『もしもタイムマシンがあったなら』
卒論が思うように進まない。もう最終学年の八月になるのに。
参考文献の巨大な山を前に、私は溜め息をついた。少しでも読み進めようとページを捲っていくが、分厚い本の中に並ぶ専門用語の羅列はなかなか終わろうとしてくれない。
こんなことになるなら、せめて一昨年辺りから手をつけておけばよかった。サークルの仲間たちと遊び歩いている暇など、本当はなかったのだ。今さらのように、後悔がじわじわと押し寄せてくる。
提出締め切りまで、あと四ヶ月半と少ししかない。追い立てるように背後から襲ってくる焦りと不安が、私の思考を停滞させた。
今日はもう仕方がない。諦めて、一年の頃から住んでいる部屋を私は出た。
確か、近所の公園で夏祭りが開催されているはずだった。気分転換に、ちょっとだけ見に行ってみよう。眼精疲労でしょぼつく両目を両手で優しく温めながら、私は歩き出した。
残念ながら、夏祭りの開催日は明後日だったことを思い出す。公園には当然だが誰もいなかった。生ぬるい風が私の背中を撫でるように吹き抜けていき、落胆した私はとぼとぼと家路を辿り始めた。
「足立さん?」
不意に背後で声がした。少し擦れた、若い男の声だった。
知り合いだろうか。私はゆっくりと振り返る。
そこに立っていた若い色黒な男性の姿を視界に捉えた時、私の中で懐かしさがサイダーの泡のように弾けた。
「小島くん。久し振りだね」
小島くんは、大学で私と同じ学科に所属していて、特に目立った個性があるわけでもない普通の男子学生だった。しかし、二年に上がる頃から、姿を見なくなった。どうやら引きこもりになって退学したらしい、というのが学科内での専らの噂だった。
私は小島くんに話しかけた。
「ずっと見かけなかったけど、元気だったんだね。みんな、変な噂してたんだよ。小島くんは引きこもりになったって」
途端に、小島くんは表情を曇らせ、それからぎこちない笑みを浮かべながら言った。
「引きこもりか。まあ、そんなようなものだよ。今の僕は、夜しか出歩けないんだ」
悲しそうに顔を歪め、小島くんは言う。その瞳はいやに輝いていて、私は彼が涙を堪えていることに気づく。
私たちは、しばしの間じっと見つめ合っていた。愛し合っているわけではなく、互いの腹を探り合っているわけでもなく、ただそこにそうしていたくて、ひたすら見つめ合った。
「足立さん。大丈夫だよ。今は思うように進めないかもしれない。でも生きていれば、必ずゴールに辿り着けるから」
溜めていた息を吐き切るようにそれだけ言うと、小島くんは優しく微笑んで背を向けた。そして、そのまま消えてしまった。
後に私は知った。小島くんは二年に上がってすぐ自宅の部屋に引きこもってしまい、それから一ヶ月後、ゴールデンウイークの最中に自殺を図ったのだった。享年、十九歳。もう私は、生きている小島くんに会うことはできない。
もしタイムマシンがあったなら。
私は思う。タイムマシンを使って十八歳の春に戻りたい。私たちが出会った十八歳の春の日に。
何もできないかもしれない。でも、小島くんの心に寄り添っていたいと思う。そうすることで、もしかしたら何かが変わるかもしれないのだから。
『今一番欲しいもの』
演劇部の活動は、いつも二年六組の教室で放課後だけ行われる。
ストレッチ、発声、滑舌などの基礎練習をしている間中、私はずっと落ち着かない気持ちを胸の底に抱えていた。隣で同じように基礎練習をしている同期、夏井優奈の様子を無意識のうちに気にしている。
高校二年目の夏休み前日。今日は私たちにとって運命の日とも言える、大切な日だった。秋の学園祭で行われる舞台発表での配役が決定するのだ。
私と優奈は同じ役を希望していた。幽霊の少女と放課後の教室で逢瀬を重ねる、男子高校生の役だ。元から髪をショートにしている私に対し、優奈は一年の頃からずっと長い髪をしていた。だから、優奈が男役に立候補するとは夢にも思わなかった。オーディションの日に髪をばっさりと短くしてきた優奈を見た時、彼女の本気と気迫を感じ取ったけれど、私はまだまだ余裕だった。
中学生の時も演劇部に所属していた私が、高校で演劇を始めた優奈に負けるわけがないと思った。優奈が自然な感情を込めて、すらすらとセリフを暗唱し始めた時も、驚きはしても、負けた気には決してならなかった。
基礎練習が終わり、顧問の松尾先生に皆の視線が集中した。
「三年生を優先して配役を決定しました。一、二年生は納得のいかない結果となるかもしれませんが、修業だと思って今年は我慢してね。それでは発表します」
主人公の役も、幽霊の少女役も、三年生だった。続いて、私と優奈が希望している役の番になる。遂にこの時がきたのだ。私は周囲に聞こえないように、静かに唾を呑み込んで軽く目を閉じた。
「タイガ役、夏井さん」
嘘だ、という思いと、やはり、という思いが頭の中で共存していた。
結局、私は第二希望だった隣のクラスの少女役に選ばれた。
「さやか、残念だったね」
優奈とは別の同期の子が、さりげなく声をかけてくれた。しかし、私の気分は晴れなかった。
役だけではなかったのだ。私が本当に、今一番欲しいものは。
「どうして私が今まで男役ばかりやっていたか、わかる?」
同期の子にぽつりと尋ねる。不思議そうな顔でこちらを見る同期の子の視線を捉えた瞬間、この話題は口にすべきではないと気づいた。私は軽く首を振った。
「何でもない。ショックから来る、ただの独り言」
笑って誤魔化す。同期の子は怪訝な目を私に向けたが、すぐに普段の人好きのしそうな表情に戻った。
言えるわけがない。
女に生まれたくなかった。この肉体の代わりに男の体が欲しい、だなんて。
映画サークルの新歓コンパが終わり、周囲にいたメンバーはそれぞれ帰り支度を始めていた。私は一年後輩の長沢創に軽く目配せして、席を立った。
私たちは半年前から交際している。昨年入部してきた創が告白してきたのは十月のこと。その流れで付き合い始めた。今では、互いのアパートを行き来している。
「ホタル先輩の演技があってこそ、今度の自主制作映画は成り立つと思うんです」
二人並んで帰る途中、決して上手とは言えない私の演技を、今夜も創は褒めてくれた。ホタル先輩、の所に力が入っていて、私の胸は少しだけ痛む。
今、私は創に無言の嘘をついた。
始まった時は小さな嘘だった。けれども、ここまできてしまうと、もう取り返しがつかない。雪の塊が坂道を転がり続けて大きくなっていくように、私がついている嘘も巨大化してしまったような気がするのだ。
心臓の辺りが苦しい。私は立ち止まり、創に声をかけた。
「ねえ、ツクル」
二、三歩先へ歩き出そうとしていた創が足を止め、振り返る。その顔が決まりの悪そうな作り笑いに変わった。
「どうしました? ホタル先輩」
胸の奥が、きゅうっと締めつけられた。私は遂に真実を口にした。
「私、実はホタルじゃないの」
きょとんとしている創に、私は打ち明けた。
「蛍と書いて、ケイ。私の名前は岩村ケイ」
創が、ぎこちない笑顔を見せた。そして少し震えたような声で呟いた。
「そうだったんだ。僕も勘違いしていたんだ」
勘違い。何のことだろう。状況を上手く把握しかねている私に、創は突然、満面の笑みを浮かべて言った。
「僕も、実はツクルじゃありません。創と書いて、アートと読みます。親が凝り性で、変に個性的な名前をつけたんです。迷惑な話ですよね。アートなんて、初対面で正しく認識してくれる人、今まで一人もいませんでした。だから出席を取られるのがいつも嫌だったんですよ。呼ばれるたびに訂正しなきゃならないので」
その時の私は、きっと気の抜けた顔をしていたことだろう。
創は私の表情を隅々まで確認するように凝視すると、優しく微笑んだ。
「ケイ先輩。今後ともよろしくお願いします」