──彼の有名な文豪が愛の告白を「月が綺麗ですね」と訳したお話は、ご存知でしょう?
──私? 私だったら、そうはしないかしら。
──なぜって、雲に覆われたくらいで隠れるような気持ちなら、そもそも伝えようと思わないもの。それに満ち欠けする月を持ち出すなんて、不実な娘だと思われてしまうじゃない。
──日本人なら、というお話だというのはもちろん承知の上で言ってるのよ。けれどね、私なら、もっとはっきり云うわ。あなたにはもう、お分かりなんじゃない?
──まあ、意地悪なひと。いいわ、言って差し上げる。今のあなた、月さえ霞むほどに、何よりも誰よりもいちばん綺麗よ。
(月に願いを)
足元で跳ねる水音と、傘の表面ではじける水音、そのどちらも違ってどちらも好きだ。多くの人が顔を曇らせる中、機嫌良くバイト帰りの道を歩いていた私は、家のすぐそばの道で、突如、奇跡に出くわした。
その奇跡は、小さな女の子のかたちをしていた。びしょ濡れで地面に倒れている姿は、絡みつく長い髪も相まって、さながら打ち上げられた人魚を思わせる。
それどころではない、としゃがみこんで、数回そっと肩を揺すってみた。反応はない。だが、弱々しくも生きているぬくもりを感じた。
救急車、と思ったが、身元も分からない以上、まずは親御さんを探すほうが先だろうと、抱き上げようとしたとき、女の子が目を覚ました。
それはまさに真珠のような瞳だった。虹色に光る不思議な色に見惚れていると、作り物のように小さなくちびるが動き、なにかを喋ろうとしているので、咄嗟に耳を近付ける。
「あなた、だあれ?」
たしかにそう聞こえた。喋れるのか、と当たり前のことに感嘆したのは、彼女があまりにも、非現実的な美しさを備えていたせいかもしれない。
「だあれ?」
「あ、ごめんね。私は希子、あなたは?」
「きこ、きこ。あたし、なまえ、わからない」
「おうちは?大人の人と一緒じゃないの?」
「おとうさま、おしごとしてる」
「お父さんはどこでお仕事してるの?」
「……とおく」
さて困った。けれど、とりあえず風邪を引かせないためにも、ここから動かなくては。
「あとで交番に一緒に行こう。でもそのまえに、うちで身体をあっためていって?」
「こうばん?」
「もしかしたら、お父さんがあなたを探しているかもしれないからね」
黙って俯いた彼女の長い睫毛から、雨粒だろう雫がひと粒落ちる。しっかりと手を繋いで傘を傾けながら、そこからほど近い、独り暮らしのアパートへと向かった。
部屋についてからすぐに暖房をつけ、お風呂にいれてあげると、女の子は時折身体を強張らせながらも、終始大人しかった。
私の部屋着のTシャツをワンピースのように纏った女の子に、ホットミルクを手渡してやる。本当はココアなんかがあれば良かったのだけれど、あいにくうちにはコーヒーと緑茶しか無い。
天地を縫い合わせるかのごとく降りしきる雨を、ベランダの窓に向かって座った女の子の隣に腰を下ろして、同じようにぼんやりと眺めた。
「きこ、あめ、こまる?」
「ううん。私、雨好きだから。少しなら、嬉しくなっちゃう」
「そう……。きこ、おとうさまがあたしをさがしてるから、かえるね」
「え、帰れるの? お父さんはお仕事なんでしょう?」
「うん、でも、かえるね。ありがと、きこ。あたしがおとなになったら、またあいにくるね」
待って、と言おうとした声は言葉にならず、中途半端に伸ばした手は、直後視界を灼いた閃光の中で彷徨っただけだった。
ひどく長い時間が経ったように思いながら、おそるおそる開けた目が捉えたのは、窓の向こうを稲光が白く幾筋も走るさまで、あの光は稲妻だったのだろうか、と何気なく隣を見下ろすと、そこにはなぜか私のマグカップが置いてあった。触れると、まだ少し暖かい。白い中身はミルクだろうか? なぜ?
首を傾げているうちに、雨は小降りになっていたらしく、光の中にうっすらと虹がかかっていた。たしかに私物でありながら、なぜミルクなどが入っていたのか分からないままのマグカップを洗う。その間、冷たい風が通り抜けていくような、不可思議な孤独感が胸を満たしていた。
***
雨音に、夢から這い上がる。
目に映るのは、見慣れた病室、点滴、古枝のように干からびた私の腕。夢の中の私はまだ若かった。
ベッドから窓に視線をうつすと、やはり雨が降っている。いつから降っていたのか。
再び目を閉じようとしたとき、ガラリと、開くはずのない窓が開く音が響きわたった。
「きこ、お久しぶりね」
空気が、美しい乙女の姿に結晶していた。
波打つ髪は床にひろがるほど長く、そよ風をうけているかのように軽やかに揺れている。なにより、その大きな真珠のような瞳を知っている、と思った。
「……これは夢の続き?」
「いいえ、きこ。わたしはここに居る。大人になったら会いに行くって言ったでしょう?」
「そう、あれは本当の出来事だったの」
「あのときは、きちんとしたお礼が言えなくてごめんなさい」
ふわり、と花笑みを浮かべる彼女は、すっかり美しい乙女。だけども、私は。
「ごめんね、私ばかりこんなおばあちゃんになっちゃって、びっくりしたよね」
「いいえ、きこは変わらないわ。信じられないのなら、わたしの手を取って、さあ」
細くしなやかな手が伸ばされ、なにも考えずに言われた通りにすると、身体が浮き上がりそうに軽くなった。というか、実際足元は浮いている。
「ほら、見て、きこ」
彼女が差し出した手鏡に映るのは、先程の夢の中のような若い私。見れば、乾いていた手も、嘘のように瑞々しさを取り戻している。
「あなた、天使だったの?」
「いいえ、違うわ。それより、お話はうちでしましょう。お父様に頼んで、きこのためのパーティーの準備をしてあるの」
行きましょう、と世にも美しく微笑む彼女の手を握り返しながら、ふと振り返ってベッドを見ると、そこには歳を重ねた私が沈み込んでおり、眠っているようにしか見えなかった。
無性におかしくなって、ふふ、と小さく笑ってしまう。
「きこ、あの日のお礼よ、楽しみにしていてね」
「うん、こっちこそありがとう」
雨は、いまや金色の光となって、宙を舞う私たちふたりを、あたたかな繭のように包み込んでいた。
(いつまでも降り止まない、雨)
おじいさん、聞いてくださいな。
わたしはね、欲張り婆さんなんて呼ばれているけれど、おじいさんも知っての通り、そんなふうに生きたくはないんですよ。日々感謝をして、人様のご厚意も申し訳無く思いながら受け取っているくらいなんです。
それなのにね、あんまりじゃあありませんか。
お腹をすかせて米でできた糊を食べただけの雀さんの舌を、あろうことかハサミで切るなんて。それがわたしの役目だなんて、酷すぎるでしょう。あんなに可愛らしい雀さんの小さな舌を切るくらいなら、わたしは舌を噛んで自害してしまいたい思いですよ。
でもね、ちゃんと分かっていますよ。
わたしがその役目をまっとうしないことには、世に言う『舌切り雀』のお話にならないことも、ええ、分かっておりますとも。
だからね、わたしは明日も意地悪な欲張り婆さんとしてハサミを振るうし、重いつづらだって背負いましょう。
こうして毎日糊をこしらえるのだってね、本当はもう飽き飽き。だけど、これがわたしに与えられたお役目なんですから、まあ、やっていくしかありませんよねえ。
おじいさんも、舌を切られると知っていて、毎日雀さんを捕まえてくるのは、さぞやお辛いでしょう。分かりますよ、わたしには。
仕方ないことですものねえ。明日も頑張りましょうかね。
(逃れられない呪縛)
夢のなかだ、とすぐに気が付いた。
明晰夢というものを割とよく見るたちで、そういうときは決まって、マンゴージュースのような烈しい橙色の夕陽に染まる自室に立っている。今日も、電気を消して暗闇にしたはずの部屋が、目にも鮮やかなオレンジ色に変わっていた。
すると突如、電子音が響き渡る。少し考えてから、それが聞き慣れたスマホの着信音であることに気付き、特に慌てることもなく部屋着のポケットに手を入れると、やはりそこには硬く薄い感触があった。
取り出したスマホの画面では、起きているときと同じ、着信を訴えるアイコンが踊っている。「非通知」と表示されているのが、いかにも夢の中という感じがして、お約束加減に少し笑ってからアイコンをタップした。
耳を澄ますと、電波の悪いラジオのように、ひどくノイズ混じりの音が聞こえた。
──し、もし、もしもし、聞こえますか?
聞こえますよ、と返事を返すと、電話の向こうで安堵したように息を吐き出す気配がした。
聞こえた声は、機械音のようで、性別はおろか人間なのかすら判別できない。
──やっと、繋がりました。あまり時間がないので手短に。突然ですが、わたくしはあなたの生まれ変わりです。驚きますよね、ごめんなさい。
はあ、という気の抜けた声が出た。夢にしても、今日はあまりに突飛だ。驚きすぎて、逆に冷静になってしまう。
──死後の世界やら来世の有無について議論する余裕はないので、どうかただわたくしの言うことを聞いてください。あなた方は知らないけれど、あなたたちが過ごす時間は一定期間のループの中にあります。
SFっぽくなってきたな、と冷めた感想しか浮かばない。
──いつからいつまでがループなのかは検閲事項のためお教えできませんが、結論から言うと、昨日の日没をもって既存のループは終わり、明日からは別のループに突入します。
そうなんですか、と言う以外に何が言えただろう。
──そして、誠に残念ながら、あなたは次のループの中で命を落とします。もちろん寿命ではなく。
死ぬんですか、私。今更だが、これは本当に夢だろうか。
──いつどのように死ぬかについても、やはりお伝えできません。申し訳ありません。ただ、来世のわたくしからひとこと申し上げます。
なんでしょうか、と初めて返答と呼べる言葉を返すことができた。
──なんの心配もいりません。怖くないですよ。だけど、食べたかったものは食べて下さい。見たかった映画やドラマも見ておいて下さい。いつか読もうと思っている本も、読めるだけ読んで下さい。言いたいことがある人には、それを伝えて下さい。とにかく、考えうる限り、未練が残らなそうなことをしてください。あなたの未練がひとつでも減れば、生まれ変わりであるわたくしも……。いえ、なんでもありません。ああ、時間です。さようなら、前世のわたくし。検討を祈ります。
最後にまた耳障りなノイズを発して、不可思議な声は聞こえなくなった。無音のスマホを握りしめて立ち尽くす。
あんな話を信じるのは馬鹿馬鹿しいことだと思えたが、それでももし、万が一にも本当だったとしたら。
目覚ましの音で目が覚めた。
部屋はオレンジ色などではなく、当たり前だがカーテンの上部から漏れる朝日しか見えない。
緩慢に身体を起こして、ひとつため息をついた。なぜか急に納得したのだ。
よし、結果がどうであれ、後悔を残さないことに全力を注ごう。死ぬのは今日なのか明日なのか分からないのだから、とそこまで考えて、そもそも私達はあの妙な警告がなくとも、いつ終わるともしれない生命を抱えて生きていたんだった、と今になって実感した。
さあ、文字通り、死ぬ気で生きてみようか。
(昨日へのさよなら、明日との出会い)
「この泥が あればこそ咲け 蓮の花」
隣で、いつものことながら文庫本に視線を向けたまま、ひとりごとのようにつぶやく幼馴染みの声に顔を上げた。
「なに?」
「与謝蕪村よ。好きなの」
へえ、と気がない返事を返すも、彼女は特に気にしたふうでもない。凛と伸ばされた背を覆う艶のある黒髪は、あつらえたように彼女という人間に相応しかった。それが、深夜のコンビニがお似合いの、あたしのような女と一緒にいるのだから、通り過ぎる人々が気遣わしげな視線を投げかけるのにも頷ける。
隣に顔を向けると音もなく視線がかち合い、その見るものを一瞬で虜にしてしまうような、たおやかな笑みを、つい無防備に受け止めてしまった。これは彼女の昔からのもので、狙っていない天性のものなのだから、この世は狂っている。
「ねえ、あなたはこんな泥水みたいなわたしのそばにいても、ずっと咲かない蓮でいてね」
「何言ってるの、あたしは蓮じゃないし」
「いじわるね。たとえのお話よ、分かって?」
ふつふつと湧き上がる憎らしさを苦労して飲み下し、脚を組み替える。癖で爪を噛むと、嫌な音が頭に直接響くようだった。
彼女はずっとこうだ。
地元を出て進学し、早々にアイドルのような新入生がいると聞いたときに、胸に広がった嫌な予感は的中してしまった。彼女は今やキャンパス中の有名人。誰しも、あたしのような奴といるべきではない、清らかな天上の花のように捉えていることだろう。澄み切った泉に咲き誇る、美しい花だと。
浮かんだ考えに、冗談じゃないと舌打ちをした。この子は、地上のすべての植物を悪気なく枯らす猛毒なのに。それを誰も知らない。あたし以外、誰も。
あんたは誤解をしている。あんたは一生泥水などにはなれない。その残酷な清涼さでもって、あたしを決して芽吹かせない清い水がお似合いだ。そして一点の濁りもない友人たちに囲まれて、咲けない蓮にでもなってしまえ。
憐れまれているのを知ってか知らずか、彼女が肩をすくめて、例の笑顔を浮かべた。
(透明な水)