撫子

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 足元で跳ねる水音と、傘の表面ではじける水音、そのどちらも違ってどちらも好きだ。多くの人が顔を曇らせる中、機嫌良くバイト帰りの道を歩いていた私は、家のすぐそばの道で、突如、奇跡に出くわした。

 その奇跡は、小さな女の子のかたちをしていた。びしょ濡れで地面に倒れている姿は、絡みつく長い髪も相まって、さながら打ち上げられた人魚を思わせる。
 それどころではない、としゃがみこんで、数回そっと肩を揺すってみた。反応はない。だが、弱々しくも生きているぬくもりを感じた。
 救急車、と思ったが、身元も分からない以上、まずは親御さんを探すほうが先だろうと、抱き上げようとしたとき、女の子が目を覚ました。

 それはまさに真珠のような瞳だった。虹色に光る不思議な色に見惚れていると、作り物のように小さなくちびるが動き、なにかを喋ろうとしているので、咄嗟に耳を近付ける。

「あなた、だあれ?」

 たしかにそう聞こえた。喋れるのか、と当たり前のことに感嘆したのは、彼女があまりにも、非現実的な美しさを備えていたせいかもしれない。
「だあれ?」
「あ、ごめんね。私は希子、あなたは?」
「きこ、きこ。あたし、なまえ、わからない」
「おうちは?大人の人と一緒じゃないの?」
「おとうさま、おしごとしてる」
「お父さんはどこでお仕事してるの?」
「……とおく」

 さて困った。けれど、とりあえず風邪を引かせないためにも、ここから動かなくては。
「あとで交番に一緒に行こう。でもそのまえに、うちで身体をあっためていって?」
「こうばん?」
「もしかしたら、お父さんがあなたを探しているかもしれないからね」
 黙って俯いた彼女の長い睫毛から、雨粒だろう雫がひと粒落ちる。しっかりと手を繋いで傘を傾けながら、そこからほど近い、独り暮らしのアパートへと向かった。

 部屋についてからすぐに暖房をつけ、お風呂にいれてあげると、女の子は時折身体を強張らせながらも、終始大人しかった。
 私の部屋着のTシャツをワンピースのように纏った女の子に、ホットミルクを手渡してやる。本当はココアなんかがあれば良かったのだけれど、あいにくうちにはコーヒーと緑茶しか無い。
 天地を縫い合わせるかのごとく降りしきる雨を、ベランダの窓に向かって座った女の子の隣に腰を下ろして、同じようにぼんやりと眺めた。
「きこ、あめ、こまる?」
「ううん。私、雨好きだから。少しなら、嬉しくなっちゃう」
「そう……。きこ、おとうさまがあたしをさがしてるから、かえるね」
「え、帰れるの? お父さんはお仕事なんでしょう?」
「うん、でも、かえるね。ありがと、きこ。あたしがおとなになったら、またあいにくるね」

 待って、と言おうとした声は言葉にならず、中途半端に伸ばした手は、直後視界を灼いた閃光の中で彷徨っただけだった。
 ひどく長い時間が経ったように思いながら、おそるおそる開けた目が捉えたのは、窓の向こうを稲光が白く幾筋も走るさまで、あの光は稲妻だったのだろうか、と何気なく隣を見下ろすと、そこにはなぜか私のマグカップが置いてあった。触れると、まだ少し暖かい。白い中身はミルクだろうか? なぜ?
 首を傾げているうちに、雨は小降りになっていたらしく、光の中にうっすらと虹がかかっていた。たしかに私物でありながら、なぜミルクなどが入っていたのか分からないままのマグカップを洗う。その間、冷たい風が通り抜けていくような、不可思議な孤独感が胸を満たしていた。

 ***

 雨音に、夢から這い上がる。
 目に映るのは、見慣れた病室、点滴、古枝のように干からびた私の腕。夢の中の私はまだ若かった。
 ベッドから窓に視線をうつすと、やはり雨が降っている。いつから降っていたのか。
 再び目を閉じようとしたとき、ガラリと、開くはずのない窓が開く音が響きわたった。

「きこ、お久しぶりね」

 空気が、美しい乙女の姿に結晶していた。
 波打つ髪は床にひろがるほど長く、そよ風をうけているかのように軽やかに揺れている。なにより、その大きな真珠のような瞳を知っている、と思った。

「……これは夢の続き?」
「いいえ、きこ。わたしはここに居る。大人になったら会いに行くって言ったでしょう?」
「そう、あれは本当の出来事だったの」
「あのときは、きちんとしたお礼が言えなくてごめんなさい」

 ふわり、と花笑みを浮かべる彼女は、すっかり美しい乙女。だけども、私は。

「ごめんね、私ばかりこんなおばあちゃんになっちゃって、びっくりしたよね」
「いいえ、きこは変わらないわ。信じられないのなら、わたしの手を取って、さあ」

 細くしなやかな手が伸ばされ、なにも考えずに言われた通りにすると、身体が浮き上がりそうに軽くなった。というか、実際足元は浮いている。

「ほら、見て、きこ」

 彼女が差し出した手鏡に映るのは、先程の夢の中のような若い私。見れば、乾いていた手も、嘘のように瑞々しさを取り戻している。

「あなた、天使だったの?」
「いいえ、違うわ。それより、お話はうちでしましょう。お父様に頼んで、きこのためのパーティーの準備をしてあるの」

 行きましょう、と世にも美しく微笑む彼女の手を握り返しながら、ふと振り返ってベッドを見ると、そこには歳を重ねた私が沈み込んでおり、眠っているようにしか見えなかった。
 無性におかしくなって、ふふ、と小さく笑ってしまう。

「きこ、あの日のお礼よ、楽しみにしていてね」
「うん、こっちこそありがとう」

 雨は、いまや金色の光となって、宙を舞う私たちふたりを、あたたかな繭のように包み込んでいた。

(いつまでも降り止まない、雨)

5/25/2023, 1:15:59 PM