酸素
水やりを終えたらすぐに帰るつもりだった。
なのに、なぜだかその気になれなくて、空になった如雨露を手にしたまま濡れた葉をぼんやりと眺めていた。
「ねー、なにしてんの?」
不意に背後から声がしたが反応はしなかった。というより、それが自分に向けられたものだと思わなかった。
葉の先から零れ落ちた雫が地面へ小さなシミを作っていく。ただそれだけを見ていた。
ふと、潮風のような匂いが鼻をかすめた。
――海の匂い?
そんな疑問が浮かぶより早く、誰かの影が私に覆いかぶさった。
「……無視?」
耳元に落ちた声に心臓が跳ねる。
驚いて振り向くとすぐそばにFがいて、こちらをじっと見つめていた。
「……ごめん、無視をしたつもりはなかった」
少し遅れてそう答えた声は我ながら硬かった。
不意をつかれたせいもあるが、何よりFに話しかけられる理由がわからなかった。
学年も違えば、所属している部活も委員会も違う。Fとの接点を探す方が難しい。むしろ接点があるとすれば、それはFではなく彼の兄の方だろう。同じ役職持ちで、部活こそ違うものの、この植物園にもよく訪れている彼とは顔を合わせることも多かった。
「それ面白い?」
こちらの様子など気にすることもなく投げかけられた言葉に、すぐに反応することが出来なかった。何のことだと戸惑っているとそれが伝わったのか、Fは更に言葉を続ける。
「葉っぱ。ずっと見てたから」
その一言に思わず葉に視線を落とす。
そんなに見ていただろうか。
どうやら時間のことも忘れ、葉に夢中になっていたらしい。
「……ちょっと、ぼーっとしてただけだよ」
Fはそれ以上何かを言うことはなく、「ふーん」とだけ返して、すっと私の隣にしゃがみ込んだ。
Fは何をしに来たんだろう?
そう思ったが、偶然通りがかっただけかもしれない。わざわざ聞くほどのことでもないか、と口に出すことはしなかった。
私はその場に立ったまま、帰った方がいいのか、それとも何か話した方がいいのか、そんなことを考えていた。
「ねぇ」
不意にかけられた声になんとなく顔を向けると、しゃがんだままこちらを見上げているFと目が合った。
Fは私よりずっと背が高い。そんなFに見上げられているというだけで何だか少し不思議な気分になる。
新鮮だな、なんてどうでもいいことを考えていると、目の前のFが静かに口を開いた。
「好きだよ」
その言葉はあまりにもあっさりと落とされた。
「……え?」
間の抜けた声が出た。けれど、Fはそんな私を気にする様子もなく言葉を重ねる。
「オレと付き合って」
その一言に思わず目を瞬かせる。
あまりにも自然で一瞬聞き間違いかとすら思ったそれはどうやら聞き間違いではないらしい。
けれど、理解は追いつかず私はただ黙って立ち尽くすことしかできない。
何も言えずにいるとFがゆっくりと立ち上がった。
ただそれだけの動作なのに、近くなった距離に思わず後ずさりしそうになる。
「先生を好きなのは知ってる」
その言葉に喉の奥がひゅっと凍ったような気がした。
――どうして
Fは先生としか言わなかった。けれど、それだけでFがすべて知っていると理解するには十分だった。
どうしてバレた?どこかで気付かれるようなことをした?
隠してた。ちゃんと隠していたはずなのに──
心臓が早鐘を打つ音だけがうるさく響いて、視界の端がじわじわと暗くなる。
「……そんな顔しないで」
耳元に落ちた声がやけに鮮明に響いて、思考が現実に引き戻される。
そんなに酷い顔をしていただろうか。
自分の表情がどうなっているのかなんてわからない。
「オレが気づいたのはアンタのせいじゃない。多分オレ以外に気づいてるやつもいないと思う」
「……じゃあ、どうして」
答えを求めているというより、ただ混乱を吐き出すように零れた言葉だった。
「言ったでしょ。オレ、アンタが好きなんだよ。好きな人のことくらい、わかるよ」
落ち着き払った声と、変わらない表情。
Fはどこまでも淡々として見えた。
私だけがこんなにも乱されていて、気づけばもう、言葉すら出てこなかった。
「先生を好きなままでいいよ。それでもいい、だから──」
「オレと付き合ってよ」
まるで日常の会話みたいにFは静かにそう言った。
けれど、そこには確かな熱があって、私の心を静かに追い詰めるようだった。
何かを確かめるみたいにFの手がゆっくりと私に向かって伸びてくる。
いつだったか、たまたま触れたFの手の冷たさに驚いたことがある。
けれど、頬に触れたその手は私よりもずっと熱かった。
答えを出さなきゃいけないことはわかっていた。
でも、頭の中はとっくにぐちゃぐちゃで、私は思考を放棄した。
それが狡いことだとわかっていながら、私は目を閉じた。
まるで酸素を奪われるような
あたたかくて、ひどく、やさしいキスだった。
5/15/2025, 5:25:56 AM