ブランコ
放課後、ふらりと立ち寄った公園で私はブランコに腰かけていた。
足で地面を軽く蹴ると鎖がきしんで、身体が前に運ばれる。
緩慢に足を動かしながら昼休みのことを思い出していた。
――彼氏、できたんだ。
昼休み。いつもの四人で昼食をとっている時だった。
購買のパンの袋を開ける音や、弁当箱の蓋が当たる音に紛れて、その言葉は落とされた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
箸を持ったまま、次に何を食べようとしていたのか思い出せない。口の中の味が急にしなくなった。
「えー! おめでとう!」
「いいじゃん、どんな人?」
二人の声が少し遅れて届く。
教室のざわめきがやけに遠くに感じた。
「どうした? …あ、寂しいんでしょ」
「いっつも一緒にいるもんね」
そう言われて、ようやく自分が黙っていたことに気がついた。
何か言わなきゃ、咄嗟にそう思った。
「私、二番目の女に降格するってこと?!」
なんて、冗談みたいに言って笑ってみせる。
震えそうになる声を必死に抑えて、下がりそうになる口角を無理やり上げて。そうやって取り繕う自分の姿はあまりにも惨めで、滑稽で、情けなかった。
好きだと言えば好きだと返してくれ、腕を組んでも手を繋いでも振りほどかれず、いつも私を隣にいさせてくれた。私を一番にしてくれていた。
告白なんてしなくても想いは通じているのだと、信じていた。
でも、それは私だけだった。
ブランコが前に行き、また戻る。
どれだけ足を伸ばしても同じ場所にしか戻れない。
近づいた気になっていただけ。進んだ気になっていただけ。
そこから先へは最初から届くはずがなかった。
隣にいると思っていた彼女は、地面にしっかり足をつけ、別の誰かと歩き始めていて、私だけが宙に浮かんだまま取り残されている。
悲しいとは思わなかった。ただ情けなくて恥ずかしくて。それだけなのに、視界が滲み、目の前が歪んでいく。瞬きをすると頬の濡れた感触と引き換えに、一瞬だけ視界が戻る。けれどすぐにまた歪んで、滲んで、どうにもならなくなる。
一度こぼれてしまった涙は、堰を切ったように溢れ出して、もう止め方がわからなかった。
投げ出した足が地面を削っていく。ブランコの振れ幅が少しずつ小さくなって、ほとんど動かなくなっても涙は止まらなかった。
どうして泣いているのかもわからない。
それなのに溢れ出す涙が、彼女のことを思い出させて、声にならない笑いが喉の奥から漏れた。
君に会いたくて
ボウルの中でバターを混ぜる。やわらかくなっていく感触だけに意識を向けていた。
お菓子を作っていると胸が落ち着く。
手順はもう身体が覚えているし、余計なことを考えずに済むから。
することもなくなり、オーブンをぼんやりと眺めていると、程なくして焼き上がりを知らせる音がした。
扉を開けると、甘い匂いが一気に広がる。
綺麗に色付いたクッキーを取り出して粗熱をとり、作っておいたクリームを挟んだ。
出来上がったそれを崩れないようにそっと箱に詰める。
変わらないな、と頭のどこかで思う。
それ以上考えないようにして、箱を閉じた。
バターサンドクッキー。
それは彼の好物だった。
会いたい、という気持ちをそのまま差し出す勇気がない。だから甘い匂いに包んで、理由を作る。
恋人なのに、と自分でも思う。彼が自分を拒むことなんてない。そんなことは、ちゃんとわかっている。
それでも、手は自然と逃げ道を用意してしまう。
何も持たずに行くより、何かを差し出す方が安心できるから。
染みついてしまった逃げ癖は簡単には治りそうにない。
玄関で靴を履きながら、紙袋を持った手を見下ろす。
紙袋の持ち手から、指に伝わる感触がはっきりしていた。
落とさないようにしているのか、早く手放したいのか、自分でもわからない。
これがなかったら、自分はどんな顔で彼の前に立つのだろう。
彼の家は然程遠くない。
少し考えごとをしていれば、すぐに着いてしまう。
歩き慣れた道を進んでいると、いつの間にか扉の前まで来ていた。
これまで何度も来ているはずなのに、来るたびに少しだけ落ち着かない。
そのまま扉の前で立ち尽くしてしまう。
ここまで来て今さら何を迷っているのか。
気持ちを振り払うように伸ばした指はインターホンに届く前に、一瞬、動きを止める。それでも構うことなく、そのままボタンを押した。
チャイムが鳴ってすぐ扉が開く。
「今日はいつもより早かったな」
「…そうですか?」
これで彼を誤魔化せるとは思っていない。
それでも彼は、すぐには何も言わなかった。扉に手をかけたまま、少しだけ目を細めてこちらを見る。
見透かすようでも、責めるようでもない視線だった。
きっと彼は、いつも扉の前で立ち止まってしまうことを知っている。
インターホンを押す前のほんの一瞬、時間を無駄にしていることも。
それを指摘しないまま、今日もこうして迎え入れてくれる。
そんな彼の優しさに今日も甘えてしまう。
促されるまま玄関に足を踏み入れると、後ろで扉が閉まる音がした。外の空気が遮られ、いつもと変わらない匂いが鼻に届く。それを確かめるように小さく息を吸った。
紙袋を持ち直して、クッキーを差し出す。
彼は呆れたような顔をしながらも口元を緩ませる。叱るでも、喜ぶでもない。ただ愛おしむみたいな表情が、何だか恥ずかしかった。
お菓子作りそのものは嫌いじゃない。
むしろ好きだと思う。
誰かに食べてもらえるのも嬉しい。
ただ、このクッキーだけは少し違う。
彼に渡すために作ったそれは、贈り物であると同時に、自分を守るためのものでもあった。
彼はこのクッキーが保身であると、きっとわかっている。
それでも何も言わず、拒まず、受け取ってくれる。
ありがたいと思う。
こんな自分を、そのまま受け入れてくれることが。
そんな彼にずっと甘えている。
いつまで、こんな風に理由を手にしてここへ来るんだろう。
その問いに答えを出さないまま、今日まで来てしまった。
もし明日、何も持たずに訪れたら彼は驚くだろうか。
どうして
「ねえ、わたし貴方が好きよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は頭を殴られたような衝撃に襲われた。
思考が一気に真っ白になり、音が遠のく。
目の前の景色は輪郭を失い、意味を持たなくなった。
彼女の表情を見ようとする前に、脳が拒絶した。
これ以上、見たくない。聞きたくない。
脳が全身に「逃げろ」と信号を送る。
それなのに身体は凍りついたように動かず、口も開かない。
呼吸の仕方すら、わからなくなりそうだった。
彼女の隣にいるために、諦めて。
彼女の幸せのために、距離を取って。
何度も、何度も、自分の気持ちを殺してきた。
その結果がこの仕打ちだというのだろうか。
「……ようやく気づいたの。遅すぎた、よね。ごめんね」
胸の奥で何かがぐちゃりと潰れる音がした気がした。
頭がうまく働かない。
この感情がなんなのか、この感情をどう処理したらいいのか、もう何もわからなかった。
ただただ不快で、不当で、理不尽だった。
私は、終わらせたのだ。
自分の中で、きちんと。
彼女を好きだった時間に区切りをつけて、思い出を綺麗なまま棚に並べて。
触れないようにして生きてきた。
それを、どうして今さら。
彼女はきっと軽い気持ちで言ったわけじゃない。
苦しんで、悩んで、考え抜いた末の言葉なのだろう。
それくらいわかってしまう自分が嫌だった。
綺麗な思い出のままでいられると思っていた。
知らなければ、私はこのまま彼女を静かに想っていられたのに。
あなたはまた、私を傷つけるのね。
彼女はもう前を向いている。
結ばれないことも、戻れないことも、全部理解したうえで、ここに立っている。
取り残されているのは、私だけだ。
あなたはいつも私をおいていってしまう。
あなたの隣にいたいだけなのに、それすら許されないというのだろうか。
あなたを好きでいることは痛くて痛くて堪らなかった。
いっそ嫌いになりたいと何度も願った。
それでも、私はあなたが好きだった。
何か言わなければいけない気がした。
でも、言葉はどれも違った。
責めるには遅すぎて、許すには、あまりにも残酷で。
「……そう」
ようやく絞り出したそれは理解でも拒絶でもなく、ただの終わりだった。
何もかも全部、
どうしようもなく、手遅れだった。
三日月
彼はいつだって穏やかに笑っていた。
面倒事を押しつけられても、理不尽な役回りを任されても、彼が声を荒らげることはなかった。
いつの間にか雑用も仲裁も彼の仕事になり、周囲はそれを当然のように受け取っていた。
それでも彼は不満を口にすることもなく、大したことじゃない、と困ったように笑うだけだった。
損な人だと思っていた。
彼と深く関わる気はなかった。
そんな中、些細なトラブルに巻き込まれた私を助けてくれたのが彼だった。
それがきっかけとなり、彼との接点は確実に増えた。
私にとって彼は本来なら避けるべき存在だった。
なぜなら彼の女王こそが私の標的で、標的に最も近い存在である彼と深く関わることは明らかなリスクだったからだ。
それでも私は、彼と行動を共にする危険より、彼の動向を把握できる利点のほうが大きいと判断した。何より、周囲に慕われている彼を不自然に避ければ余計な注意を引いてしまう。警戒される理由を与える方が、よほど危険だった。
小さな齟齬が生じ始めたのは、その頃だ。
準備していた手順が微妙に噛み合わない。想定していなかった妨害が、こちらの動きを先回りするように現れる。違和感はあった。だが、彼を疑う理由にはならなかった。
計画は慎重に練り上げ、彼に悟られるような痕跡も残していない。何より、彼自身に不自然な動きは見られなかった。相変わらず温厚で、善良で、頼まれれば断れない男のままだった。疑念を抱くほうが過剰反応に思えた。
だから私は、その違和感を切り捨てた。
この計画に綻びはないと自分に言い聞かせながら。
根回しは終わっていた。あとは動くだけ、そう確信していたその日、すべてが崩れた。情報は漏れ、協力者は離れ、逃げ道は塞がれた。計画は外側からではなく、内側から崩壊した。
行き場を失った私の前に、彼は現れた。
灯りの落ちた部屋で彼の顔を見ることはできない。
ただ一箇所、窓から差し込んだ月明かりが彼の口元だけを淡く照らし出している。
その唇は、三日月のように歪んだ弧を描いていた。
私は、すべてを理解した。
最初から、この結末は決まっていたのだと。
――すべてが、彼の掌の上だった。
色とりどり
子供の頃、一度だけ迷子になったことがある。
人の流れの中で母の姿を見失い、どうしていいか分からず、気づけばその場に立ち尽くして泣いていた。
「どうしたの?」
そう声をかけてくれたのが彼女だった。
白いエプロンをつけた少し年上の女の子。近くのパティスリーが家だと言った彼女は、ここだと危ないから、と僕の手を引いて店の中に連れていってくれた。扉を開けた瞬間、甘い匂いに包まれて、泣いていた理由がどうでもよくなった。
ショーケースの中には色とりどりのケーキが並んでいた。
赤や黄色、白や淡い緑。きらきらしていて、まるで別の世界だった。彼女は店の奥から小さなお皿を持ってきて、これ食べる?といちごのタルトを切り分けてくれた。
そのタルトはとても美味しかった。
味そのものよりも、安心した気持ちと、彼女の優しい声と、目の前に広がる色彩が混ざり合って、胸いっぱいになった。あのときは気づいていなかったけれど、今思えば、あれが初恋だったのだと思う。
母が迎えに来て、僕は母と一緒に何度も頭を下げた。
名前を聞く勇気はなく、ただ彼女の笑顔だけが色とりどりのケーキと一緒に心に残った。
あれから数年が経ち、高校生になったある日。
放課後、友人と立ち寄った街のパティスリーでショーケースを覗いていると、視界の端で誰かが立ち止まった。
妙に気になって顔を上げると、歳の近い女性が立っていた。あのときより大人びているけれど、彼女だとすぐにわかった。
目が合った瞬間、彼女は少し驚いてから微笑んだ。
「もしかして、昔、迷子だった子?」
その一言で、時間が一気に戻った。覚えていてくれたことが、ただそれだけで嬉しかった。
あのとき聞けなかった名前を知り、ケーキと一緒に少しだけお茶をした。
話をして、やっぱり好きだと思った。でもその気持ちは、何かを求めるものではなかった。彼女を手に入れたいというより、彼女に幸せでいてほしいと願う、穏やかな感情だった。恋は、いつの間にか愛に変わっていたのだと思う。
特別なことは何もしなかった。
別れ際、ショーケースの中のケーキは、あの日と同じように色とりどりだった。
好きになることは、相手を求めることであり、結ばれることで完成するものだと思っていた。
けれど、完成しなかったからこそ、今も形を変えずに残っている想いがあることを、少しずつ理解するようになった。時間が経っても色褪せない記憶があるのだと。
色とりどりのケーキと一緒に胸に残るこの記憶は、間違いなく僕の初恋だった。綺麗で、大切で、これからも静かに心を彩り続ける思い出だ。