『遠くの声』
河川敷の遊歩道は、今日も閑散としていた。僕は、あの日以来姿を消してしまった彼女のことを思い出しながら、川面を見つめていた。
彼女の名前を小さく呼ぼうとして、襲ってきた鈍い頭痛に顔をしかめる。この所、いつもこんな調子だ。彼女の顔や名前を思い出そうとするたびに、決まって頭痛が起きる。まるで何者かが、僕の回想を咎めているかのように。
遠くで声が聞こえた。まだ幼い少女が、母親の姿を探して泣いている。
「ママ、ママ……どこにいるの? 置いていかないで」
遠い昔に亡くなった母親のことを、僕は思い出す。病床にあった母と約束したことも。
「ママ。僕はどこにも行かないよ」
幼かった自分の声が急に、耳の奥に蘇った。
もう一度、記憶の糸を手繰る。行方知れずの彼女に関する記憶を、ほぐすように探ってみる。彼女とは、友達以上の関係だった。図書館で出会い、意気投合して何度か会ううちに、僕たちは親しくなっていったのだ。
彼女を家に呼んだのは、当然の成り行きだった。まだ肉体関係には至っていなかったが、僕は彼女ともっと親しくなりたかった。そして僕は、大切にしていたアンティークの鳥かごを彼女に見せた。そして……
この後の記憶はない。すっぽりと抜け落ちている。なぜ記憶が抜け落ちたのかはわからないが、恐らく彼女と僕は何らかの諍いをして、別れることになったのだろう。実際、彼女にまつわる記憶はこの時を最後に、ぷつりと途切れている。
失恋のショックで記憶が抜け落ちる、か。
自分の女々しさに、思わず笑いが込み上げた。
迷子の少女は、まだ泣いている。
「置いていかないで。ママ、ママァァァ!」
その時。
急に背中の辺りが強張ったような気がした。ぞくっと、悪寒が背骨を撫でるようにして首筋へと駆け上がっていく。
耳の奥で、か細い声がした。
「徹。私のことを忘れないで……」
ざらざらした細い声は紛れもなく、僕の母親のものだった。死の直前、幼かった僕の手を握りながら何度も何度も、念を押すように同じ言葉を繰り返していた母の声だった。
耳の奥。それよりも遠い所で、別の声がする。芯の強そうな、真っ直ぐで綺麗な声だ。
「負けちゃ駄目。あなたは母親の亡霊に取り憑かれているだけなの」
その強い声音に、僕の記憶が僅かながら呼び覚まされた。
彼女の名前を思い出すことはできない。母親の亡霊により、封印されてしまっているからだ。でも、彼女がかつて僕の隣にいたという事実を消し去ることは誰にもできない。
あと少しで、思い出すことができそうなのに。
ぐっと顔を上げ、僕は亡霊への抵抗を試みた。うっすらと浮かび上がろうとしていた彼女のイメージは、しかし亡霊が放った次の一言で霧消した。
「約束よ」
僕は思い出す。どこへも行かないという約束を。
どうしたらいいんだ?
恐らく苦悶に歪んでいるであろう自分の顔を両手で覆いながら、僕は奥歯を噛み締めた。
少し離れた所。先ほどの少女の泣き声が、母親を見つけた喜びの声に変わっていた。
「もうどこへも行かないでね。置いていかないでね。約束だよ」
その声を捉えた途端、僕の耳から二つの声が消えた。閑散とした遊歩道に佇みながら、僕はただ呆然としていた。
『遠い約束』
修学旅行の夜に、沖縄のホテルで
また来ようねって約束した
そこは、ちょっと高そうな部屋で
私たち三人は、ベッドに寝そべりながら
大して意味もない話をたくさんしていた
あの頃は、未来を思い描くことに
何の疑問も持たず、生きていた
けれども今では、その未来があることを
心から有り難く思う
平穏な明日は、とても脆くて儚いもの
いつ消えてしまうかわからない
水の中に浮かぶ泡のようなもの
だからこそ、とても尊いもの
あの約束が果たされることはなく
私たちは疎遠になってしまったけれど
それぞれ違う場所で、それぞれのやり方で
生きていられたら、それでいい
明日には、なくなってしまうかもしれない
平穏な時間を大切に生きて、生きて
そして、もしまたどこかで会えたら
掘り炬燵に入りながら
温かいお茶でも飲みたいな
『フラワー』
私を花に喩えるならば
か弱げに咲く、紫のコスモス
弱そうに見えて、実は強い茎に支えられ
時には図々しく伸びていく
内に壮大な宇宙を秘めた、ミステリアスな花
私を花に喩えるならば
夏の庭に咲く、青い露草
踏みつけられて、ひしゃげた時も
黙って消えはしない
深い青の色を、誰かの心に強く刻む
人は、心の中にいくつもの花を持つ
そして、どれか一つには決められないまま
割り切れない世界で
割り切れない自分を生きる
誰にも決めつけられない、ひとつを持って
私を花に喩えるならば
どこにも存在しない、空想上の白い花
何色に染められても
必ず白に戻る、不思議な花
そしていつかは、誰かの余白を
その白で埋め尽くす
『新しい地図』
新しい地図を買った
真新しい紙の匂いに
少しだけ、心が浮かれる
新しい地図を片手に
今度はどこへ行こうか
桜の巨木がある場所
それとも、久々に海もいいかな
紅葉の綺麗な公園とか
白銀に染まった草原も素敵だね
そこで新しい誰かに出会って
楽しい話を聞きたい
私も、たくさん話すから
笑顔で聞いてほしいな
新しい地図の向こうに
いくつもの景色や人が見えてくる
人は空想することができる生き物
その分、傷つくことも増えるけど
傷ついた分、パレットの色は増える
新しい地図を広げて
新しく広がる風景を想像しながら
さあ、今度はどこへ行こうか
『好きだよ』
本当は、手を繋ぎたい
思いっきり抱き締めてあげたい
でも今は、近くにいて見守っている
むやみに触れたりしたら
きっと、あなたは傷ついてしまうから
いつだったか、あなたが家族から
強い口調で何かを言われてるのを見たよ
それでもあなたは、走り去る車に向かって
力なく微笑みながら手を振っていたよね
どんなきつい言葉をぶつけられても
あなたにとっては大切な家族なんだ
あなたは無口で繊細で優しい人
だけど、とっても芯の強い人なんだってことを
私は知ってる
ほどけかけた心が
また閉ざされてしまわないように
今日も私はあなたと目を合わせて
黙って微笑み合う
少しずつ、少しずつ
時間はかかっても
この距離が縮まりますように
あなたのことが好きだよ
ずっと味方だよ