『風鈴の音』
その着信があった時、私は次の作品に使おうと描き溜めていたスケッチを整理していた。私以外誰もいないアトリエには、風鈴の音色と空調の雑音だけが優しく響いている。
スマートフォンの画面には、小田温子、と表示されていた。人の名前を覚えるのが苦手な私は数秒の後に、画廊のスタッフに確かそんな人がいたな、と思い出す。気さくというより、少々馴れ馴れしい印象だったな、ということも同時に想起される。でも、彼女と電話番号の交換をしたことは、すぐには思い出せないままだ。
「相原です」
電話に出た私が名乗った直後、小田さんの温かみのある声が聞こえてきた。
「相原千奈さん。お忙しい所、申し訳ないんですけど。ちょっと相談したいことがあるのよ。時間は取らせませんから」
敬語とタメ語の入り交じった話し方に、私は相手の微かな緊張を読み取る。
「以前うちであった合同展のことなんですけどね。あの時に、ひどく気になった来場者がいるのよ。相原さんの絵の前に立ち尽くしていて……というよりも、悲しい顔をして立ち竦んでいたと言った方が正しいかな。私、心配になって声をかけてみたのよ。それで、話をしていたらその男の子、急に泣き出しちゃったの」
何だか面倒な話になりそうだ。小田さんが面倒なことを言い出したわけでは決してなく、これは私が波乱に満ちた三十年の人生から得た、ただの直感なのだけれど。
「何歳くらいの子ですか?」
「高校生よ。あの制服は間違いなく……」
小田さんの口から出たのは、かつて私も憧れていた有名進学校の名前だった。私の従妹が現在通っており、試験の成績が振るわないなどと愚痴っている様子だと、十数年振りに会った叔母から聞いている。
小田さんは、感慨に浸るような寂しげな口調で言った。
「あんなエリート校に通う子でも、人前で泣いてしまうほどの悩みがあるのね」
それはそうですよ。私が昔通っていた大学なんて、エリート校の出身者が多かったけれど、そのほとんどがゾンビみたいな青白い顔して、無気力な自分を正当化してましたよ。
小田さんの夢や理想を破壊してしまうようなセリフが浮かんだけれども、寸前の所でそれらを飲み込む。窓辺で風鈴がチリチリと鳴った。
「それでね、お願いなんだけど」
小田さんの声が急に逡巡するように震え、トーンダウンした。
「私、何とかしてあの子にもう一度会ってみようと思うの。あてはないけど、がむしゃらにやってみれば探せると思う。だからその時がきたら相原さんも、あの子と話をしてみてくれないかな?」
無茶なお願いをしてしまって申し訳ないけれど。そう話しながらも、小田さんはどことなく悪びれない様子だった。
この人は、天然の人たらしに違いない。私は通話を終えた後で、少しだけ笑った。
風鈴が幻想的な音色を奏でている。この案件をどうしたらいいのか。上辺では悩みながら、実は既に答えを出している私の心の色を写し取ったように、風鈴は爽やかに、でもどこか切なげな音で空間を埋めていた。
『心だけ、逃避行』
窒息しそうなほどの現実味で溢れた
この世界から逃れたい
だから私は小説を読む
できるだけ現実離れした
夢のようなストーリーを選び
心だけでも、現実世界から逃げてみる
そうしていると、なぜか落ち着いてきて
もう一度、現実に戻ってみようという
不思議な感覚を覚えるのだ
今、この世界で
逃げられずに苦しんでいる人たちがいる
私は、その人たちのために
小説を書きたい
ほんの僅かでもいいから
私の小説世界が逃げ場になってくれたら
そう願いながら、文字を綴る
私の作品を読んでくれた人が
苦しい現実から少しだけ逃げ出して
エネルギーを蓄えた後で
また現実に戻っていけるように
心に寄り添える作品を書きたい
そしていつか私も
この世界を、人を、信じられるように
書き続け、表現していきたい
『星明かり』
突飛な発想は吐きそうなほど湧いてくるのに、その中のどれ一つとして形にできない自分が、時々嫌になる。
例えば、四ヶ月前のこと。いつもつるんでいる長沢創と一緒に、俺は駅前の居酒屋で飲んでいた。その時、奴の口から出た言葉に俺は打ちのめされたのだ。
「僕は平凡な男だ。名前以外は、他の人たちと何も変わらないんだ。そう思っていないと、自分が壊れてしまう。これは妄想でも何でもない。確信だ」
いつもの弱気な態度とは打って変わって、長沢は強い確信に満ちた口調で言う。俺は芋焼酎をちびちびと舐めながら、尋ね返した。
「お前、本当にそんなこと思ってるのか?」
「もちろん」
当然のことだと言わんばかりに、長沢は答えた。その口調と表情に微かな自信が覗いたように感じられ、俺は少しだけイラッとした。
「そんなんじゃ、業界では生き残っていけないんじゃないのか? 自分が平凡だなんて思ってる時点で、他の自信に溢れた連中には一歩遅れを取ってる」
「そういうものなのかな……」
自信なさげな態度が僅かに戻ったように、長沢は眉尻を下げ、小首を傾げた。こいつは根の部分では全く変わっていない。そのことに気づいた俺は、気分をよくした。
「まあ、そんな顔するなって。せっかく受賞したんだ。盛大にお祝いしよう」
俺たちは再び乾杯した。ガラスのコップが軽くぶつかり合う、気持ちのよい音がした。
その日の帰り。ほどよく酔っ払った俺と長沢は、駅前広場のベンチに座り、空を仰いだ。都会は星が見えない、などとよく言われるが、この駅前広場からは夜空が綺麗に見える。
「本当だ」
唐突に長沢が言った。俺はぼんやりし始めた意識の中で、何となく返事をした。へぇ、とも、ふぇ、とも聞き取れるような微妙な声が出た。
「津久井が言った通りだよ。この星空は銀河の果てみたいだ。綺麗な色をしている」
広場の薄暗い照明と微かな星明かりだけでは、長沢の表情はぼんやりとしか見えない。しかし長沢の口調は生き生きとしていて、心から感動していることが感じられた。
こいつ、見かけ以上に酔っ払っているんだろうか。ちょっとだけ心配になりながら、俺は尋ねる。
「俺、そんなこと言ったっけ?」
「覚えてないの?」
俺は何も覚えていない。考え込んでしまった俺に、長沢は興奮した口調のままで話し出した。
「去年、二人で飲みに行った時、津久井が言ったんだよ。銀河の果ては、終着駅で見上げた星空みたいなイメージだって。世界の果てみたいに綺麗な場所だって」
「おいおい。そんな支離滅裂なこと言われたって、わからないよ」
必死になって頭を働かせながら、俺は少しだけ思い出し始めていた。いつもの駅を乗り過ごしてしまい、終着駅で見上げた星空のことを。
「津久井が教えてくれたんだよ。僕の脚本に必要だったものを。あの時、津久井に付き合って飲みに行かなければ、あの脚本が完成することはなかったんだ。コンクールで受賞できたのは全部、津久井のお陰なんだよ」
早口で淀みなく話し続ける長沢の声を聞きながら、俺はいつの間にか、涙を流していた。
俺が酒の席で何となく話したエピソードや言葉を、長沢はきちんと記憶していて、脚本という一つの形に落とし込んだ。つまらない会話の切れ端を、美しい形に昇華させたのだ。
星空の果ては綺麗。
長沢が書いた脚本のタイトルを、頭の中で繰り返す。駄弁るだけで、何一つとして生み出すことのなかった自分の無能を打ち消すように、何度も何度も繰り返す。
平凡なのは俺の方だ。
確信に近い思いが湧いてきた。
「長沢」
俺は涙声のまま、隣にいる脚本家志望の男に言った。
「お前は平凡なんかじゃないよ」
長沢は下の名前で呼ばれるのを嫌がる。そのことを知った上で、俺は長沢に伝えようと思った。
「ナガサワ・アートの名を、堂々と世界中に轟かせてやればいいんだ。お前ならできる」
こんな話をしたことなど、無能な俺はすぐに忘れてしまうだろう。しかし、長沢は違う。つまらない会話であっても必ず自分の血肉にできる男だ。
星明かりの中、俺は長沢に笑いかけた。長沢は、少し困ったように頷いた。
『遠くの声』
河川敷の遊歩道は、今日も閑散としていた。僕は、あの日以来姿を消してしまった彼女のことを思い出しながら、川面を見つめていた。
彼女の名前を小さく呼ぼうとして、襲ってきた鈍い頭痛に顔をしかめる。この所、いつもこんな調子だ。彼女の顔や名前を思い出そうとするたびに、決まって頭痛が起きる。まるで何者かが、僕の回想を咎めているかのように。
遠くで声が聞こえた。まだ幼い少女が、母親の姿を探して泣いている。
「ママ、ママ……どこにいるの? 置いていかないで」
遠い昔に亡くなった母親のことを、僕は思い出す。病床にあった母と約束したことも。
「ママ。僕はどこにも行かないよ」
幼かった自分の声が急に、耳の奥に蘇った。
もう一度、記憶の糸を手繰る。行方知れずの彼女に関する記憶を、ほぐすように探ってみる。彼女とは、友達以上の関係だった。図書館で出会い、意気投合して何度か会ううちに、僕たちは親しくなっていったのだ。
彼女を家に呼んだのは、当然の成り行きだった。まだ肉体関係には至っていなかったが、僕は彼女ともっと親しくなりたかった。そして僕は、大切にしていたアンティークの鳥かごを彼女に見せた。そして……
この後の記憶はない。すっぽりと抜け落ちている。なぜ記憶が抜け落ちたのかはわからないが、恐らく彼女と僕は何らかの諍いをして、別れることになったのだろう。実際、彼女にまつわる記憶はこの時を最後に、ぷつりと途切れている。
失恋のショックで記憶が抜け落ちる、か。
自分の女々しさに、思わず笑いが込み上げた。
迷子の少女は、まだ泣いている。
「置いていかないで。ママ、ママァァァ!」
その時。
急に背中の辺りが強張ったような気がした。ぞくっと、悪寒が背骨を撫でるようにして首筋へと駆け上がっていく。
耳の奥で、か細い声がした。
「徹。私のことを忘れないで……」
ざらざらした細い声は紛れもなく、僕の母親のものだった。死の直前、幼かった僕の手を握りながら何度も何度も、念を押すように同じ言葉を繰り返していた母の声だった。
耳の奥。それよりも遠い所で、別の声がする。芯の強そうな、真っ直ぐで綺麗な声だ。
「負けちゃ駄目。あなたは母親の亡霊に取り憑かれているだけなの」
その強い声音に、僕の記憶が僅かながら呼び覚まされた。
彼女の名前を思い出すことはできない。母親の亡霊により、封印されてしまっているからだ。でも、彼女がかつて僕の隣にいたという事実を消し去ることは誰にもできない。
あと少しで、思い出すことができそうなのに。
ぐっと顔を上げ、僕は亡霊への抵抗を試みた。うっすらと浮かび上がろうとしていた彼女のイメージは、しかし亡霊が放った次の一言で霧消した。
「約束よ」
僕は思い出す。どこへも行かないという約束を。
どうしたらいいんだ?
恐らく苦悶に歪んでいるであろう自分の顔を両手で覆いながら、僕は奥歯を噛み締めた。
少し離れた所。先ほどの少女の泣き声が、母親を見つけた喜びの声に変わっていた。
「もうどこへも行かないでね。置いていかないでね。約束だよ」
その声を捉えた途端、僕の耳から二つの声が消えた。閑散とした遊歩道に佇みながら、僕はただ呆然としていた。
『遠い約束』
修学旅行の夜に、沖縄のホテルで
また来ようねって約束した
そこは、ちょっと高そうな部屋で
私たち三人は、ベッドに寝そべりながら
大して意味もない話をたくさんしていた
あの頃は、未来を思い描くことに
何の疑問も持たず、生きていた
けれども今では、その未来があることを
心から有り難く思う
平穏な明日は、とても脆くて儚いもの
いつ消えてしまうかわからない
水の中に浮かぶ泡のようなもの
だからこそ、とても尊いもの
あの約束が果たされることはなく
私たちは疎遠になってしまったけれど
それぞれ違う場所で、それぞれのやり方で
生きていられたら、それでいい
明日には、なくなってしまうかもしれない
平穏な時間を大切に生きて、生きて
そして、もしまたどこかで会えたら
掘り炬燵に入りながら
温かいお茶でも飲みたいな