その日は写生のためにと、美術部員たちと連れ立って、学校からバスで20分ほど揺られた先の薔薇園を訪れていた。
英国風の瀟洒な門扉に護られた花園は、個人が管理しているとは思えない広さと華やかさで、見る者を薔薇の香りで包み込む。
画材一式と浮足立つ胸を携えて、一歩踏み込めば、そこは別世界だった。
平日の夕方という中途半端な時間のためか、他に一般の客の姿は無い。見渡す限り、色とりどりの薔薇が咲き誇り、その合間を蝶が舞い踊るだけの、優雅で絵画の中のような静寂。
夢見心地で薔薇の回廊を進んでいくと、ふいに白い鳥籠のような四阿が見え、思わず足を止めた。
お伽噺か絵本にしか登場しないような、可愛らしい四阿の中には、やはり真白い繊細なテーブルと揃いの椅子が向かい合わせに置かれており、その様は幼い頃に遊んだ人形のための玩具を思わせる。さらに近づいてみれば、その砂糖菓子で出来たような西洋風の椅子には、アンティークドールさながらの豪奢なドレスに身を包んだ、かくも美しい少女が座っているのだから、なんて破綻のない空間だろうとため息が洩れた。
陶器で形作られたような少女がこちらに気付いたらしく、花笑みを浮かべながら、ひらひらと手招きしている。美しいものを処理しきれなくなった脳が、ゆっくりと薔薇の香りに溺れていく。
蜜を求める蝶のごとく、覚束ない足取りでふらりと四阿に入った。
「いらっしゃい。薔薇はお気に召して?」
──はい、夢のように綺麗です。
「ふふ、ありがとう。今はお忙しいかしら?」
──いいえ。薔薇を見に伺っただけなんです。
「そう。ではお茶を一杯、ご一緒にいかが?」
──よろしいのですか?
「もちろん。ここの薔薇を使ったローズティーなの。スコーンもあるから、どうぞ召し上がって」
芳香を立ち昇らせるローズティーを一口含むと、薔薇を直接食んだような錯覚を覚えるほどだった。そう、薔薇の花びらを。
美術品のようなティーカップには、いつの間にか白薔薇の花びらだけが満ちている。お茶を飲んだと思ったのだけれど。テーブルを挟んで向かい合う少女は、変わらず可憐な笑みを湛えていた。
「お味はどうかしら?」
──とても、美味しいです。
「スコーンもどうぞ。この薔薇のジャムも手作りなの」
少女の言葉通り、ジャムを塗ったスコーンは紅薔薇のようで、一息にひとつ平らげてしまった。口元から、はらりと赤い花びらが落ちたのを、少女が優しく白い絹のハンカチで押さえてくれる。
「ねえ、あなた綺麗ね。良ければ、わたしのお部屋で遊ばない? なんでも揃っていてよ。きっと、退屈させないわ」
差し伸べられたしなやかな手に、うっとりと手を重ねる。
彼女に導かれるままに、薔薇でできた迷宮のあわいを進みながら、いつしか私は小さな子どものように弾んだ笑い声をこぼしていた。
(手を取り合って)
※前日の「私の当たり前」の続きのようなもの
晴れ空の香りを感じて、夢の波間から這い上がった。
傍らに静かに控える優しげなまなざしに、そっと微笑み返す。
「おはようございます」
「おはよう、これはネモフィラ?」
「ええ、今朝のサラダのお味見でございます」
「素敵ね」
髪に飾られていた小さな花を取り、そのまま口に含んだ。しっとりと透き通った水の味が、舌に広がる。
ゆるゆると身体を起こすと、つられて持ち上がった薄いヴェールが、周囲に浅く敷き詰められた水の絨毯の上を、柔らかく滑って波紋を作った。
春の草花を編んで作られた寝床の近くまで寄り、わたくしの髪を丁寧に梳るあなた。
毛先に絡んでいた蔦と蓮の花が、真珠色の櫛によって落とされ、それは彼女の膝の上の水盆へと着水する。
毎朝、可憐な朝食を拵えてくれる、大切なあなた。
わたくしは未来永劫、あなたのためだけに咲き誇る花であり続けましょう。
「朝食をお願い。楽しみだわ」
「はい、すぐにお持ち致します」
わたくしの髪に飾られていたネモフィラは、仄かに彼女の花びらのような呼吸を含んでいた。その余韻は甘く、髪の先まで芽吹きそうな陶酔をもたらすことを、可愛いあなたはきっと知るよしもないのでしょうね。
(目が覚めると)
朝露に濡れる野原に立ち、あたりを見回す。
今日は何色のお花を中心に据えようかしら。
摘みたての瑞々しい花たちを、茎を切り落としてから、優しく洗ってあげる。
水流は花びらを傷つけぬよう、せせらぎのごとき柔らかさで。土を落とし、清らかに匂うままに。
すすいだ花々を、彩り良く硝子の皿に盛り付けていく。
中央には鮮やかな太陽を模したひまわり。そのまわりには、青空の色のネモフィラを敷き詰め、その上に雲に見立てたカスミ草の白を。
あとは仕上げとして、全体に蜂蜜をトロリとまわしかければ、今朝のサラダは完成。
さあ、ベッドの中で朝霧のようなヴェールを纏いながら、まどろんでいるであろう、美しいひとを起こしに行こう。
思い立って、余っていたネモフィラを一輪つまみ上げ、くちづけをひとつ。これを、なかなか起きない彼女の、そよかぜのような髪に飾ってあげたなら、きっと芳香につられて瞼を震わせることだろうから。
私の大切なプリンセス。今、あなたのための花畑を携えて、お側に参ります。
(私の当たり前)
小指の先を不注意で切ってしまったとき、古い本を開いたときのように、ふいに幼いころの記憶が香った。
あの頃、私の世界はひどく狭い箱庭で、そこで近所に住む、少し年上の女の子と過ごす時間こそが、すべてだった。
いつだったか、白詰草で花冠を編んでいたとき、彼女が笑いながら、私の小指に細い茎を巻きつけたことがあった。青々とした薫りにむせ返りそうになりながら、笑いあった午後の庭。
お花の指輪似合ってるね、と褒められた私は、甘い砂糖菓子を貰ったときのように、喜んだものだ。
そして、わずかに身を乗り出しながら、彼女が内緒話をするみたく耳元に口を寄せるのが、くすぐったかった。
『指輪があるから、もうこれはいらないよね』
何を言われたのか分からなかったが、直後、身体の中に手を突き込まれたかのような、おそろしい感覚に撃たれたことと、周りの世界が、パズルのピースをずらすように、カチリと動く音を聞いたことだけは、はっきりと記憶している。
逆にいえば、それ以外はなにも分からない。けれど、それを境目に、何かが変わったのだということは、子供ながらに理解していたように思う。
小さな切り傷から、血が線のように浮き上がるのをぼんやりと眺め下ろす。
あのとき、彼女が私から取り去っていったものについて考えようとするたび、もやがかる頭の中には、決まって血の色をしたリボンが閃いた。その幻に魅入られているうちに、いつだって何もかもどうでも良くなってしまう。
彼女がいらないと判断したのだから、きっとそれで良いのだ。たとえ、私の視界を覆うように、柔らかなリボンを振りまく彼女の名前すら、欠片も思い出せなかったとしても。
(赤い糸)
いつも図書室の窓辺に寄りかかって、一心に手元の本を捲っていたあなた。
なぜか本を借りていくことは一度もなく、その場所で読むだけだったので、彼女の名前はついぞ知らないままだった。
ただ上履きの色から、最高学年だと分かっただけ。それだけ。
卒業式を翌日に控えた夕方、暮れゆく窓辺に寄りかかり、ふと私の方を向いた彼女の囁き声が、夢の残骸のように忘れられない。
──先生、命が燃える色って、きっとこういう色をしているんでしょうね。
その胸元に抱きしめられた、銀河鉄道の夜。
もしかして、あなたは、本当の幸いとやらを知って絶望していたの? それを確かめるすべは、もうどこにもない。
私にとって、カンパネルラよりも別れが惜しかった、名も知らぬ彼女は、今は、何色の空の下に佇んでいるのだろう。
(君と最後に会った日)