瞼の向こうがまぶしくなって私は目を覚ました。最初に視界に入ってきたのは見知らぬ天井だった。ぼんやりした頭を回転させて記憶を呼び起こす。「思い出した。ここは山の中のコテージだ。記憶に靄がかかっているような感じがするのは昨日散々お酒を飲んだからだ。」そこでようやく意識がはっきりして辺りを見回す。そこには昨日一緒に騒いだ友人たちが静かに眠っていた。最後に時計を見たのは2時だっただろうか。手元のスマホに視線を落とすと9時30分を示していた。あれだけ地獄の登山となった後に浴びるほど酒を飲んだのだ。まだしばらくは誰も起きてこないだろう。そこまで考えた私は朝風呂に入るための準備を始めた。誰も起こさないように静かに。
鞄から着替えとタオルを取り出していると鳥たちのさえずりが聞こえてきた。昨日の午後ここにたどり着いてからは全く聞こえなかったのだが、私のわずかな衣擦れの音が響く以外は静寂に包まれている今のこの部屋には良く通った。しばらくその音色に耳を傾けていた私は、再び瞼が重くなってきたのを感じて慌ててかぶりを振った。「お風呂に入って目を覚まそう。」そして私は着替えとタオルを持って部屋の外へと歩き出した。「願わくば次に起きた誰かが、あの小鳥たちの声を聴けますように。」そんなことを考えながら。
別れ際はどうしても不安になる。だから私は誰かと出かけるときは、できる限り長時間一緒にいたい派だ。「また明日ね。」たったそれだけの約束が果たされないことを知っているから。
友人が入院しておよそ一か月が経過しようとしていたあの日、私はお見舞いのために彼女のいる病室を訪れていた。いろいろな話をした。私自身の近況から始まり、退院後に行きたい場所や食べたいものなどたわいもない話をして盛り上がった。帰り際「また来るね。」と言って病室を出た。ここまではいつも通りだった。
翌朝、一本の電話がかかってきた。「彼女の容体が急変した。」とのことだった。慌てて駆け付けたところ、すでに意識はなかった。絶望に打ちひしがれている私のそばで容体が悪化していることを告げるアラートが無情にも鳴り響いていたことは今でも忘れられない。その後、ずっと声をかけ続けたものの、ついぞ彼女からの返事はなかった。そして最後は食事を摂るために短時間離席した間に、再び容体が急変して彼女は旅立ってしまった。最期の瞬間に立ち会えなかったこと、そして回復することを信じてかけられなかった言葉があることが今でも私の胸を縛り付ける。当たり前が当たり前である日、それはいつまで続いてくれるのだろうか。
あ、雨だ。そう思う間もなく急に本降りになった。周りの人たちがカバンを頭の上にかざして慌てて駆けていく。そんな中私は1人何もせずただぼんやりと歩いている。髪が濡れ服が重くなり靴に水が溜まっていく。周りの人から奇特な目で見られながらも特にあてもなく歩いていく。
今日は第一志望校の合格発表の日だった。電車を乗り継いでたどり着いた学校の掲示板に私の名前はなかった。名前がないことがわかった時、私は思わず走り出していた。個人的には自信はあった。自己採点は過去最高だったし、面談も手応えはあった。でも、駄目だった。何もかもが嫌になったものの、死ぬのは怖かった。だから私は今迷い子のように歩いている。土地勘がないのもちょうど良かった。何を気にするでもなく歩いていくことができる。
5分ほどそのまま歩き続けただろうか。喉が渇いて目の前にあった喫茶店に立ち寄った。結論から言えばこの選択は正しかった。小さな個人経営のマスターはびしょ濡れでやってきた私を拒むでもなく受け入れてくれた。タオルで拭いたあとオススメだというオリジナルブレンドを片手にしばらくの間話し続けた。彼は時に相槌をうち、ときに自分の体験を話してくれた。たった1杯のコーヒー分の時間だったが気分はだいぶ持ち直した。お会計を済ませたあと彼は言った。「あなたの人生はまだまだ長い。これがあなたの進むべき道だったと思ってその道で頑張りなさい。またのご来店をお待ちしております。」
私はお礼を言い、店を後にした。「また来よう。」あれだけ降っていた雨はあがっていた。
『窓の外の景色』
電車の窓の外を景色が流れていく。私は普段電車に乗ってもスマホを触るかウトウトするかのどちらかでしかないことがほとんどなのだが、たまにぼんやりと車窓の向こうに見える景色を眺めることがある。するとたいてい何かかしらの発見があるのだ。あのお店気になるなとなって後日訪れたら隠れた名店だったこともある。普段見ることがないのだからそれも当たり前なのかもしれない。
とはいえ、私はこのスタイルを変える気はさらさらない。たまたま見つけるからこそ喜びがひとしおとなるというのもあるが、それ以上に普段の生活スタイルが影響している。毎日30分ほど同じ道を歩く生活をしているのだが、いつからか景色と信号を結びつけるようになってしまったのだ。この木を越えた時点で青なら間に合う。この自販機で赤になったのなら信号に着くころにはちょうど青に変わるなどどう考えても情緒もへったくれもない思考である。それが一度電車の窓から見える景色に波及しかけたことがある。この建物を通り過ぎたのが子の時間か、なら定刻通りに運行しているななどと考えてしまった瞬間普段使う路線では二度と意識して外は見ないと誓った。これからも偶然の出会いを楽しんでいきたい。今日も電車の窓の外を景色が流れていく。
『秋🍁』
秋は私を複雑な気持ちにさせる。あの日、私たちの努力は報われた。絶対に金賞を取ろうと意気込んで全力で練習した応援合戦で私たちのクラスは見事に金賞を掴み取った。あの時の体育祭は今も色濃く私の記憶に焼き付いている。あの日、私たちの努力は実らなかった。毎日必死に練習を積み重ねて臨んだ合唱コンクール、私たちのグループは呼ばれなかった。後から2曲あった課題曲のうち、私たちが選ばなかった方の課題曲を選んだ3グループがすべての賞を独占していったことを知った。審査員の趣味嗜好によって努力が否定されてしまったのだと私たちの怒りと悲しみは収まらなかった。
あの日、私は仲の良い友人たちと出かけた。昼間は観光をして美味しいものを食べ歩いた。そして夜は広いコテージに泊まりBBQをしたりゲームをしたりして遅くまで騒ぎ続けた。私の最も楽しかった旅行だ。あの日、私は修学旅行で些細なことから仲違いしてしまった。周りの友人のとりなしも振り払ってしばらくは対立してしまった。私自身はまだ良いが、関係のない班員の思い出に泥を塗ってしまった。私の一番失敗した旅行だ。
秋は涼しくなり行事が増える。良い思い出、そうじゃない思い出、そのすべてが秋風に吹かれていると思い出される。今年も様々な思い出をのせて秋めく
『ジャングルジム』
幼い頃好きだった遊具にグローブジャングルという球状のジャングルジムが存在する。外側に取り付いて親にゆっくりと回してもらったり、中に入って中心にある台座を回し、セルフで高速回転させたりするのがとても楽しかった。そんなに頻繁に遊園地に行けるわけではなかった子ども時代の私にとって、コーヒーカップの代わりとして疑似的に遊園地のアトラクションを体験できる遊具として頻繁に遊んでいた。
そんなグローブジャングルだが、現在ではほとんどその姿を消してしまった。老朽化してしまったという側面もあるだろうが、やはり一番大きいのは安全面だろう。回転している状態の時に触れば、子どもは弾き飛ばされてしまうことはわかりきっていたし、回転中に掴まっていられなくなってしまったら、遠心力によって吹っ飛ばされてしまうこともあるだろう。そんな理由があって撤去されてしまうというのはよく分かる。だが、やはり幼いころの思い出がなくなってしまうような感じがして寂しさを覚えたことも否定できない。もう一つの消えてしまった遊具である遊動木とともに、いつかまた巡り合いたいものである。
『形のないもの』
どれだけ大切なものであっても、形がある限りはいつか壊れてしまう。使い続けて耐久力がなくなってしまったり、不注意で落としてしまったりと原因は様々であっても壊れてしまったという事実は変わらない。「物ならまた買えばいいじゃないか。」という人もいるだろう。もちろん、それも一つの考え方だ。ただ、似たものは手に入っても100%同じものは手に入らない。商品名としては同じでも、使い続けていくうちについたわずかな汚れや傷は存在しない。むしろ同じ商品であるからこそ感じる違和感もあるはずだ。それにサイン入りであったり、限定生産品だったりと同じ物を手に入れることすらほぼ不可能なものも存在する。
だからこそ私は一つ一つのことを忘れないように記憶に刻み込む。形のないもの、思い出ならば私自身が忘れてしまわない限り、いつまでも変わらないものとして残り続けてくれるからだ。スペースも取らないし、いつどんな場面でも触れることができるというメリットまで存在する。だから私は今日もどこかへ足を運ぶ。思い出を作るために。