#目が覚めるまでに
今夜も僕は眠りにつく
贅沢ではないけれど、
大好きだった肉じゃがをつくって
シャワーを浴びて体を清めて
アールグレイの紅茶をミルクで割って、
さよならのつもりで飲み干して
そうしてベッドに横たわって
目を閉じて
祈る
朝、目が覚めたら
消えていますように
僕の体が
僕という存在が
だれかを道連れにしようなんて思わない
地球の滅亡も
大災害も
飛行機事故も願わない
僕だけでいいんです
神さま
どうか
僕という存在が
ひっそりと
シャボン玉のように
この夜のうちに
パチンと消えてしまいますように
どうぞ
神さま
他には何もいらないんです
ささやかな わがままなんです
僕の命は
本当に生きたい誰かにあげてください
僕には重すぎるから
こんな僕でも
一度くらい、誰かの役に立ちたかったんです
閉じたままの目から
ポロポロ涙が溢れだして
枕を濡らし
部屋を水浸しにし
真っ暗な湖底に僕を沈める
もう来ない
もう朝は来ない
ああ、よかった
ようやく僕は、解放される……
明るくなった部屋の中で
僕はふたたび
目を開けた
カーテンを透かした窓の外に
また、朝が来ていた
その光に目を細めて
僕は
この世界には
神さまなんていないんだと知った
#澄んだ瞳
アイス買いに行ったんだよね、コンビニまで。
死ぬほど暑かったからさ。
いつも行くコンビニはアパートから5分くらい。
けど品揃えがビミョーなんだわ、あそこ。
だから駅前のコンビニまで頑張った。
そっちは歩いて10分くらい。
チョコミントが食べたかったんだよ。
みんな湿布だのハミガキ粉だのバカにするけど、わかってないな。あのスーッとするのがいいんだって。
自動ドアを出た途端、後悔した。
ダメだ。
暑すぎる。
鍋に放り込まれるタラバガニってこんな気分なのかも。
アイス噛りながら帰ろうと思ってたんだけど、そんな呑気なことやってらんない暑さ。
ビニール剥いた途端みるみる溶けてくアイス。
垂れないように必死で舐めてるうちに、気づいたら、見慣れない路地を歩いてた。
あれ、と思った。
曲がる角まちがえたのかな、って。
住宅街のど真ん中。
ちょっと懐かしい感じのする道だった。
白茶けたブロック塀とか、色褪せたポスターとかから、なんとなくレトロな感じがしたのかもしれない。
チリン、チリン。
どこかで風鈴の音がした。
路地の先からだ。
屋台がひとつ出てる。
屋台と言ってもリヤカーに赤い色褪せたパラソルをさしてあるだけ。
リヤカーの荷台には大きな盥がひとつ。
氷水を張って、青いラムネ瓶がたくさん冷えてる。
ビー玉がぎっしり詰まった瓶もある。
下が膨らんでる、でっかいフラスコみたいな瓶。
ディスプレイ用?
無人販売に毛が生えた程度の屋台だ。小洒落た演出をするようにも見えない。
飲み終わったビー玉を回収してるのか?
ビー玉は色とりどりで、黒っぽいものが多い。あと白。グリーンやブルーもある。強い陽射しにキラキラ光っている。
チリン、チリン。
さっきから鳴ってる風鈴はパラソルの先で揺れてた。
カラン。
盥の中で氷が溶けて、ラムネ瓶が軽くぶつかる。
無性に喉が渇いてきた。
リヤカーの横には、折り畳み椅子をひろげて麦わら帽子のおっさんが1人座っている。
食堂の隅に置き忘れられたような黄ばんだ新聞を読んでいる。
「それ、1本ください」
ラムネ瓶を指して声をかけると、麦わら帽子のおっさんは新聞から顔を上げずに、盥の前を叩いた。
A4の紙が貼ってある。
『✕✕✕✕』
うーむ。読めない。
水滴でペンがにじんだのか、元々達筆すぎるのか。
まあ、どんなにボッタクリでもラムネ1本。タカが知れてるだろ。
500円までなら出してもいいと思ってた。
チョコミントアイスはとっくに棒きれになってる。
とにかく喉が渇いていた。
ポケットへ手を伸ばして、しまった、と気づいた。
スマホしか持ってない。
ダメ元で決済アプリの画面を見せたが、おっさんはチラッと画面を睨んで、面倒くさそうに盥に貼った紙を叩いた。
「買うのか?」と、盥の中からちょっとラムネ瓶を持ち上げて見せてくる。
そりゃ、飲みたいけどさ。
あいにく現金は置いてきてしまった。
仕方ないから、大丈夫です、と首をふった。
諦めて、帰ろうとした時だった。
カラン。
盥の中でラムネ瓶が傾いた。
ディスプレイ用の瓶の中で、ビー玉がコロコロ転がった。
その時、やっと気づいた。
そのビー玉、俺を見てたんだ。
そう。
「見てた」。
ビー玉じゃなかったんだ、瓶の中身。
目玉だった。
人間の。
カラフルだと思ってたのは虹彩で、白い部分は白目だった。
ゾッとした。
全部違う人間の目玉だって、なぜかわかった。
色も大きさもバラバラだから?
この瓶いっぱいにするのに何十人必要なんだろ、持ち主はどうなったんだろって、無意識に考えるのが止まらない。
もう、軽くパニック。
目をそらしたい。けど動けない。
体が凍りついて、金縛りみたいになってた。
だって、わかっちゃったんだわ。
コイツら全員、このラムネ買ったんだって。
瓶の中には青っぽい水が詰まっている。
ぎゅうぎゅうに浮かんだ大量の目玉。
やけに潤いのある虹彩と、少し血走った白目で、じっと俺を見つめてくる。
明らかに、俺に焦点を合わせてた。
目玉ぜんぶが。
「ヒッ」と叫んで、飛びのいてた。
情けない声だったけど、ようやく動けてほっとしてた。
ものすごい突風が路地を吹きぬけて、思わず目をとじた。
目をあけると、見慣れた路地に立っていた。
ラムネの屋台も、麦わら帽子のおっさんも、どこにも見あたらない。
蝉がジージー鳴いている。
むこうの大通りを車が走っている音がする。
あの紙、何て書いてあったんだろうな。
あの時うなずいていたら、どうなってたんだろ。
瓶の中から苦しそうに見上げてた目玉を思い出して、まぶたがチリチリした。
灼けつくように暑いのに、背筋の悪寒が止まらなかった。
#嵐が来ようとも
折れてしまうだろうと思った。
彼は、やさしい人だったから。
やさしくて、繊細で、断れない人だった。
彼の周囲はいつでも、森の奥のちいさな野原のように穏やかだった。
彼の人柄そのものだった。
争いを好まない人だった。
強く言い出せなくて、大声を出すのが苦手だった。
よく笑っていた。
くだらないジョークが好きで、周囲とはちょっとズレたテンポで、いつまでも面白そうに笑っていてた。
なぜ彼が、矢面に立つことを選んだのか。
わたしには分からなかった。
人には向き不向きがある。
彼は、明らかに向いていなかった。
悪意に晒されることに。
強い言葉で叩かれることに。
傷つけるためだけに尖らせた切っ先で、ズタズタに引き裂かれることに。
もっと向いている人はたくさんいた。
防御が上手い人、受け流すのが上手い人、彼より強い人はたくさんいた。
でも彼は、断れない人だった。
嫌だと言えない人だった。
彼に押しつけた彼の仲間たちを、ズルいと思った。
嵐が過ぎ去った原っぱに、
吹き溜まった落ち葉や枯れ枝の底に、
けれど、
彼はまだ、咲いていた。
やわらかくみずみずしかった葉っぱは傷ついて、花びらは何枚も吹き飛ばされて、
茎もひしゃげて、
それでも彼は、まっすぐ空をみつめていた。
嵐のあとの、明るくなりはじめた空を見上げていた。
彼は、強かった。
わたしが思っていたより、ずっと。
彼はまた笑うようになった。
ちぎれてしまった花びらはそのままだけど、
どこか吹っ切れた笑顔だった。
少しだけ、やわらかな茎にトゲを纏うようになった。
少しだけ、したたかな笑みを浮かべるようになった。
雲の切れ間から、夜明けの光が射していた。
#お祭り
神社で印象的な経験をしたことがある。
その神社は家の近所……と言っても歩いて30分くらいの、川を越えた先にある。
川岸を散歩して、気が向いたらフラッと寄って、一息ついて帰ってくる。
小さな神社だ。
5分もあれば、端から端まで見終わってしまう。
拝殿はいつも閉まっている。
社務所に人がいて御守りや御神札が配られるのは、初詣のような限られた時期だけ。
入り口のご由緒書きによれば歴史は古いらしいものの、他の参拝客を見かけることはほとんどない。
ある日、いつものように散歩の途中で立ち寄って、驚いた。
鳥居を一歩入った途端、空気がガラッとちがったのだ。
まばらな木々に囲まれたせまい参道も、その先にぽっかり広がるこぢんまりした境内も、なぜかキラキラして見える。あいかわらず参拝客の姿はない。
いつもと同じ、地味で飾り気のない、地元の神社。
なのに、別の神社みたいに空気がまったくちがう。
清々しくて、エネルギッシュで、無性にワクワクする。
どこもかしこも、洗いたてのように綺麗に見えた。
拝殿の扉は開いていた。
そよ風に白や紫の布がゆれて、清められた板の間の奥に、白木の台が置かれている。台には三宝がならべられ、米や野菜が盛られている。
「いる」と感じた。
今日は、神社の住人が「いる」。
本殿に住んでいるのは「神さま」だ。
びっくりした。
霊感なんてまったくない。神社は好きだけどスピリチュアルだのパワースポットだのをウサンクサイと思っている。
でも、その日ははっきり感じた。「今日は、神さまがいる」と。
うまく言えないが、中身がしっかり詰まっている感じがした。
社務所の扉も開いていて、車が一台停まっていた。
しゃっきり姿勢のいいご老人が1人、車から降りてくる。紫色の袴をはいていた。
「今日は、何かあるんですか?」
わたしが訊ねると、その神職さん(紋入りの紫袴なのでおそらく宮司さん)が教えてくれた。
「ここの神さまの、お祭りですよ」
「お祭り」
屋台などは出ていなかった。
月次祭だったのだと思う。
(そうか。お祭りの日は、神さまがちゃんと帰ってくるんだなぁ)
肌感覚でそう納得した経験だった。
あの日ほどあの神社が綺麗に見えたことは、いまだにない。
#神様が舞い降りてきて、こう言った。
『もっと頑張りなさい。
怠け心はいけません。
おまえは善良で勤勉な人間なのだから。
大丈夫、おまえなら必ず、できますよ』
悪魔がやってきて、ささやいた。
『そんなに躍起になって、何になる?
おまえがどんなに頑張ったって、
おまえの限界は知れてるんだ。
適当でいいのさ、世の中ぜんぶ。
良い子ぶって、笑っちまうぜ!』
悪魔の言葉に腹を立てて、
彼は握りしめたハンマーを、思いっきり壁に振りおろした。
ピシピシと亀裂が走り、
世界が粉々に砕け散った。
そうして、彼は
生まれてはじめて、
頭の上の青空から、明るい陽光が射すのを見た。
粉々になった檻の欠片が、
夏の終わりの蝉の死骸のように、
足元いっぱいに転がっていた。
神様がやってきた。
いつものように微笑んでいるその顔は、
ダンボール紙でできたお面だった。
「もっと頑張りなさい。
怠け心はいけません。
なんて怠惰な人間なんだ。
おまえの本性はクズなのに、
努力すらできないなんて、情けない」
悪魔がやってきた。
見慣れたその顔は疲れ果てていたが、
黒い服を着ているだけの、ふつうの人間だった。
「そんなに躍起になって、何になる?
人間の体には、限界があるんだ。
人間の心にも、限界があるんだ。
適当でいいのさ、世の中ぜんぶ。
おれはようやく、それがわかったよ」
彼はその場に立ち尽くして、
ぽろぽろ涙をこぼした。
彼の手から、重たいハンマーが滑り落ちて
足元にちらばる檻の死骸を、枯れ草のように吹き飛ばした。