まだ知らない世界
もうすぐミドルスクールに上がるという頃。同級生の女の子たちは好きな人の話に花を咲かせていた。
「ねぇ、××はいないの?好きな人」
この手の話題を振られるのは苦手だった。
“好きな人”
そう言われて真っ先に思い浮かぶのは、ただ一人。
近所に住んでる年上の男の人。
その人は私より十四歳も年上で、私がもっと幼い頃から彼の家の庭で遊んでもらっていた。
『ねぇDくん、これは?』
『ああ、それはシロイルカだな。シロイルカの歯は魔法薬にも使われている』
博識な彼の家にはたくさんの本があった。私はそのほとんどを理解することなんて出来ないのに、彼と話せるのが楽しくて何度も読んでほしいとせがんだ。
彼は幼い私の言うことを邪険にせず、私の知らない世界をたくさん教えてくれた。
優しくてカッコよくて、大人びた彼の姿は同級生の誰とも違った。
でもその想いが彼女たちが話している恋と同じなのかはわからない。
彼女たちが名前をあげるのは同じクラスの男の子や数個上の先輩たちばかり。
好きな人と聞かれて十四歳も年上の人をあげるのは何だか普通じゃない気がして言えなかった。
「うーん、今はいないかな」
「えー!○○とかは?カッコよくない?」
「あはは、いい人だとは思うよ」
のらりくらりと躱しつつ、場をしらけさせない程度に相槌を打つ。
「今朝、話しかけられたの!」「週末デートに誘っちゃった」そう口々に話す彼女たちの話題が尽きることはない。
彼女たちの笑い声は心地よいけれど、どこか遠い。
恋なんてよくわからない。それが本心だった。
ミドルスクールに上がれば何か変わるのだろうか。
誰かを好きだと素直に言えるようになるのだろうか。
家に帰ると白い花が目に入った。
彼の家の庭に咲いているのと同じ花。
昔、彼の家で転んでその花を折ってしまったことがある。
彼は怒ることなく私を心配してくれて、帰る時には折れていない花を私にくれた。
その時、確かに好きだと思った。
でも今思えばそれは憧れのようなものに近い気がする。
憧れと恋。その違いが今の私にはわからなかった。
手放す勇気
丸みを帯びた頬に手を添え、顔を寄せる。鼻先が触れ合うほどの距離。
目を閉じてキスを待つ先輩は可愛い。正直焦らしたくなるけど、それをすると先輩は素直に応じてくれなくなるから大人しく唇を合わせる。
何度目のキスかなんて覚えていない。どうせこれからも何度だってするのだから。
しばらくして先輩の手がやんわりとオレの胸を押し唇が離れる。
キスをしたあとだというのに顔を合わせた先輩はどこか悲しげな表情を浮かべていた。
「……別れよう」
驚きはしなかった。なんとなくそう言われる気がしていたから。
それにしても今言う?
きっとさっきのキスは最後の思い出とか思ってんだろうけど、眉を寄せずにはいられなかった。
「なんで別れたいの?先輩まだオレのこと好きじゃん」
先輩がオレを嫌いになったとか、他に好きな人ができたとか、そんな理由で別れを告げたわけじゃないのはわかっていた。
「もうすぐ卒業だから?」
言うと同時に先輩は目を揺らしてグッと唇を噛んだ。
そんなに強く噛んだら切れちゃうでしょ。そう言って手を伸ばしたくなるけど、今手を伸ばせば流されてしまう気がして堪える。
「……そうだよ。卒業したらきっと今までみたいにはいかないから」
ほら、やっぱり。予想通りすぎて思わずため息がこぼれる。
「あのさぁ、そりゃ今まで通りとはいかないだろうけど、卒業したからってオレも先輩もいなくなるわけじゃない。会いたかったら会えばいいし、話したかったら連絡すればいい。それだけのことじゃん」
先輩は卒業したらこの関係が希薄になると決めつけている。
どうせ終わるのなら早いうちに、なんて勝手に幕を下ろそうとして。
「先輩は卒業と同時にオレらの関係も終わりって考えてるのかもしんないけど、オレ別れる気ないから」
「……でも離れてみたら考えも変わるかもしれない」
「オレそんな軽いやつだと思われてんの?」
「……そういうわけじゃなくて」
「じゃあなんで?なんでそんなに別れたがるの?」
声が少しだけ強くなる。だって意味がわからない。
「好きだから別れない。それでいいじゃん」
「でも……」
先輩が最初からこの関係に終わりを見据えていたことも、いつかは終わるものだと決めつけて距離を取っていたことも、全部わかっていた。
先輩は臆病だから先回りして勝手に終わらせようとする。
面倒くさい人だ。でもそんなとこも含めて可愛いと思ってしまったのだから仕方ない。
オレは黙ったまま俯き続けている先輩をギュッと抱き寄せた。
「そんな泣きそうになるくらいなら別れようなんて言わないで隣にいてよ。オレは先輩のことが好きなんだからさ」
手放す勇気なんかより諦めない勇気を持ってよ。
酸素
水やりを終えたらすぐに帰るつもりだった。
なのに、なぜだかその気になれなくて、空になった如雨露を手にしたまま濡れた葉をぼんやりと眺めていた。
「ねー、なにしてんの?」
不意に背後から声がしたが反応はしなかった。というより、それが自分に向けられたものだと思わなかった。
葉の先から零れ落ちた雫が地面へ小さなシミを作っていく。ただそれだけを見ていた。
ふと、潮風のような匂いが鼻をかすめた。
――海の匂い?
そんな疑問が浮かぶより早く、誰かの影が私に覆いかぶさった。
「……無視?」
耳元に落ちた声に心臓が跳ねる。
驚いて振り向くとすぐそばにFがいて、こちらをじっと見つめていた。
「……ごめん、無視をしたつもりはなかった」
少し遅れてそう答えた声は我ながら硬かった。
不意をつかれたせいもあるが、何よりFに話しかけられる理由がわからなかった。
学年も違えば、所属している部活も委員会も違う。Fとの接点を探す方が難しい。むしろ接点があるとすれば、それはFではなく彼の兄の方だろう。同じ役職持ちで、部活こそ違うものの、この植物園にもよく訪れている彼とは顔を合わせることも多かった。
「それ面白い?」
こちらの様子など気にすることもなく投げかけられた言葉に、すぐに反応することが出来なかった。何のことだと戸惑っているとそれが伝わったのか、Fは更に言葉を続ける。
「葉っぱ。ずっと見てたから」
その一言に思わず葉に視線を落とす。
そんなに見ていただろうか。
どうやら時間のことも忘れ、葉に夢中になっていたらしい。
「……ちょっと、ぼーっとしてただけだよ」
Fはそれ以上何かを言うことはなく、「ふーん」とだけ返して、すっと私の隣にしゃがみ込んだ。
Fは何をしに来たんだろう?
そう思ったが、偶然通りがかっただけかもしれない。わざわざ聞くほどのことでもないか、と口に出すことはしなかった。
私はその場に立ったまま、帰った方がいいのか、それとも何か話した方がいいのか、そんなことを考えていた。
「ねぇ」
不意にかけられた声になんとなく顔を向けると、しゃがんだままこちらを見上げているFと目が合った。
Fは私よりずっと背が高い。そんなFに見上げられているというだけで何だか少し不思議な気分になる。
新鮮だな、なんてどうでもいいことを考えていると、目の前のFが静かに口を開いた。
「好きだよ」
その言葉はあまりにもあっさりと落とされた。
「……え?」
間の抜けた声が出た。けれど、Fはそんな私を気にする様子もなく言葉を重ねる。
「オレと付き合って」
その一言に思わず目を瞬かせる。
あまりにも自然で一瞬聞き間違いかとすら思ったそれはどうやら聞き間違いではないらしい。
けれど、理解は追いつかず私はただ黙って立ち尽くすことしかできない。
何も言えずにいるとFがゆっくりと立ち上がった。
ただそれだけの動作なのに、近くなった距離に思わず後ずさりしそうになる。
「先生を好きなのは知ってる」
その言葉に喉の奥がひゅっと凍ったような気がした。
――どうして
Fは先生としか言わなかった。けれど、それだけでFがすべて知っていると理解するには十分だった。
どうしてバレた?どこかで気付かれるようなことをした?
隠してた。ちゃんと隠していたはずなのに──
心臓が早鐘を打つ音だけがうるさく響いて、視界の端がじわじわと暗くなる。
「……そんな顔しないで」
耳元に落ちた声がやけに鮮明に響いて、思考が現実に引き戻される。
そんなに酷い顔をしていただろうか。
自分の表情がどうなっているのかなんてわからない。
「オレが気づいたのはアンタのせいじゃない。多分オレ以外に気づいてるやつもいないと思う」
「……じゃあ、どうして」
答えを求めているというより、ただ混乱を吐き出すように零れた言葉だった。
「言ったでしょ。オレ、アンタが好きなんだよ。好きな人のことくらい、わかるよ」
落ち着き払った声と、変わらない表情。
Fはどこまでも淡々として見えた。
私だけがこんなにも乱されていて、気づけばもう、言葉すら出てこなかった。
「先生を好きなままでいいよ。それでもいい、だから──」
「オレと付き合ってよ」
まるで日常の会話みたいにFは静かにそう言った。
けれど、そこには確かな熱があって、私の心を静かに追い詰めるようだった。
何かを確かめるみたいにFの手がゆっくりと私に向かって伸びてくる。
いつだったか、たまたま触れたFの手の冷たさに驚いたことがある。
けれど、頬に触れたその手は私よりもずっと熱かった。
答えを出さなきゃいけないことはわかっていた。
でも、頭の中はとっくにぐちゃぐちゃで、私は思考を放棄した。
それが狡いことだとわかっていながら、私は目を閉じた。
まるで酸素を奪われるような
あたたかくて、ひどく、やさしいキスだった。
風のいたずら
本来であればホールで働いている時間、急遽シフトが変わり予定がぽっかり空いてしまった。
せっかくなら恋人である彼女と過ごしたいが、以前会った時に今日は予定があると言っていた。──だから僕も今日シフトを入れていたのだ。
彼女は何かと忙しい人だ。この学園では珍しい穏やかな性格に寮の内外問わず頼られている姿をよく見かける。
一見するとただのお人好しのように見えるが、しれっと自分の利益を得るような強かさも彼女にはあった。
そんな彼女を僕はとても好ましく思っている。
彼女と過ごすのは諦め、何をしようかと部屋を見渡す。やりたいことはいくつかあった。少し考え、テラリウムを作ろうとガラスの容器を手に取る。
最近は作る時間が取れておらず手をつけられずにいたが、入れたいものはたくさんあった。僕は必要なものを揃え、机に向かった。
黙々と作業を続けていたが、素材が足りなくなり手が止まる。ふと時計を見ると、作り始めてからかなり時間が経っていた。
今日はここまでにしておいてもいいが、せっかくなら完成させてしまいたい。
そうと決まれば購買部まで買いに行こうと財布を手に取った。
外に出ると随分と冷え込んでいることに気がついた。嫌な予感がして購買部へ向かうのはやめ、寮へと引き返す。
スマホを取り出し彼女に電話をかけるが繋がらない。
忙しくて出られなかったという可能性もあるが、何となくそうではないと思った。
自室に戻りマフラーを手に取るとまたすぐに外へと飛び出した。
今日はどこにいるのだろうか。
考えていても仕方がないので一先ず植物園の方へと歩を進める。植物園へ向かう途中、探していた後ろ姿を見つけ足を速めた。
今日は随分と早く見つけられた。
声をかけると彼女は僕が来ることをわかっていたのか擽ったそうに笑った。
その笑顔に胸が少しだけときめく。
しかし、冷え込む空気の中で防寒具ひとつ着けていない彼女を見て、思わず顔をしかめてしまう。僕は手に持っていたマフラーを迷わず彼女の首に巻いた。
「ちゃんと暖かい格好をしてください」
「はは、ありがとう。でも君だって人のこと言えないんじゃない?」
そう指摘された僕も彼女と同じ制服姿だった。
「僕は寒さに強いからいいんです。それに貴方は案外身体が弱いんですから。以前風邪を引いて看病されたことをお忘れですか?」
「……耳が痛いな」
誤魔化すように目を逸らした彼女はどこか楽しそうだった。
「あまり心配させないでください。ところで一応お聞きしますが、スマホはどちらに?」
「ああ、部屋に置いてきた」
逸らしていた目を再びこちらに向けた彼女は飄々とそう答えた。
「……以前もスマホは常に持ち歩いてくださいと言ったと思うのですが」
「そうだね」
「……わざとですよね」
「さあ、どうだろう?」
「……もういいです」
随分と楽しげな彼女に、これ以上言っても無駄だと諦め、代わりにずっと気になっていたことを聞いた。
「どうして貴方は寒い日に限って出歩くんですか。しかもそんなにも薄着で。今日は風だって吹いているのに」
寒い中、出歩く彼女を捕まえるのは今日が初めてではなかった。
彼女はそんなことを聞かれると思っていなかったのか少しきょとんとした後、また楽しげな表情を浮かべゆっくりと口を開いた。
「賭けをしてるんだ。君に会えるかどうか。寒い日に三十分だけ」
どういうことだろうか、と考えていると彼女は更に言葉を続けた。
――だって
「寒い中、出歩いてたら君は心配して探しに来てくれるでしょ?」
彼女から返ってきた言葉に小さく目を見張る。
ああ、なんて傲慢なんだろう。
この人は僕が自分を探さないわけがないと思っている。
彼女が他者に何かを求めることは少ない。そんな彼女が僕にだけ見せる傲慢さ。その一面にゾクゾクした。
彼女はわかってて言っているのだろうか。これが故意だと言うのなら僕はまんまと彼女の手のひらで転がされているし、無意識だとしたらタチが悪すぎる。
彼女は三十分だけと言っていたが僕にはそれを確認する術がない。
一体いつからいたんですか、とか。
僕が来なかったらどうするつもりだったんですか、とか。
会いたいなら素直に呼んでください、とか。
言いたいことは次から次へと溢れてくるのに何一つ口から出ることはなく、僕は無言で彼女を抱きしめていた。
いつだって僕は彼女に敵わない。
僕はこの先も何度だって彼女を探すのだろう。
透明な涙
泣いているように見えた。
それが酷く煩わしかった。
――だから連れ去った。
***
昼休み、渡り廊下を歩いていると不意に後ろから腕を引かれた。
「おい」
「!……なんだ、君か。どうかした?」
「いいから行くぞ」
「え、行くってどこに……」
腕を引かれ連れてこられたのは植物園だった。
これはバレてる……
植物園に着いてからも腕が離されることは無く、ようやく離されたのは彼がいつも昼寝に使っているスペースまで来た時だった。
彼はその場で横になると何も言わずに隣を叩いた。ここに来いと言っているのだ。
仕方ないとため息をひとつ吐き彼の望み通り横になる。
頭上に腕が回ってきてそのまま抱き込まれた。
「少しくらい無理をしても平気だと思ったんだ、明日の集会が終われば暫く予定もない。だから――」
黙っていても彼はきっと何も言わないのだろうが何となく後ろめたくて言い訳をしてしまう。
零された言い訳を彼は黙って聞いていた。
***
ようやく寝たか。
Kの腕の中では××が静かに眠っていた。
××は周囲によく頼られる。そのくせ自身は誰をも頼ろうとしない。そうして限界を迎えるのだ。
その度にKは××を植物園へと連れ込んだ。
××が泣くことはない。きっと××はKがいなくとも一人で何とかしてしまうのだろう。
それでも苦しい時やつらい時くらい己の腕の中にいれば良いとKは思うのだ。