七星

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7/29/2025, 12:12:11 PM

『タイミング』

最悪のタイミングで、模試の結果が出た。

私が通う予備校では、模試で高成績を収めた上位二十名までの名前がエントランスに張り出される。

私の名前はそこにはなかった。上位に入るのは大概、近くの有名進学校に通う人たちばかりで、私のような公立校の生徒が入り込む隙間はほとんどない。

上位者の名前を一つ一つ確認する。昨年の冬まで一位の座を独占していた男子の名前が圏外に消えているのを、私は少しだけ安堵した気分で眺めた。

あの男子は内堀陽久という名前だった。特に発言することもなく黙々と授業に集中していた、地味でどこか陰のある後ろ姿が、同級生の野木真美子と重なり、私は彼の姿を見るたびに苛々していた。

いけ好かない奴。何があったか知らないけれど、脱落してくれて清々した。

私は上位者の張り紙をもう一度ざらりと眺め、踵を返して講義室へ向かった。

「千砂。模試の順位、どうだった?」
友人の香織が、嫌なタイミングで声をかけてくる。知ってるくせに。舌打ちしたくなるのを抑え、私は作り物の笑みを向ける。

「まあまあかな。上位には入れなかったけど」

香織はマイペースな性格だ。自分のタイミングで、相手の気持ちも考えずにものを言う所が、こんな日は特に癇に障る。

「そうそう。去年まで万年一位だった内堀くんのことなんだけど」
突然、嫌な話題を振られ、私は何も飲んでいないのにむせ返った。

「何で急にあの男の話を?」
「いやぁ、彼の近況を知りたくないかなって思ったからさ」

目を白黒させている私を軽く見やると、香織はこちらが知りたいとも言っていないのに、勝手に話し始めた。

「あたし、学校の友達から聞いたんだけど。内堀くんの妹さんが、引きこもりの末に精神病院に入院しちゃったらしくてさ。内堀くん、予備校どころじゃなくなって、今は学校と妹さんの病院を行き来してるらしいよ。四月の終わり頃だったか、見かけた子がいるんだけど、内堀くんは泣き腫らした顔で街を歩いてたって」

少しだけ、ほんの少しだけ胸が痛んだ。

同時に、能天気な顔で話を続ける香織のことを憎らしいと思った。内堀と同じ有名進学校に通い、今回の模試でも五位に入っていた香織のことを。

後ろから、同じ学校の尾崎が唐突に背中をつついた。

「高山。何で固まってんの? 下痢でもした?」

こいつも最低なタイミングで下品な話をする、嫌な奴だ。私は振り返り、尾崎を睨んだ。

「人間ってものがわからなくなる時が、私にだってあるんだよ」

何だかわからないが、今日は最悪な日だ。絶妙なタイミングで、ひどく嫌なことが起きる。

7/28/2025, 12:01:52 PM

『虹のはじまりを探して』

「君は、虹の始まりを探したことがあるか?」

目の前に座っている自称、祓い屋は僕に人差し指を突きつけ、鋭く言った。突然のことに、僕は文字通りぽかんと口を開け、祓い屋を見た。

「意図的に路地の突き当たりに迷い込んだことはあるか? 誰も近寄らない森の中の廃屋を探険したことは? 当たらないとわかっている占い師の言うことに盲目的に従ってみたことは? 若しくは……」

「ああ……もうやめて下さい!」
延々と続く、わけのわからない問いかけに痺れを切らした僕は、思わず大声で叫んだ。先ほどから頭の奥が、石でも詰め込まれたように重く、微かな熱を持っている。

「あなたは一体、何が言いたいんですか? 僕が冒険心を失っているとでも指摘するつもりですか?」

祓い屋は、整った顔で僕を見返すと、形のよい唇の右端だけを器用に歪め、ふん、と鼻で笑った。僕よりずっと年下のくせに。馬鹿にされたように感じた僕は、迫り上がってくる怒りをどうにか堪え、冷静を装って対話を再開した。

「依頼を受けて下さらないというのなら、僕はこれで失礼します。記憶の混乱については、専門家の診断を受けるということで……」

「待て」
僕が立ち上がろうとするのを、祓い屋は制した。やや潤んだ真っ黒な双眸が、直線的な光を放ちながら僕を捉えている。

「話はまだ終わっていない。さっきの言葉は、君が脇道に逸れる余裕を失っているという、単なる比喩だ。真っ直ぐに進みすぎる人間は、脇道に逸れてばかりの人間と同じくらい、魔の領域に囚われやすいものだからな」

「僕が、魔の領域に?」
「君も本当は気づいているはずだ。消えた彼女の記憶、思い出せない名前、壊れた鳥かご、そして耳にこびりついた母親の声。これらは全て、魔の領域に関連しているんだ。このまま事が進めば、いずれ君も魔の領域に吸収されてしまう」

名前を思い出せない彼女の声が、急に耳に蘇った。僕はゆっくりと、その声を味わう。涼しげで、しかし決して冷たくはない彼女の声を。

「本多徹。私と一緒に、虹の始まりを探してみないか?」

僕の名前を呼び捨てにして、祓い屋は無邪気に笑った。きっと、これが祓い屋の本来の顔なのだろう。何しろ、今目の前で僕の依頼に応えようとしてくれているのは、ブレザーの制服を着た女子高校生なのだから。

「依頼を受けて下さるんですか?」
僕が尋ねると、祓い屋は笑顔を仕舞い込んだように、真面目な顔になった。

「死んだ両親の教えだ。困っている人間には必ず手を貸す。それが私、権藤美影の信念でもある」

権藤美影は、背中まである長い黒髪をさらりと揺らして立ち上がり、僕が座るソファを回り込んで、足早に部屋のドアへと向かった。

「行くぞ。早くしないと、虹はすぐに消えてしまう。まずは虹の根本を捕まえるんだ」

急かされるように、僕も部屋を出る。権藤美影の綺麗な髪が、花のような香りを撒き散らしながら、前へ前へと進んでいた。

7/12/2025, 12:41:20 PM

『風鈴の音』

その着信があった時、私は次の作品に使おうと描き溜めていたスケッチを整理していた。私以外誰もいないアトリエには、風鈴の音色と空調の雑音だけが優しく響いている。

スマートフォンの画面には、小田温子、と表示されていた。人の名前を覚えるのが苦手な私は数秒の後に、画廊のスタッフに確かそんな人がいたな、と思い出す。気さくというより、少々馴れ馴れしい印象だったな、ということも同時に想起される。でも、彼女と電話番号の交換をしたことは、すぐには思い出せないままだ。

「相原です」

電話に出た私が名乗った直後、小田さんの温かみのある声が聞こえてきた。

「相原千奈さん。お忙しい所、申し訳ないんですけど。ちょっと相談したいことがあるのよ。時間は取らせませんから」

敬語とタメ語の入り交じった話し方に、私は相手の微かな緊張を読み取る。

「以前うちであった合同展のことなんですけどね。あの時に、ひどく気になった来場者がいるのよ。相原さんの絵の前に立ち尽くしていて……というよりも、悲しい顔をして立ち竦んでいたと言った方が正しいかな。私、心配になって声をかけてみたのよ。それで、話をしていたらその男の子、急に泣き出しちゃったの」

何だか面倒な話になりそうだ。小田さんが面倒なことを言い出したわけでは決してなく、これは私が波乱に満ちた三十年の人生から得た、ただの直感なのだけれど。

「何歳くらいの子ですか?」
「高校生よ。あの制服は間違いなく……」

小田さんの口から出たのは、かつて私も憧れていた有名進学校の名前だった。私の従妹が現在通っており、試験の成績が振るわないなどと愚痴っている様子だと、十数年振りに会った叔母から聞いている。

小田さんは、感慨に浸るような寂しげな口調で言った。

「あんなエリート校に通う子でも、人前で泣いてしまうほどの悩みがあるのね」

それはそうですよ。私が昔通っていた大学なんて、エリート校の出身者が多かったけれど、そのほとんどがゾンビみたいな青白い顔して、無気力な自分を正当化してましたよ。

小田さんの夢や理想を破壊してしまうようなセリフが浮かんだけれども、寸前の所でそれらを飲み込む。窓辺で風鈴がチリチリと鳴った。

「それでね、お願いなんだけど」

小田さんの声が急に逡巡するように震え、トーンダウンした。

「私、何とかしてあの子にもう一度会ってみようと思うの。あてはないけど、がむしゃらにやってみれば探せると思う。だからその時がきたら相原さんも、あの子と話をしてみてくれないかな?」

無茶なお願いをしてしまって申し訳ないけれど。そう話しながらも、小田さんはどことなく悪びれない様子だった。

この人は、天然の人たらしに違いない。私は通話を終えた後で、少しだけ笑った。

風鈴が幻想的な音色を奏でている。この案件をどうしたらいいのか。上辺では悩みながら、実は既に答えを出している私の心の色を写し取ったように、風鈴は爽やかに、でもどこか切なげな音で空間を埋めていた。

 
 
 
 

7/11/2025, 12:02:03 PM

『心だけ、逃避行』

窒息しそうなほどの現実味で溢れた
この世界から逃れたい
だから私は小説を読む
できるだけ現実離れした
夢のようなストーリーを選び
心だけでも、現実世界から逃げてみる
そうしていると、なぜか落ち着いてきて
もう一度、現実に戻ってみようという
不思議な感覚を覚えるのだ

今、この世界で
逃げられずに苦しんでいる人たちがいる
私は、その人たちのために
小説を書きたい
ほんの僅かでもいいから
私の小説世界が逃げ場になってくれたら
そう願いながら、文字を綴る

私の作品を読んでくれた人が
苦しい現実から少しだけ逃げ出して
エネルギーを蓄えた後で
また現実に戻っていけるように
心に寄り添える作品を書きたい
そしていつか私も
この世界を、人を、信じられるように
書き続け、表現していきたい

4/20/2025, 2:05:39 PM

『星明かり』

 突飛な発想は吐きそうなほど湧いてくるのに、その中のどれ一つとして形にできない自分が、時々嫌になる。
 例えば、四ヶ月前のこと。いつもつるんでいる長沢創と一緒に、俺は駅前の居酒屋で飲んでいた。その時、奴の口から出た言葉に俺は打ちのめされたのだ。

「僕は平凡な男だ。名前以外は、他の人たちと何も変わらないんだ。そう思っていないと、自分が壊れてしまう。これは妄想でも何でもない。確信だ」
 いつもの弱気な態度とは打って変わって、長沢は強い確信に満ちた口調で言う。俺は芋焼酎をちびちびと舐めながら、尋ね返した。
「お前、本当にそんなこと思ってるのか?」
「もちろん」
 当然のことだと言わんばかりに、長沢は答えた。その口調と表情に微かな自信が覗いたように感じられ、俺は少しだけイラッとした。

「そんなんじゃ、業界では生き残っていけないんじゃないのか? 自分が平凡だなんて思ってる時点で、他の自信に溢れた連中には一歩遅れを取ってる」
「そういうものなのかな……」
 自信なさげな態度が僅かに戻ったように、長沢は眉尻を下げ、小首を傾げた。こいつは根の部分では全く変わっていない。そのことに気づいた俺は、気分をよくした。
「まあ、そんな顔するなって。せっかく受賞したんだ。盛大にお祝いしよう」
 俺たちは再び乾杯した。ガラスのコップが軽くぶつかり合う、気持ちのよい音がした。

 その日の帰り。ほどよく酔っ払った俺と長沢は、駅前広場のベンチに座り、空を仰いだ。都会は星が見えない、などとよく言われるが、この駅前広場からは夜空が綺麗に見える。

「本当だ」
 唐突に長沢が言った。俺はぼんやりし始めた意識の中で、何となく返事をした。へぇ、とも、ふぇ、とも聞き取れるような微妙な声が出た。
「津久井が言った通りだよ。この星空は銀河の果てみたいだ。綺麗な色をしている」
 広場の薄暗い照明と微かな星明かりだけでは、長沢の表情はぼんやりとしか見えない。しかし長沢の口調は生き生きとしていて、心から感動していることが感じられた。

 こいつ、見かけ以上に酔っ払っているんだろうか。ちょっとだけ心配になりながら、俺は尋ねる。
「俺、そんなこと言ったっけ?」
「覚えてないの?」
 俺は何も覚えていない。考え込んでしまった俺に、長沢は興奮した口調のままで話し出した。
「去年、二人で飲みに行った時、津久井が言ったんだよ。銀河の果ては、終着駅で見上げた星空みたいなイメージだって。世界の果てみたいに綺麗な場所だって」
「おいおい。そんな支離滅裂なこと言われたって、わからないよ」

 必死になって頭を働かせながら、俺は少しだけ思い出し始めていた。いつもの駅を乗り過ごしてしまい、終着駅で見上げた星空のことを。
「津久井が教えてくれたんだよ。僕の脚本に必要だったものを。あの時、津久井に付き合って飲みに行かなければ、あの脚本が完成することはなかったんだ。コンクールで受賞できたのは全部、津久井のお陰なんだよ」
 早口で淀みなく話し続ける長沢の声を聞きながら、俺はいつの間にか、涙を流していた。

 俺が酒の席で何となく話したエピソードや言葉を、長沢はきちんと記憶していて、脚本という一つの形に落とし込んだ。つまらない会話の切れ端を、美しい形に昇華させたのだ。
 星空の果ては綺麗。
 長沢が書いた脚本のタイトルを、頭の中で繰り返す。駄弁るだけで、何一つとして生み出すことのなかった自分の無能を打ち消すように、何度も何度も繰り返す。

 平凡なのは俺の方だ。
 確信に近い思いが湧いてきた。
「長沢」
 俺は涙声のまま、隣にいる脚本家志望の男に言った。
「お前は平凡なんかじゃないよ」
 長沢は下の名前で呼ばれるのを嫌がる。そのことを知った上で、俺は長沢に伝えようと思った。
「ナガサワ・アートの名を、堂々と世界中に轟かせてやればいいんだ。お前ならできる」

 こんな話をしたことなど、無能な俺はすぐに忘れてしまうだろう。しかし、長沢は違う。つまらない会話であっても必ず自分の血肉にできる男だ。
 星明かりの中、俺は長沢に笑いかけた。長沢は、少し困ったように頷いた。


 
 

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