撫子

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 小指の先を不注意で切ってしまったとき、古い本を開いたときのように、ふいに幼いころの記憶が香った。

 あの頃、私の世界はひどく狭い箱庭で、そこで近所に住む、少し年上の女の子と過ごす時間こそが、すべてだった。

 いつだったか、白詰草で花冠を編んでいたとき、彼女が笑いながら、私の小指に細い茎を巻きつけたことがあった。青々とした薫りにむせ返りそうになりながら、笑いあった午後の庭。
 お花の指輪似合ってるね、と褒められた私は、甘い砂糖菓子を貰ったときのように、喜んだものだ。
 そして、わずかに身を乗り出しながら、彼女が内緒話をするみたく耳元に口を寄せるのが、くすぐったかった。

『指輪があるから、もうこれはいらないよね』

 何を言われたのか分からなかったが、直後、身体の中に手を突き込まれたかのような、おそろしい感覚に撃たれたことと、周りの世界が、パズルのピースをずらすように、カチリと動く音を聞いたことだけは、はっきりと記憶している。
 逆にいえば、それ以外はなにも分からない。けれど、それを境目に、何かが変わったのだということは、子供ながらに理解していたように思う。

 小さな切り傷から、血が線のように浮き上がるのをぼんやりと眺め下ろす。
 あのとき、彼女が私から取り去っていったものについて考えようとするたび、もやがかる頭の中には、決まって血の色をしたリボンが閃いた。その幻に魅入られているうちに、いつだって何もかもどうでも良くなってしまう。

 彼女がいらないと判断したのだから、きっとそれで良いのだ。たとえ、私の視界を覆うように、柔らかなリボンを振りまく彼女の名前すら、欠片も思い出せなかったとしても。

(赤い糸)

6/30/2023, 3:02:25 PM