「洋介さん、買い出し中なの。すぐ戻って来ると思うけど、先に何か飲む?」
「じゃあ…アイスココアがいいな」
逆上がりができた日、近所の子どもに意地悪をされて泣きべそで帰ってきた日、母が陽菜をここに預けて帰ってしまった日、高校受験に受かった日…
ことあるごとに、いつも叔母は作ってくれた。
少し砂糖が控えめで大人っぽくて、生クリームが混ざってフワッとしたした感触になるのが、たまらなく好きだった。
コトンと置かれたグラスは結露して、つーっと滴が一粒流れていった。
カウンター越しに叔母が笑う。
「私も好きよ、ココア。あったかい気持ちになるよね」
こんなに冷たいのにね。と陽菜も笑みを返した。
カランコロンカランとドアが開いて、陽菜はそちらに目をやった。
「おじちゃん、おかえりなさい」
「おっお、おかえり…!いや、ただいま!」
叔父は頭をかきながら調理場へ向かう。
カウンターの向こう側、2人が仲良く仕込みをするのを、陽菜はずっと眺めていられるなと思った。
カウンターの一番奥の席からは、調理場が見渡せる。
そこは、陽菜の特等席だった。
それは多分、叔父や叔母の方からも、調理場のどこにいても、陽菜と目が合うようにと、考えてのことだったのだろう。
陽菜は子どもの頃と同じように、大切に、ゆっくりと、ココアを味わった。
「視線の先には」
陽菜(はるな)は、日傘を畳んで、店の外観を見上げた。
カフェというにはレトロな外観、喫茶店と呼ぶにはユニークな内装。店名は「アストロカフェ」。
叔母の綾が、ご両親から受け継ぎ、趣味の天体観測をモチーフに改装したその店は、昔なじみの地元客と近くの高校・大学からの新規の客が共存している。
叔父の洋介は、婿養子。綾と陽菜は血縁関係にはない。
だから、彼女にとっては「祖父母の家」でもなく「実家」でもないが、夏休みの間はいつもここで過ごした。仕事で各地を飛び回る母に代わって、叔父夫婦は陽菜を預かってくれていた。
一呼吸置いてから、彼女はその扉を引いた。
カランコロンカラン、と、懐かしい音がする。
「いらっしゃい…あら、おかえりなさい」
綾が優しく微笑んだ。
ずっと心の中にあった寂しさが、考えないで押し込めていた不安が、ふっと、お腹の底から上がってきた。
「ただいま」
その一言がきっかけで、涙がじわじわと滲んでくる。
陽菜はグッと堪えて、隠すように、日傘を傘立てへさす。
「ハルちゃん、暑かったでしょう、どうぞどうぞ」
と、奥のカウンター席に、綾がお冷を置く。
14時、ランチは過ぎたがカフェの時間にはまだ早く、他にも客は居ないようだ。
「ありがとう、綾さん」
陽菜もニッと笑った。でもきっと、鼻の頭が赤いのは、綾にも分かっただろうなと思った。
スッキリとした香りのするミント水が、足の先まで行き渡ったような感じがした。不安や寂しさが流されていった。
ああ、私帰ってきたんだ。
私の席は、ここにあったんだね。
これまで、ずっと。それから今も。
「これまでずっと」
「えっ、待って、何で」
と、口に出してから、ハッとする。
乗客の視線にまたドキッとして、スマホをリュックに突っ込む。誤魔化すように降車ボタンを押した。
まだ会社の最寄りのバス停はもう一つ先だが、そそくさとリュックを抱えてバスを降りた。
バスを見送ってから、彼女はそっとスマホを取り出した。
それは間違いなく彼からの連絡である。
久しぶり。から始まるそのトーク画面を、彼女は開くことができない。
昨日の晩も、空っぽのその画面を、眺めていたはずなのに。
-こういう時は、体を動かすんだよ
それは昔彼女が彼に言った言葉だ。頭が止まっちゃったら体を動かすんだよ。そしたら頭がついてくるから。
もう一度スマホをカバンにしまってから、彼女は歩き出した。
さっきのバスが信号で止まっている。彼女が追いつく前に信号が変わってまた距離が開く。
出勤時間でももうジリジリと暑い。日傘をさす人も増えた。いくつもの車に、人に、追い越され、すれ違い…
考えるのをやめようって、昨日決めたばっかなのに。何で君はいつも、私を変えようとするのかな。
答えが出るわけもなく。彼女はいつものビルにたどり着いていた。自動ドアが開くと、汗ばむ額にひんやりとした風が心地よかった。
エレベーターの中で彼女はふぅっとため息をついた。
考えないと決めた。直感でいこう。
それから、ぱっとスマホを取り出して、くだんのトーク画面を開く。絵文字もスタンプもない、そっけない文章が飛び込んでくる。
「久しぶり。
洋介さんの店でバイトさせてもらうことになったんだ。
最近会ってないけど元気にしてるのか?
帰ってこいよ。たまには。」
あんたは親戚のおっちゃんか!そこはあんたの家ではないし、私の実家でもないけど!ほんで、あんたがいたら余計に帰りにくい!私より私の親戚と仲良くなってんの何なの!
ひとしきり心の中でツッコミを入れたのち、大きく息を吸って、怒涛の速さで返信した。
「久しぶり。私に会いたいなら素直に会いたいと言えばいいのに。繁忙期が終わったら遊びに行くね」
それから、通知をオフにした。
これ以上は今日は無理だ。
キャパオーバー。
お仕事モードの笑顔に切り替えて、エレベーターを降りる。
「おはようございます〜」
今日も1日頑張ろう。
「1件のLINE」
店内が落ち着いたのを見計らい、店主の洋介は外へ出た。メニューの看板を、ランチ用からカフェ用にひっくり返す。通行人の多くが、傘を持っている。
店内に戻ると常連のサラリーマンが会計中だった。
「雨もう降ってる?」と尋ねられ、洋介は「まだ濡れずに帰れそうですよ」と返した。
日が暮れる前に降り出す予報だが、今はまだ雲もまばらである。
会計が終わった客を見送ってから、レジを打っていた妻の綾が言った。
「今夜は会えないね」と織姫と彦星のことを言っているらしい。「わざわざ梅雨の時期に約束しなくたっていいのに」
毎年この時期にはレジ横スペースに、笹飾りと短冊を用意している。店の近くには高校や大学がある。乗り気で願い事を書いて飾ってくれる学生もおり、笹はずいぶん賑やかになっていた。
「レポート間に合いますように」
「夏のレギュラー入れますように」
「無くした自転車の鍵見つかりますように」
「今年も一年健康で」
「どうぶつえん え いけますように」
たくさんの願い事を眺めながら、姪が小さかった頃のことを思い出す。
出張や転勤の多い姉の子を、夏休みの間、よく預かっていた。子どもを授からなかった洋介と綾は、姪を自分の娘のように可愛がった。
母親と離れて寂しかったろうに、姪はいつもニコニコ笑っていた。姪は毎年「〇〇になれますように」と、その時の夢を書いていた。
姪は去年一般企業に就職して、最近も忙しくしているようだが、それが彼女のしたかったどの仕事でもないことは知っていた。
姪が短冊に願い事を書かなくなってから、洋介は密かに「ハルちゃんの夢が叶いますように」と、短冊をかけている。
「来年は、晴れるといいね」
ドアベルが鳴って、客が入ってきた。
笹がさわさわと、優しい音を立てた。
「七夕」
コンビニで買った弁当を小さなテーブルで1人食べながら、「友達リスト」を下に下にとスワイプする。
ほとんどが高校の知り合いからで、その数も多くはない。
母は転勤族で、小さい頃は各地を転々としていた。2年住めば長い方。高校は転校したくないと、以降は、喫茶店を営む叔父夫婦の家に居候させてもらった。
その後も続いた引越しの中で、卒業アルバムの類は紛失してしまったらしい。そうでなかったとしても、多分今後も見返すことはなかっただろうけど。
遠足で行った動物園、学校帰りによく立ち寄った駄菓子屋、それがどこだったのか、いつのことか、思い出せないのは疲れて眠いからだろうか。
今思えば、どの場所でもそれなりに楽しくすごしていた。
でも、一番楽しかったのは、やっぱり高校だったな。
あの頃、最も長く時間を過ごした、彼の名を、そっとタップした。
機種変更をしたから、当時のやり取りは全て消えてしまった。
卒業してから、一度も連絡をしていない。
今更、何を言えばいいのか。
スマホを置いて、忘れていた食事を再開する。
彼は私にとっては、1番の親友だった。
その言葉を、お茶と一緒に飲み込んだ。
「友達の思い出」