#あの日の景色
真っ青な海の底深くを、人魚の子どもが泳いでいました。
興奮しているようすです。
ちいさな手に、なにかを握りしめています。
四角くて、ペラペラで、ふしぎな模様がついています。
子どもはサンゴの森の岩場まで泳いでくると、巣穴へもぐりこみました。
ふかふかの砂のうえに寝転がって、握っていたものをひろげました。
「なんの模様なんだろう?」
天井にすかしてみます。
嵐の海底に波がのこしていく砂絵みたいです。
曲線や直線がふくざつに重なって、ふしぎなカタマリがぽつんぽつんと、押し流されてきた小石や貝殻みたいに置かれています。
それは人間たちが「写真」と呼ぶものです。
山あいの港街の、のどかな朝の景色です。
もちろん、人魚の子どもは知りません。
「陸の絵なのかも」
なんとなく、そんな気がしました。
こういうよくわからないものは、たいてい陸から流れ着きます。
「陸の波がかいたんだ」
ワクワクしました。
海底の波は、いたずら好きです。
ふしぎな模様をえがいては、人魚たちをからかいます。砂にのこった謎かけや宝の地図を人魚たちがのぞきこみ、しきりに首をひねっている姿をみて、うれしそうにゆらゆらします。
人魚たちはみんな、波がしかけていく謎が大好きです。人魚の子どもも、そのひとりです。嵐の夜、巣穴の奥で丸まって眠りながら「きっと早起きをして、だれよりも先に謎をといてみせるぞ」と、いつも楽しみにしています。
陸の波は、どうしてこの絵をかいたのでしょう?
「やっぱり、宝の地図かなぁ?」
絵のまんなかの、稜線と稜線の重なる部分があかるく光っています。
きっと、宝の隠し場所です。
本当は、山のあいだからのぼる太陽なのですが、人魚の子どもは知りません。
ワクワクして、夜更けまでずっと、その絵をながめていました。
次の日も、その次の日も、陸の絵ばかりをながめて過ごすようになりました。
「どんな場所なんだろう?」
気づくと、そればかり考えています。
行ってみたくてソワソワします。
けれど、簡単なことではありません。
頭上できらきら光る海面は、ずっとずっと遠い場所にあります。子どもの尾びれでは到底たどり着けません。
――泳いでいってはいけません。
陸はとっても危険なところ。網でつかまえられて、ペロッと食べられてしまうんだよ。
大人たちはそう、子どもたちを脅します。
人魚の子どもは毎晩、枕元の砂をこっそり掘りおこします。
砂の下に隠しておいた陸の絵をそっととりだし、うっとりとながめ、また砂の下にかくして眠ります。
そうして、陸の夢を見るのです。
尾びれで空をけって、陸をすいすい泳ぎまわっている夢を。
稜線と稜線のかさなる場所を尾びれで掘りかえして、とうとう、金色にかがやく宝を見つけだす夢を……
数十年後。
人魚がひとり、海面に顔をだしました。
大きな手に、陸の絵を握りしめています。
すっかり大人になった人魚は、陽の光のまぶしさにびっくりして目を細め、それから、ゆっくり周囲を見回しました。
目がキラキラしています。
頬がほてっています。
はちきれそうなくらい、胸がドキドキしています。
人魚は握っている絵を見て、それから、陸をめざして泳ぎはじめました。
絵はすっかりボロボロです。
色褪せて真っ白になっています。
でも、模様はちゃんと頭のなかにあります。
毎日毎日、穴が空くほどながめていましたから、隅々まではっきり思い出せます。
人魚は河口までやってくると、川をさかのぼりはじめました。
どんどん、どんどん泳いでいきます。
太陽が真上にのぼって、真っ赤な夕焼け空のむこうに沈み、星がまたたきはじめても、人魚は泳ぎつづけました。
やがて、川のようすが変わってきました。
流れがゆるやかになり、川岸の土壁がかたい石でおおわれはじめました。水がにごり、腐った泥のにおいがしてきました。
すっかりにごった川の行き止まりで、人魚はふたたび水面に顔を出しました。
そこは人間が「港街」と呼ぶ場所です。
立ち並ぶレンガ造りの倉庫、大きな石橋がいくつも水路を横切って、ひしめく家々の屋根と教会の尖塔が青空を貫いている、美しい水の都でした。
けれど、今はちがいます。
倉庫はボロボロに崩れています。
石橋は落ち、家々は黒く焼け焦げています。
教会の尖塔は真っ二つに折れて、屋根にはなにかが墜落したような大きな穴があいています。
瓦礫に埋もれた街のあちこちに、ひしゃげた砲台や、錆びついた戦車が、とりのこされたように風化しています。
日の出になりました。
街を囲む山々の稜線から、太陽がゆっくりのぼってきます。
陽の光が、灰色の廃墟を照らしています。
そのまぶしい金色だけが、人魚の頭のなかにある絵とぴったり重なるものでした。
人魚は握りしめていた絵を見ました。
ほとんど白く褪せたその絵を、じっと見つめていました。
やがて、人魚は顔をあげました。
にごった水にもぐり、尾びれで水をけって、海へひきかえしていきました。もう二度と、海面へは上がってきせんでした。
港のにごった水中では、真っ白に色褪せた古い写真が、ゆっくりゆっくり、泥底へ沈んでゆきました。
7/9/2025, 3:07:37 AM