七星

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『誰かのためになるならば』

六月のある朝、何となく鏡を見た時から、彼女は私の背後に立っていた。何を言うでもなく、澄んだ瞳で無表情に私を見つめていた。

その時の私は、遂に背後霊に憑かれたか、程度の感想しか持たなかった。理由はわからない。ただ、彼女はあまりにも自然に私の背後に現れたから、いちいち違和感を持つ必要性を感じなかったのだ。

私は、工場で機械部品の製造と検品の仕事をしている。細かい手作業は決して好きではなかったし、得意なわけでもなかった。でも、誰かがしなければならない仕事だ。この部品が誰かの役に立つことを想像しながら、私は日々、仕事に取り組んでいた。

毎日、鏡を見ると彼女がいる。無表情なくせに、瞳だけはやたらと綺麗な彼女。その澄み切った瞳に見つめられるたび、私は誰かを裏切っているようなやり切れない気持ちになる。いつしか私は彼女を恐れ、鏡を見ることを避けるようになっていった。自然に私の身支度はいい加減になり、化粧にも手を抜くようになった。

「葉月ちゃん。最近どうかした?」

八月に入ろうとしていたある日の昼休み。直属の上司である大山さんが、私に問いかけた。私は弁当の蓋を開けようとしていた所だったが、大山さんのやたらと心配そうな口調と顔に、何となく手を止めた。

大山さんは言う。

「前は気合い入れてメイクして来てたよね? でもここ数週間、ほとんどすっぴんに近いし、服装にもあまり気を遣っていないように見える。何かあったのかな? 悩みがあるようなら、こちらとしてもできるだけ相談に乗りたいんだけど」

「いえ。特に何もありません」

私は愛想笑いをして答えた。大山さんはさっぱりとした性格だ。いつもならば、ここであっさりと私を解放してくれる。

しかし、今日の大山さんはしつこかった。

「何もないの? 本当に? 前にここで働いてた子も、そんな感じだったんだよなぁ。最初は元気だったのに、段々と覇気をなくしていって、身なりに構わなくなってきたなと思ってたら、突然……」

大山さんが、それこそ突然に言葉を切った。私は反射的に尋ねた。

「突然、何があったんですか?」

「いや、彼女ね……」

少し逡巡した様子で大山さんは両目を泳がせたが、やがて観念したように言った。

「彼女、ノイローゼになって自殺しちゃったんだよ。彼女の写ってる写真、見る?」

***

今日も、鏡の中の彼女は私を見ている。相変わらずの真っ直ぐな視線が私を捉える。

目を逸らさず、私は彼女を見つめる。彼女は無言で私を見つめ返す。

誰かのためになるならば、と無理に言い聞かせて、私は好きでも得意でもない単純作業に時間を費やしてきた。他にやりたいことがたくさんあるにもかかわらず、自分の気持ちに蓋をしてきた。それを、彼女は見透かしていたのだ。

「塚本真由さん」

私は鏡の中にいる彼女の名を呼ぶ。今日、初めて彼女の名前を知った時から、こうすべきなのだと気づいていた。彼女に感謝の気持ちを伝えなければと思った。

「あなたは私を助けようとしてくれたんですよね? 私が本当にノイローゼで自殺してしまう前に、止めようとしてくれていたんですよね? ありがとう。私、自分の人生をもっと真剣に考えてみます」

塚本真由は何も言わなかった。大山さんが今日見せてくれた写真のままの綺麗な目で、私をただ見つめているだけだった。

7/26/2024, 12:02:13 PM