『神様が舞い降りてきて、こう言った』
終業式直後の校庭。桜の木が、青々とした葉を風になびかせている。その下で、私と中道は並んで立っていた。
伝えたいことがある、と言って私を呼び出したのは、中道だった。普段の中道はまるで存在感のない平凡な同級生の一人だったので、私は彼の妙に真剣な目つきに困惑を覚えた。もしかして、告白でもされるのだろうか。そんなわけがないと、私は自分の甘い考えを即座に否定した。私は中道以上に地味で、顔や体型も、周りから馬鹿にされる部類だ。クラスのリーダー格の女子である高山さんにも、学校の恥、と堂々と言われてしまう有り様なのだ。
「俺、実は神様なんだ」
唐突に、中道が言った。私は眉を寄せて中道を見つめ返した。
怪訝な顔をしている私に対して、中道は余裕の表情をしていた。そして、すうっと視線を校庭の中央辺りに移し、呟くようなトーンの低い声で言った。
「修行の一環として、この地に舞い降りた。だから、みんなのことは何でもわかる」
古典の授業で習った、現世は仮の宿りであるという思想が頭に浮かんだ。そういえば、中道の家は小さな寺院だ。
「神様が、お寺の子に生まれるの? 矛盾してない? お寺の子って、矛盾を嫌いそうなイメージがあるんだけど」
皮肉を込めて私は尋ねた。中道は悪びれない様子で、顔をくしゃっとさせて笑った。
「矛盾してるよ。だけど、矛盾と悟りは紙一重だとも言える」
何かの本で読んだことがある気がする。いつ、どこで読んだのかは記憶にないけれど。
「野木さん。よく聞いて」
笑顔から一転して、真面目な顔になった中道が私の名前を呼び、言う。
「野木さんは、みんなが言っているような人間じゃない。学校の恥だなんて、とんでもないよ」
「どうして急にそんなこと言うの?」
戸惑い気味に尋ねた私は、中道の次の言葉で頭の中が真っ白になった。
「俺は何でも知ってるから。野木さんが信じられないくらい頭のいい人だってことも、高山さんがそれを妬んで悪口を言いふらしてることも。高山さんは愚か者だよ。野木さんを蹴落とした所で、自分に本質的な学問の才能がないという事実を変えることはできないんだ」
「どうして、私の成績を知ってるの? うちの学校、成績は非公開なのに」
「俺は神様だから」
やはり悪びれない様子で、中道は言った。
***
人間をよく観察して、真理を学びなさい。
それが、うちの寺での教えだった。そんなことを決めたのは、もちろん住職である、俺の父親しかいない。
読経や説法をする父親の姿を見て育った俺も、その教えを忠実に受け継いだ。実際、地味で無害な人間を装って他の同級生たちを観察していれば、教室での力関係や個人の頭の良し悪しはすぐに把握できた。
宗門の私立高校に進学せず、公立の学校を選んだのは、下手に浄化されていない人間の姿をよく観察したかったからだ。
高校に入学してすぐ、俺は同級生たちの動きを観察し始めた。そこそこの進学校にも、不道徳な輩は一定数存在する。しかし俺が一番ショックだったのは、同じ教室の中心にいる高山さんがそういう不道徳な人間であったことだ。
自分に学問の才能がないことを棚に上げて、平然と他人を蹴落とし、狭い世界でしか通用しない優越感に浸っている。そんな高山さんが、なぜクラス内で幅を利かせているのだろう。
もやもやした気持ちを解消すべく、俺はスクールカーストの最底辺にいる野木さんに声をかけた。容姿がよくないというだけで、皆から馬鹿にされている野木さんは、実は学年でも上位の成績を誇る秀才だった。彼女ならば、俺の気持ちをきっと理解してくれる。
なぜならば、野木さんは俺にとって、本質的な努力を知っている神様だからだ。
『誰かのためになるならば』
六月のある朝、何となく鏡を見た時から、彼女は私の背後に立っていた。何を言うでもなく、澄んだ瞳で無表情に私を見つめていた。
その時の私は、遂に背後霊に憑かれたか、程度の感想しか持たなかった。理由はわからない。ただ、彼女はあまりにも自然に私の背後に現れたから、いちいち違和感を持つ必要性を感じなかったのだ。
私は、工場で機械部品の製造と検品の仕事をしている。細かい手作業は決して好きではなかったし、得意なわけでもなかった。でも、誰かがしなければならない仕事だ。この部品が誰かの役に立つことを想像しながら、私は日々、仕事に取り組んでいた。
毎日、鏡を見ると彼女がいる。無表情なくせに、瞳だけはやたらと綺麗な彼女。その澄み切った瞳に見つめられるたび、私は誰かを裏切っているようなやり切れない気持ちになる。いつしか私は彼女を恐れ、鏡を見ることを避けるようになっていった。自然に私の身支度はいい加減になり、化粧にも手を抜くようになった。
「葉月ちゃん。最近どうかした?」
八月に入ろうとしていたある日の昼休み。直属の上司である大山さんが、私に問いかけた。私は弁当の蓋を開けようとしていた所だったが、大山さんのやたらと心配そうな口調と顔に、何となく手を止めた。
大山さんは言う。
「前は気合い入れてメイクして来てたよね? でもここ数週間、ほとんどすっぴんに近いし、服装にもあまり気を遣っていないように見える。何かあったのかな? 悩みがあるようなら、こちらとしてもできるだけ相談に乗りたいんだけど」
「いえ。特に何もありません」
私は愛想笑いをして答えた。大山さんはさっぱりとした性格だ。いつもならば、ここであっさりと私を解放してくれる。
しかし、今日の大山さんはしつこかった。
「何もないの? 本当に? 前にここで働いてた子も、そんな感じだったんだよなぁ。最初は元気だったのに、段々と覇気をなくしていって、身なりに構わなくなってきたなと思ってたら、突然……」
大山さんが、それこそ突然に言葉を切った。私は反射的に尋ねた。
「突然、何があったんですか?」
「いや、彼女ね……」
少し逡巡した様子で大山さんは両目を泳がせたが、やがて観念したように言った。
「彼女、ノイローゼになって自殺しちゃったんだよ。彼女の写ってる写真、見る?」
***
今日も、鏡の中の彼女は私を見ている。相変わらずの真っ直ぐな視線が私を捉える。
目を逸らさず、私は彼女を見つめる。彼女は無言で私を見つめ返す。
誰かのためになるならば、と無理に言い聞かせて、私は好きでも得意でもない単純作業に時間を費やしてきた。他にやりたいことがたくさんあるにもかかわらず、自分の気持ちに蓋をしてきた。それを、彼女は見透かしていたのだ。
「塚本真由さん」
私は鏡の中にいる彼女の名を呼ぶ。今日、初めて彼女の名前を知った時から、こうすべきなのだと気づいていた。彼女に感謝の気持ちを伝えなければと思った。
「あなたは私を助けようとしてくれたんですよね? 私が本当にノイローゼで自殺してしまう前に、止めようとしてくれていたんですよね? ありがとう。私、自分の人生をもっと真剣に考えてみます」
塚本真由は何も言わなかった。大山さんが今日見せてくれた写真のままの綺麗な目で、私をただ見つめているだけだった。
『鳥かご』
「もういい! 徹の好きにすればいいじゃない!」
未久は今にも周囲の空気を一刀両断してしまいそうな鋭い金切り声で言い、僕が大事に抱いていた古い鳥かごを奪い取った。そして、それを思い切り床に叩きつけた。
長い喧嘩の最中。一瞬の出来事だった。金属が潰れる音とともに、錆びた鉄製の鳥かごは、フローリングの床の上で無残に壊れた。僕は血の気の引く思いで、それを見下ろした。
僕がまだ小さかった頃、鳥かごの持ち主は心臓発作でこの世を去った。彼女が大切にしていた鳥かごを、僕は形見に譲り受けた。
彼女の名前を、僕はそっと呟く。
「ママ……」
***
徹の背後には何かが棲んでいる。その何かは、徹が大切にしている鳥かごと関係がある。
幼い頃から、私は勘が鋭かった。中学生になった辺りから、それは一種の霊感のように私に何かを告げてくるようになった。大学を卒業し、図書館に勤務するようになってから、霊感に似たそれはますます強くなった。
徹とは、大学時代からの知り合いだ。勤勉な学生同士ということもあるのか、私たちは妙に気が合った。しかし、徹と私が男女の関係になることはなかった。
「僕は異性と深く係わることができないんだ」
徹の家に初めて招かれた時、息が詰まるくらい清潔な部屋で革張りのソファに体を沈めて、私は彼の話を聞いた。その時、徹は骨董品めいた鉄製の鳥かごを、遺骨でも扱うように大事に抱えていた。
「僕が小さい頃に、母がよく言っていた。たとえママが死んでも、どこへも行かないでねって。僕は約束したんだ。どこへも行かない。ずっとママのそばにいる」
「だから私とは付き合えないの?」
尋ねた私に、徹はさも当たり前のように大きく頷いた。
あれから二ヶ月が経った。今、私たちの間には壊れた鳥かごがある。私が徹から鳥かごを奪い、床に叩きつけて壊したのだ。
こうするしかなかった。徹が母親からかけられた呪いは、こうすることでしか解くことができなかったのだ。
「ママ……」
徹が呟き、壊れた鳥かごに震える手で触れる。一つ一つの部品をゆっくりと拾い集め、やがて徹は深い溜め息をついた。私は無言で見守っていた。理解してもらうことは不可能だ。元から空っぽだったこの鳥かごの中に、私が何を見ていたのか。そんなこと、現実主義者の徹には到底理解してもらえないだろう。
私は唇を噛み締め、黙って部屋を出た。徹は追いかけてはこなかった。
でも、きっと私がいなくても徹は幸せになれるだろう。母親によって鳥かごの内部に囚われていた徹の自立心は、たった今、解き放たれたのだから。
今度こそ、徹が自由になれますように。
私は心から願った。壊れた鳥かごから飛び立つように出ていった、青緑色をした光の玉が、今も目の奥に焼きついていた。
『友情』
友達でしょ、という言葉が嫌いだった。友達という言葉を盾にして、誰もが私を自分の思い通りになる家来として扱おうとするからだ。だから私は、友達という言葉が嫌いであり、友達という言葉を信じられない。
四月初旬。私が働いているアトリエに新しいスタッフが入った。長らくスーパーマーケットでレジ打ちをしていたという、その女性は私よりも二つ年上だった。職場の人間関係に悩んだ末、転職を試みたのだそうだ。
「香山さんっていうんだね。高貴そうな名前でいいなぁ。私なんて小田だよ。ちっぽけで平凡な名前だよね」
出会って数十分後に、もう彼女は先輩の私にタメ口を利いていた。相手の方が年上なのだから許してやろうか、と思う弱気な自分がいる一方で、何と図々しい人なのだろうと憤る自分も、私の頭の中には確かに存在していた。
もやもやした気持ちを抱えたまま、私は小田さんと一緒に働くようになった。
一ヶ月ほど小田さんを観察していて、気づいたことがある。小田さんは意外と腕力や持久力があるのだ。
絵の搬入作業をしている時、小田さんの両腕には立派な力こぶができる。スーパーのレジ打ちをしていただけの人になぜ、こんな筋肉があるのだろうか。私がそのことを尋ねると、小田さんは豪快に笑いながら言った。
「私が働いていたスーパーには、お年寄りのお客様が多かったの。年を取ると頻繁に買い物をするのが面倒になるらしくて、一度にたくさんの品物を買っていかれる方が大多数なんだよね。だから、食料品で一杯になったカゴを、カートに乗せてあげるんだけど、これがひどく重いんだ。気づいたら、こんな太い腕になっちゃって。色気の欠片もないよ」
もしかしたら、この人は人間関係に悩んだのではなく、重い買い物カゴを運ぶのが嫌だったのではないか。
変な疑念が浮かんだ所で、小田さんは私ににやりと笑いかけた。
「だから、私は腕力にだけは自信があるの。重いものを運んでほしい時にはすぐ言ってね。私が代わりにやっておいてあげる。私たち、友達でしょ?」
あれ? と私の心に住む別の私が小首を傾げた。
今、小田さんは私の一番嫌いなセリフを口にした。それなのに、全然嫌な気がしなかった。
友達でしょ、の使い方も、今まで出会ってきた人たちとは真逆だった。
大した意味はなかったのかもしれない。でも小田さんの言葉は、今まで散々裏切られてきて捻くれてしまった私の心の中に、すうっと入ってきた。何か裏があるのかもしれないと、私は窺うように小田さんの顔を見た。だがその表情は至って無邪気なものだった。
「私ね、前の職場でほとほと嫌気が差したんだ」
小田さんが不意に呟いた。
「みんな友情を何だと思ってるんだか。友達でしょ、なんて言う人は結局、相手を自分の思い通りに動かしたいだけ。だから、その時は味方でいてくれるようなことを言っても、すぐに裏切る。私はそういうのが嫌になったんだ」
「私もです」
思わず、私は言った。
「言う通りにするなら、なんて。そんな条件つきの友情なんか、私はいらない。だから、そういう人たちと係わらなくていい場所で働きたかったんです」
私たちは案外、気が合うのかもしれない。無意識のうちに笑みがこぼれた。小田さんも笑っていた。
『花咲いて』
「本当に、咲乃の頭の中はお花畑だな。甘々の恋愛小説ばかり読んで」
口を開けばいつも夢見がちなことばかり言っている中学一年の妹に、僕は指摘する。妹は、ぷうっと膨れた。膨らみかけたチューリップの蕾のように、薄いピンク色の頬が丸くなる。
「お兄ちゃんだって、異世界ものばっかり読んでるじゃない。それと同じだよ」
何が同じなのかはわからないが、妹にとっては正当な反論であるらしい。
可愛くない奴。僕は、ふっと妹から目を逸らして机に向かい、生物の教科書に視線を落とした。妹がまだ何か騒いでいたが、教科書に記されたメンデルの法則に意識を向け、雑音をシャットアウトした。
好きな小説のジャンルがどうこうという平和な論争を交わした一ヶ月後、妹は好きな男子にふられた。そしてショックから部屋に閉じこもり、一言も話さなくなってしまった。
妹はこの世界との間に、分厚いガラスの壁を築いてしまったのだ。それは簡単に壊すことができない繊細な造りをしていた。無理に叩き潰せば妹の命を奪ってしまうかもしれない。僕も両親も、これまでとは打って変わって妹に気を遣い始めた。腫れ物に触るような扱いを続けていたものの、妹はより一層心を閉ざしていく。どうしたらいいのか、僕たちは判断がつかず、ただそっとしておいてやることしかできなかった。
あれから約半年。十二月も半ばに差しかかった薄曇りの日。白い息を吐きながら歩いていた僕は偶然、道の端に小さな花屋を見つけた。
そういえば、妹は花が好きだった。近所の土手に咲いていた菜の花やコスモスを摘んで、よく押し花を作っていた。妹の机の引き出しには今でも、その時の押し花で作った栞が大量に仕舞い込まれているはずだ。そんな記憶が蘇ってきて、僕は花屋に足を踏み入れていた。
店の中は狭く、バケツに入れられた切り花が所狭しと並んでいた。ぼんやりと、僕は店の奥へ進む。サボテンの並ぶコーナーまで来て、何とはなしに僕は足を止めた。妹が小学生の頃に好んで聴いていた歌の内容を、不意に思い出す。
「このヒロイン、可哀想なんだよ。でも、囚われのヒロインって憧れるなぁ」
そんなことを言いながら、にやついていた妹。今はその笑顔を見ることもなくなったけれど。
あの歌が頭の奥で流れ始める。気がつくと、僕はサボテンを一鉢購入して店を出ていた。
サボテンは一年の間でも、滅多に花をつけないと聞いたことがある。そのため、サボテンの花が咲くことを奇跡のように考える人もいるらしい。このサボテンがもし花を咲かせたら、妹の閉ざされた心は開くだろうか。蝉の抜け殻のように空っぽになってしまった妹が、再び笑う日はくるのだろうか。
信じてみようと僕は思った。サボテンが咲く日を、そして妹がもう一度明るさを取り戻す日を、ずっと信じたまま近くで見守ろうと思う。
そう。あの歌の主人公のように。