『特別な夜』
一度だけ、家出をしたことがある。
あれは小学校二年生の冬休み。私は権藤の家に養子として入ったばかりだった。
家出の理由はただ一つ。私を児童養護施設に捨てていった実の両親が、本当に私のことを愛していなかったのか、確かめたかった。
信じたくなかったのだ。実の親に嫌われる子供が存在し、それがよりにもよって自分なのだということを、どうしても認めたくなかった。だから、自室に簡単なメモを残して、家を抜け出した。
結局、実の両親には会えなかった。手がかりも何もない状況下で、名前も知らない両親の居場所を突き止めることなどできるはずもなく、私は迷子になってしまった。警察に保護される一歩手前で、私のことを探しに来た養母に見つかり、家に連れ戻された。なぜか叱られることはなく、その夜は養母の提案で外へ食事に出かけることとなった。
その帰り道、満天の星空の下を歩きながら、養母と話をした。
「あんな所で何をしていたの?」
昔からグレートマザーの雰囲気を宿していた養母に、大らかな口調で尋ねられ、私は少し臆しながら答えた。
「パパとママが、私のことを本当に嫌ってるのかどうか、会って確かめようとしたの」
養母の表情が明らかに曇った。殴られると思った私は、体を縮めた。でも、施設にいた時とは違い、平手が飛んでくることはなかった。
「美影」
悲しみを滲ませたような小さな声が返ってきて、私は顔を上げた。目の前にあったのは、いつもと変わらない豪快で明るさに溢れた養母の顔だった。
私の頭を軽く撫でて、それから養母は優しく言った。
「美影のパパとママは、他人と違った存在を怖がってしまう弱い人間なんだよ。人間は弱い生き物だから、間違ったこともするし、自分の常識に合わない人間を排除しようともする。たまたま美影に、特別な才能があっただけなのにね。でも、美影のパパとママが絶対的に悪いわけじゃない。もし私が自分の持つ弱さを棚に上げて、美影の本当の家族を悪く言うとしたら、それは見当違いというものだよ。私だって、美影の強い霊感には最初は戸惑ったもの」
急に不安になった。私はまた捨てられるのだろうかという、仄かな恐怖が襲ってきて、思わず声を上げた。
「香緒里さん。私を捨てないで」
養母は、一瞬驚いたように両目を瞬かせた。そして唐突ににっこりと笑った。
「捨てるわけないじゃない。こんな可愛い子を。本当に、美影のパパとママはわかってないよ。美影には素敵な所が一杯あるのにね」
この時、私は知っていた。養母、権藤香緒里には里親としての豊富な経験がある。他の里子たちは皆、成人したり両親の元へ戻ったりしているらしい。ならば、なぜ私だけを養子として迎え入れたのか。
「香緒里さん……」
私がそれ以上何も言い出さないうちに、養母は遮るように告げた。
「私は、特殊な子が好きなんだよ。だから美影だけを養子にしたの。だって、特殊な子の方が毎日刺激があって楽しいじゃない? 私は何があっても楽しく暮らしたいの」
何となく星空を見上げてみる。一つ一つが光を放っていた。私も、星空の中にある一つの星のように、小さく綺麗なものでありたかった。しかし、養母と暮らすことで、その考えからいつか脱却していくのかもしれない。
霊感という厄介なものを持って生まれてしまったのだから、その厄介なものを背負って生きるしかないのだ。
「綺麗な星空だね。今夜は特別なことが起きるかもしれないよ。特別な夜に乾杯、ってね」
私の肩を軽く叩いて、養母は楽しそうに言った。
『海の底』
海の底に沈んだ船の中を探索していて死にそうになった人の再現ドラマを、かつてテレビで見た。その男性は自らの経験を最大限に活かして、結果として相棒とともに九死に一生を得たという。
未だに、そのドラマの内容や情景が脳裏に蘇ってくることがある。それはまさに、脳内にある海の底から浮かび上がってくるような、どこかおどろおどろしい雰囲気を持っている。明け方などに思い出そうものなら、私はたちまち全身が強張ってしまいそうな恐怖に襲われる。
もし金縛りに遭っている最中に、うっかりこのような恐ろしい情景を想起してしまったら、もう最悪である。掃除機をかけているような雑音が耳の奥で響き、たちまち息が苦しくなって、浅い呼吸を何度も繰り返しながら、金縛りが解けるのを待ち続ける羽目に陥るのだ。
ようやく金縛りが解けたとしても、寝た気がしないまま、下手をしたら生きた心地もしないまま、海底の泥のような重くぼんやりした意識に包まれることになるのは間違いない。
海の底というと、綺麗な熱帯魚や珊瑚、未知の生物などがいる竜宮城のような場所を思い浮かべる向きが多いと思うけれど、私が最初に思い浮かべたのは以上のような怖いイメージであった。
ああ……どうして、もっと明るいことを書けないのかなぁ、私は。
『美しい』
美しいものを思い浮かべる時、真っ先に浮かんでくるのは色の事典である。色の名前と由来なんかが書いてある、分厚い本。
色の事典を片っ端から見ていくと、当たり前のようで実は知らなかったことを、たくさん知ることができる。勿忘草の由来となった悲しい物語の内容も、私はここで知った。
この世界を構成しているあらゆるものが、色を持っている。ということは、万物には必ず物語があるとも言えるのではないか。
今書いているこの文章の文字も、黒という色を持つ。そして黒は一色ではない。漆黒、墨色、濡羽色、その他にも慣用色名では言い表せない、様々な黒がある。そして、様々な黒はそれぞれに、違った物語を持っている。
同じ人なんていないから美しい、という考え方が、だから私は結構好きであり、共感もしている。
そもそも人間というものは、カラフルな生き物なのだ。皆が違う名前を持ち、その名前にも由来がある。生い立ちもそれぞれ違い、各々が他とは微妙に違った物語を背負って生きていく。時にはいくつもの物語が干渉し合いながら、大きな流れを作っていく。
無彩色だって、有彩色と同様、色であることに変わりはない。無色透明にしか喩えられない人生も、無色透明という色なのである。
だから人生を、そして人間を大切にしたい。どんなに汚れて見えても、それはその人が持つ色であり、物語なのだから。
今、私にはどうしても好きになれない人がいる。半年以上、ずっと我慢してきたけれど、未だに憎たらしいという気持ちが消えない。
彼女の持つ色を、紡いできた物語を、いつか私も受容できるようになるのだろうか。美しいと、言えるようになるのだろうか。
答えは、まだわからない。
『この世界は』
この世界に生まれ落ちて、今まで生きてきて、一つだけ確実に理解したことがある。
それは、無知な自分に気付くことが、全てにおいて本当のスタートラインなのだということである。
私は一時期、通信制の大学に在籍していたことがあった。その時、膨大な量のテキストを読みながら、毎日のように感じていた。今まで色々なことを知ってきたけれど、私って何も知らないんだな、と。
日本文学のテキストに載っていた言葉を、今も朧げながら思い出す。この世界にはたくさんの本があり、しかし自分はその全てを読むことなどできないという事実に愕然とする、といった内容だ。人間の持ち時間に限りがある以上、読書量にも当然限界がある。私はこの先、あと何冊の本を読めるのだろうか。そんなことを考え、ぞっとしたことを覚えている。
けれども、物知りを気取っているような人たちも、きっと同じなのではないだろうか。当たり前のことだけれど、人間の知識にも必ず限界があるのだから。
自分が何も知らないと気付けたことで、私の見ている世界は幾分輝きと可能性を増した気がする。知りたいことが山ほどあるという事実によって、まだこの世界で生きていきたいと思える。それってきっと、素敵なことなんじゃないか。
自分は何でも知っている、と思ってしまったら、その時点で人は世界を探索する意欲を失う。そして自己満足の殻に閉じこもってしまう。まだまだ、この世界は新しいことに満ちているというのに。
私はもっと冒険したい。新しい世界を知りたい。そのために、これからも多くの経験をして、知識にも触れようと思う。
『どうして』
どうして、という視点が人生には必要だと、常日頃から私は思っている。
なぜなら、私の周囲には理解不能な言動をする人が多いからである。どうして、の視点を持たなければ、人を変人や低能という言葉で簡単に切り捨ててしまうことになりかねないのだ。
ある後輩の話をしよう。彼は目上の人に無理難題を吹っかけて、困らせる。その無理難題とは、例えば「免許なしで運転して」、「線路に寝転んで」、「切符持たずに改札通って」等々、とにかく無茶苦茶である。傍で聞いている私としても、ヒヤヒヤするし、できたらやめてほしいと思うのだが、彼はやめるどころか却って言動をエスカレートさせていく。
そこで、どうして、である。
彼はどうして、無意味で阿呆な発言を繰り返し、人を困らせるのか。
実は、彼は周囲に気を遣っている。周りの人たちを和ませたい、笑顔にさせたい、そういった一心で、自分の評価が落ちることも気にせず、つまらない冗談を口にし続けているのだ。
そのように考えると、不思議と彼のことが愛おしく感じられる。不器用な彼なりに、周りのことを考えてくれているのだと。まあ、そのやり方は私から見ればやはり、常識外れでズレているのだが。
どうして、という視点を持つことは、人に対して悪意を持ちやすい私の心の幅を、こんなふうに少しだけ広げてくれる。つまり、考えに余裕を持たせてくれるのである。
とは言っても、どうして、の視点だけでは到底理解できないレベルの人間もいる。
まだまだ私も修行中だ。