いつも図書室の窓辺に寄りかかって、一心に手元の本を捲っていたあなた。
なぜか本を借りていくことは一度もなく、その場所で読むだけだったので、彼女の名前はついぞ知らないままだった。
ただ上履きの色から、最高学年だと分かっただけ。それだけ。
卒業式を翌日に控えた夕方、暮れゆく窓辺に寄りかかり、ふと私の方を向いた彼女の囁き声が、夢の残骸のように忘れられない。
──先生、命が燃える色って、きっとこういう色をしているんでしょうね。
その胸元に抱きしめられた、銀河鉄道の夜。
もしかして、あなたは、本当の幸福とやらを知って絶望していたの? それを確かめるすべは、もうどこにもない。
私にとって、カンパネルラよりも別れが惜しかった、名も知らぬ彼女は、今は、何色の空の下に佇んでいるのだろう。
(君と最後に会った日)
花占いより、ずうっと楽しくて美しい遊びをしましょうか。
手を出して、と云われて、素直に従う方もいけないのよ? ほら、もう傷付いた顔をしているじゃない。嫌がってもいいのよ。
お花じゃないのに、植物じみてほっそりとした指を、全部ひろげて不安そうに眉を顰めるあなた。その指の先に、ちょうちょに見立てた私の指先で触れていくの。
花占いより、透明で、残酷なやり方で。
好き、嫌い、好き、嫌い、好き
右手は終わり。ここで終わりにすればいいのにね。分かっていて、どうして手を引っ込めないの? 続けてしまうわよ?
続きから、次は左手。
嫌い、好き、嫌い、好き──
か弱い小指の上に指を止まらせながら、最後のひとつを声には出さず、代わりに蜜のように微笑みかけてあげるだけで、迷子の幼子のように揺れる瞳。
嗚呼、なんていとけなくて、うつくしいの。
指の数なんて決まっているのだから、嫌いから始めればいいのにね。
終わりがこうなると知っていながら、私が最初に好きと口にする瞬間、ほんのり嬉しそうに目元を綻ばせるあなたは、この世でいちばん、儚く繊細なお花。私がなにより好きなお花。
でもそれを告げたら、この戯れは終わってしまうから、まだ言わないの。私はあなたの心に刺さる、唯一の棘でありたいのよ。その代わり、他の何者にも傷付けさせはしないと誓うわ。
たおやかで清らかなあなた。私だけのお花。
(繊細な花)
「だれか、風船落としちゃったみたい」
隣から聞こえた奇妙な言い回しに、思わず手元から上げた視界の中を、悠然と蜜柑色の風船が通り過ぎていった。
青空に映える爽やかなコントラストだなと、しばし見惚れる。我にかえり、それを云うなら飛ばしちゃったでしょう、と笑った。
友人の瞳が、硝子のように透明な光を乗せて見開かれる。
突如、それまで佇んでいた窓辺に、乾いた風が吹き込んで、白いカーテンが勢いよく舞い上がった。張りのある布に溺れながら、その波間で、ほんの一瞬、烈しくまばゆい光を捉えた目が眩む。ハレーションを起こして霞む世界の中で、友人の背に背丈よりも大きな白い翼が生えている幻を見た。足元がぐらつく。
「ねえ、ちょっと、大丈夫?」
強烈なホワイトアウトから呼び戻したのは、目の前に屈みこむ友人の声だった。
私は尻もちをついたようにペタリと座り込んでいて、心配そうに顔を覗きこまれているところらしい。
未だ現実感は乏しいものの、当然友人の背に翼などはなかった。あまりにも馬鹿らしい。
すると、友人が、おもむろに人差し指を立てて、それを自身の唇に添わせた。
──内緒だよ
声を伴わずに動かされる、薄い唇。
呆けて見つめる目の端を、蜜柑色の風船が、空高くへと飛び去って行った。
(落下)
その薄紫色を目にするたび、記憶の底に滲む声がある。
──金魚鉢にあじさいを入れると、触れられる世界のすべてが、ここにあるんだって気持ちになるの。
昔、そんなことを繰り返しては、懲りずに母に注意されていた姉の年齢を追い越して、もうどれくらい経つのだったか。
(あじさい)
「いいな、可愛い街並み。こんな道をお散歩してみたい」
隣で寝そべる姉の言葉につられて、顔を上げた先のTV画面に映し出されているのは、どこか外国の街角らしい。並ぶ石畳とレンガ造りの家々は、良く出来た玩具のようで、そのまま飾っておきたいほどだった。
「死ぬまでに見たいな、こんな風景」
「お姉ちゃんに無理でも、私が意志を継ぐから心配しないで」
「なんと薄情な妹か!」
わざとらしく突っ伏してみせる姉の向こう、窓の外に目を向けた。
私たちが生まれる前は、空が青かったことがあるなんて、何度文献で読んでも想像がつかない。
空は今日も黒ずんだ紫色をしていて、時折雷の光がひび割れを作るばかりだ。
お洒落な街並みでなくていいから、防護服を身に着けずに、青い空とやらの下を歩けるものなら歩いてみたい。
そんな馬鹿げた夢物語を抱けたなら、代わり映えのしない特殊カプセルの中の生活も、少しは楽しくなるのだろうか。
そこまで考えてから、そういった夢想は姉の役目だと思い直して、また手元の本に視線を戻す。もしもこれを書いた人間に、今では天気によって色を変える空など、この世のどこにもありはしないと教えたなら、どんな反応が返ってくるのだろう。
シニカルな考えに耽る私の横で、相も変わらず古い映像に見入る姉が、“雪”と呼ばれる現象で白く塗り替えられた街を指差しては、無邪気に喜んでいた。
(街)