撫子

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「この泥が あればこそ咲け 蓮の花」
 隣で、いつものことながら文庫本に視線を向けたまま、ひとりごとのようにつぶやく幼馴染みの声に顔を上げた。
「なに?」
「与謝蕪村よ。好きなの」
 へえ、と気がない返事を返すも、彼女は特に気にしたふうでもない。凛と伸ばされた背を覆う艶のある黒髪は、あつらえたように彼女という人間に相応しかった。それが、深夜のコンビニがお似合いの、あたしのような女と一緒にいるのだから、通り過ぎる人々が気遣わしげな視線を投げかけるのにも頷ける。

 隣に顔を向けると音もなく視線がかち合い、その見るものを一瞬で虜にしてしまうような、たおやかな笑みを、つい無防備に受け止めてしまった。これは彼女の昔からのもので、狙っていない天性のものなのだから、この世は狂っている。
「ねえ、あなたはこんな泥水みたいなわたしのそばにいても、ずっと咲かない蓮でいてね」
「何言ってるの、あたしは蓮じゃないし」
「いじわるね。たとえのお話よ、分かって?」
 ふつふつと湧き上がる憎らしさを苦労して飲み下し、脚を組み替える。癖で爪を噛むと、嫌な音が頭に直接響くようだった。
 
 彼女はずっとこうだ。
 地元を出て進学し、早々にアイドルのような新入生がいると聞いたときに、胸に広がった嫌な予感は的中してしまった。彼女は今やキャンパス中の有名人。誰しも、あたしのような奴といるべきではない、清らかな天上の花のように捉えていることだろう。澄み切った泉に咲き誇る、美しい花だと。
 浮かんだ考えに、冗談じゃないと舌打ちをした。この子は、地上のすべての植物を悪気なく枯らす猛毒なのに。それを誰も知らない。あたし以外、誰も。

 あんたは誤解をしている。あんたは一生泥水などにはなれない。その残酷な清涼さでもって、あたしを決して芽吹かせない清い水がお似合いだ。そして一点の濁りもない友人たちに囲まれて、咲けない蓮にでもなってしまえ。
 憐れまれているのを知ってか知らずか、彼女が肩をすくめて、例の笑顔を浮かべた。

(透明な水)

5/21/2023, 11:15:52 AM