一度だけ、世界を捻じ曲げてしまったことがある。
雪の降る朝だった。
真白い道を歩くたび、歩調にあわせて、背中のランドセルの中身がガタゴトと音を立てる。それしか聞こえない朝だった。すっかり身体に馴染んだランドセルとも、もうすぐお別れ。そう思うと急に愛おしく思えてくる通学路の途中、公園の前を通ったときだった。
そのとき、私はきちんと息が出来ていただろうか。
圧倒的な白の中に、この世のすべての色と輝きを集めたかのような振り袖を着た女の子が、ひとりでベンチに座っていた。
傘をさしていないにも関わらず、女の子の周りだけは雪さえ避けていく。
そして、女の子は一心に手元に視線を注いでいる。そこにあるのは、朝焼けを編み込んだような赤々とした糸で、その子は黙々とあやとりをしているようだった。
「あなた……」
つい声をかけてしまって、慌てて続きを飲み込んだが、女の子はすでに顔を上げてこちらを見ていた。ひどく驚いたように、瞳が揺れる。
次の瞬間、背後で何かがぶつかる音が響き、続けて自転車が倒れるような、とにかく派手な音が連続して巻き起こった。
ぼんやりと立ち尽くす私を見ていた女の子が、弾かれたように手元を動かしてあやとりを再開する。
ここに居てはいけない、と理由もなく思った私は、逃げるようにその場を離れた。
学校が終わり、家で夕方のニュース番組を見ながら、私はふと朝のことを思い出した。
「お母さん、今朝二丁目の公園のそばであった事故のニュースやらないね」
事故? とキッチンから振り向いた母の、怪訝そうに寄せられた眉を見たとき、私の胸をなにかとてつもなく恐ろしい予感が駆け抜けて行った。
「今日近所で事故なんて起きてないよ? やめてよ、変なこと言うの」
そうだよね、と言う以外に、私に何が出来たというのだろう?
(誰にも言えない秘密)
夜の国を、蜜色に輝くゴンドラが行く。
ゴンドラの中では乙女がふたり、光を纏う長い髪のなかに寝転び、手元に視線を注いでいた。
「ねえ、最近前より墜ちる星が多いと思わない?」
「地上が明るくなったからよ、きっと。目が眩んだのね」
黒々としたビロードには、いくつか小さな穴が見受けられる。彼女たちはその天幕から剥落した星の代わりに、模造品の硬玉を縫い留めていた。
「こんなこと続けていたら、いつかは全部がニセモノになっちゃうんだから」
「その頃には、わたしたちも解放されるでしょうから、そうしたらもっと広いところに行きましょう」
「そういえば、今ちょうど半分くらいかな?」
「そうね。これからもっと狭くなっていくのに、休みは月に一日だけなんて、ひどい話よね」
中天を超えて、ゴンドラは進む。
身を寄せ合いながら、夜空を繕う乙女を乗せて。半分ほどの広さになったゴンドラが、夜をゆるやかに滑り降りていく。
地上から見上げたなら、夜空に下弦の半月が光り、星も変わらず瞬いていることだろう。
(狭い部屋)
リリちゃんのこと、大好き。ずっと大好き。
初めてボクを見たリリちゃんが、あまいあまいお砂糖みたいに笑ってくれた、あのときから今日まで、いつだってリリちゃんのことだけ見てきたんだよ。
『莉梨ちゃん、お誕生日おめでとう』
『わあ! おおきなクマさん!』
リリちゃんの声も、寝顔も、ママに怒られて泣いちゃった顔も、みんな宝物。
リリちゃんがボクと一緒に遊んでくれたから、リリちゃんのお部屋、大好きだよ。
『ママ、この子の腕取れそう』
『あなた振り回すんだもの。縫ってあげるから、貸してごらんなさい』
『リリ、今度のお誕生日、ウサギさんが欲しいな。大きくてフカフカなの』
『この子くらい?』
『そう、その子くらいの!』
ボクを見てくれるリリちゃん、にっこりしてお日さまより眩しい。腕なんて、気にしなくていいから、また遊ぼうね。ママ、早く治してよ、リリちゃんが待ってるから。
『ハッピーバースデー、莉梨ちゃん』
『やったウサギさん! かわいい!』
新しいお友だちが来て、良かったね。リリちゃんが嬉しそうで、ボクも嬉しいよ。新入りさんも、リリちゃんと会えて嬉しそうだね。きっとすぐにこのお部屋が大好きになるよ。
『ねえ、本当にこのクマさん、もういらないの?』
『うん、汚れちゃったし、この子がいるから』
ママ、リリちゃんを怒らないであげて。
ウサギさん、リリちゃんをよろしくね。ボクの大好きな子なんだ。ボクの代わりに、リリちゃんとたくさん遊んであげてね。
リリちゃん、ウサギさんよりフカフカじゃなくてごめんね。汚れちゃってごめんね。
腕が取れちゃうくらい、たくさん遊んでくれたこと絶対忘れない。ボクの大切な思い出だよ。
バイバイ、リリちゃん。バイバイ、大好きなお部屋。ママも、ボクをここに連れてきてくれてありがとう。
ボクは次は、ウサギさんよりもっとフカフカに生まれ変わりたいなあ。
そうしたら、来年は、きっとまた、
(失恋)
明日天気になあれ。
自分にしか聞こえない大きさで口ずさみながら、小さく弾みをつけて下駄を飛ばしたのは、今ので一体何回くらいかしら。
そんなことより、明日天気になれ。お願いよ、どうか。
私の願いを知らぬ大人たちが、垣根越しに話す声が風に乗って、無情にも切なる祈りの庭にまで届く。
──嫌になるわね、明日は雨降りですって。
──本当に。でもここのところ、日照り続きだったから、いいのではなくて?
ちっとも良くないわ。雨など降らないで。明日だけは。明日天気になあれ。ほら、下駄は晴れると言っている。
(姉さま、こわいよ)
弟のか細い声が耳元に蘇り、思わず両手を胸の前で組み合わせた。
(大丈夫、姉さまがずっとついていてあげますからね。ほら、紙飛行機を折ってあげましょう。何色がいいの?)
大丈夫、大丈夫よ。
カサ、と胸の奥で乾いた音が悲痛な声を上げた気がした。
そこに仕舞ったのは、枕元で折った紙飛行機。天まで届けと願いをこめて折った、晴れた空の色をした、夢のひとひら。最後の夕方。
明日晴れたら、一緒に飛ばしましょう、と約束したものね。
あした、明日、あなたは白い灰になって、それから煙にもなって、高くお空に昇るのよ。もうお布団にいなくていいのよ、良かったわねえ。
だから、姉さま祈るわね。どうか明日は晴れて、あなたが青空を見れますようにと。
明日天気になあれ。
明日天気になあれ。
明日天気になあれ。
嗚呼、でもね。姉さま本当は、天気なんてどうでもいいわ。晴れでも雨でも嵐でも、なんでもいいから、もう一度あなたと一緒にお外を走り回って遊びたかった。だけど、それは永遠に叶わなくなってしまったから、せめて、晴れた空くらい見せてあげたいのよ。
明日
天気に
なあれ。
(天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、)
扉を開けた先に、天使を見た。
ストロボを受けたかのように白一色に眩んだ視界が、緩慢に輪廓を取り戻していく。
「どうしたの? 大丈夫?」
それは良く知る友人の声で、天使のように思われたのは、ウェディングドレスに身を包んだ彼女だったことに遅れて思い至った。
花嫁のための控室は、バニラアイスやホイップクリームよりも真っ白で、朝日よりも眩しい。
「そのワンピース、似合ってる」
「……嫌ね、花嫁さんに先に褒められるなんて」
ふふ、と控えめに笑う友人の薄いくちびるが、テラリと光を乗せて煌めいた。そのさまは、ケーキの上に飾られたフルーツを覆うゼラチンを思わせる。
友人のドレスは、ヴェールと同素材のフレンチスリーブが華奢な二の腕を強調する、クラシカルなデザインで、それは彼女にとても似合っていた。
「あまり、腕を出したくなかったのに」
沈黙を持て余したような空々しい呟きが、カーテンの白と光沢に弾かれて、乱反射して消えていく。落ち着かない様子で腕を擦る手までが、レースの手袋に覆われてうっすら白かった。
「もうすぐ彼が来るわよね。私も、そろそろ会場に行くから」
これ以上ここに留まったら、私の中の何かが漂白されてしまう。
「あ、待って。ねえ、わたし、ちゃんと綺麗かな……?」
なにを今更、と出かかった言葉を飲み込んだ。不安そうに揺れる瞳は、このあと彼の姿を認めて、はにかみながらほどけるだろうに。
「当たり前でしょう。綺麗すぎてびっくりしたもの。ほんとうに、天使みたいよ」
「……ありがとう。でもちょっと大袈裟」
ほんとうよ。ほんとうに、あなたはどの瞬間も天使みたいだった。ドレスなんか無くたって、嘘みたいに綺麗だったんだから。
あとでね、と微笑んで退出する。
小さく頷きながら、やはり戸惑ったように腕を抑える彼女の指の震えをとめてあげるのは、もう私の役目ではない。
廊下を歩きながら、おめでとうを言いそびれたことに気付いて、笑い出しそうになってしまった。
おめでとう、と花束を渡すような軽やかな気持ちで言えたら良かった。
行こう、新婦の友人のための場所へ。
そして、晴れやかな笑顔で、新郎とともに歩む彼女を、心から祝福しよう。
あのね、私には、こんなパーティードレス、似合っていないと正直に言ってくれて良かったのよ。
(半袖)