はまた走り出した。
今電車に乗っているのは、学校の制服のお兄さんと、眠そうなスーツのおじさんと、大きなリュックのお姉さんと、僕で、全員。
お兄さんのイヤホンから漏れた音楽が、電車が揺れると、聞こえたり聞こえなかったりする。多分知らない歌だ。
僕は、車両の一番前の席で、リュックを抱えるように座っていた。
乗った時は混んでいたけど、ほとんどの人がさっきの駅で降りてしまって、急に4人になってしまった。
もう抱えてなくても、荷物が誰かにぶつかったりしないけど、離したりしないように、しっかり持っていたかった。
車掌さんが次の駅の名前を言っている。僕はドアの上の路線図を探してから、いち、にい、……あと6駅、終点まであることを確認した。
電車はゆっくり止まった。でも、ドアは開かなかった。えっと思ったけど、お兄さんは音楽を聞いてるし、おじさんは寝てるし、お姉さんはぼーっと外を眺めている。
何事もなかったみたいに、電車が走り出した。ドキドキした。このまま電車を降りられなかったらどうしよう。もっと小さくなってリュックを守った。
目をぎゅっとつぶって、お母さんを思い出す。
僕が悲しかったりドキドキしたりした時、いつもお母さんは、両手を握ってくれた。
「悲しいことがあったら、その分あなたは優しくなれるのよ。怖いのは強くなれる証拠よ。毎日少しずつ、良くなっていくんだからね。明日が来れば、へっちゃらよ」
そう言ってお母さんは笑ったから、僕もそうだねって笑ったけど、ほんとは全然そう思えなかった。
だって、明日は来ないかもしれないから。今日はきたけど、明日は来ないかもしれない。お母さんだって、どんどん病気が悪くなってるのに、どこがへっちゃらなの?
言ったらお母さんが困るから、言わなかったけど。
とても長い間走っていた電車が止まって、僕はじっとドアを見つめたけど、またドアは開かなかった。
このまま車庫に連れていかれたらどうしよう!と、思っていたら、スーツのおじさんが慌てて立ち上がって、ドアのそばのボタンを押した。そのドアだけ、すーっと開いて、おじさんはそのまま電車を降りていった。
僕はびっくりして、ドアが閉まっても、電車が出発しても、しばらくそのボタンから目が離せなかった。
絶対に、最後の駅であのボタンを押さなくちゃ……
……そう思ってずっとボタンを見張っていたのに、終点では、ボタンを押さなくても全部のドアが開いた。さっさと、お兄さんとお姉さんが降りてしまって、ドアが閉まるんじゃないかと怖くて、僕も駆け出した。
改札の向こうで、おばあちゃんが手を振っているのを見つけて、僕は急に嬉しくなって、できるだけ大きく手を振りかえした。
#明日世界が終わるなら……
カランコロンカラン。
「ただいま!」
陽菜(はるな)が店のドアを開けると、常連客は、おかえりー、今日はどこいっとんたんや、宿題終わったんかー、と次々に声をかけてくれる。
陽菜はまっすぐカウンター席の一番奥の席に向かい、鞄を置いた。鞄から画用紙を取り出して、常連客のテーブルに混ざりに行く。
「自由研究で地図作ってんの!ね、おっちゃん達、おすすめのお店とか教えてよ」
と、得意げに画用紙を広げているうちに、お店の奥から綾(あや)が出てきて、お冷のグラスを陽菜の席に置いた。
「こらこら、ハルちゃん、お客さんの邪魔しないよ〜」
「ええよぉ綾ちゃん、ハルは俺らの孫みたいなもんや、休みのたんびにこうやって会えるんが、生き甲斐なんや」
「そうそう、賑やかでええわ」
そう言って、おじさんは陽菜の頭を撫でた。陽菜の方も、満更でもない顔で、わしゃわしゃされている。
「私もあるよ、生き甲斐!」
陽菜はカウンターに戻ると、お冷をぐいっと飲んだ。
「ぷはぁ〜、遊んだ後はやっぱり、お店のミント水が一番やね、生き返るわぁ〜」
わざとらしい方言と、満面の笑みに、皆が大笑いした。
#生きる意味
掴んだはずの赤い風船が空に飛んでいった。
手を伸ばして、確かに捕まえたと思った瞬間だった。
足が滑って、あっ落ちるなって、そう思ったのに、
気づいたら私は、元いた歩道橋の上に座り込んでいた。
「なにやってんだよッ」
怒鳴り声にハッとして私は振り返った。誰かが私を引っ張ってくれたんだ。知らない男の子が、同じく座り込んでいた。私を引っ張った時に一緒に転んでしまったらしい。
「正気かよ、こんなとこから身を乗り出したら、落ちるに決まってるだろ!」
そう言いながらも、彼は立ち上がって私に手を伸ばしてくれた。
「風船がそこの看板に引っかかって…届きそうだったから、取ろうとしただけよ、悪いことじゃないでしょ」
風船を離してしまった少年が下にいたはず…と、覗き見てみたら、もうどこにも見つからなかった。
「あらら、もう諦めちゃったのかな」
振り返ると彼は目を見開いて、息を呑んでいた。それからふーーっと息を吐いた。
「あんたが落ちてたら、その子は一生今日のことを忘れないぞ。恐怖と、後悔をずっと、抱えていくことになる。それは、悪いことじゃないのか」
彼の声は震えていた。握った拳も震えていた。私は少し考えて、言った。
「ごめんなさい、怖い思いさせちゃって」
彼は横に首を振った。
「それから、ありがとうございます、助けてくれて」
「わかってくれたなら、それでいいよ」
静かに呟くと、少し遠くにあったスクールバッグを拾って、もう一度戻ってきた。
「自分のことはもっと大事にした方がいい。良いとか悪いとか、そういうことの前に」
じゃあ、と、今度こそ彼は去っていった。
私は、ああいう人こそ、ほんとの善人なんだなと思った。
空にはもう風船は見えない。
私は彼とは反対の階段を降りる。
踏み外さないよう、ゆっくりと。
#善悪